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1 説教準備は本でできるものではない
神様のために働く人は本当にかわいそうです。孤独な人です。人間と相談して生命の福音を受けようと本を見れば、それは参考になり、人工的な葉にはなりますが、原則的な葉にはなれません。本を見ることも、その人が感じた思想的な感触、新しい感触を中心にして反応的な感じを得るのに何の助けにもなりません。むしろ妨げとなる時が多いのです。ですから霊的指導者は孤独な人なのです。それを皆さんは知らないでしょう? そうでなければならないのです。そうあるべきです。先生も一人でやるから……。
先生がここにいる時に、清平も遠しとせずに毎日通うのもそうだからです。寒い時、あるいは日の光が降り注ぐ時、あるいは風が吹く時、全部違うのです。新しい味、心の中に感じられる新しい恩恵の雰囲気、神様を通じて来る新しいその感触が必要なので……。御飯を食べられないなら食べられないだけのこと、そういうものが必要です。そういうものが必要だというのです。人々に対しつつ、受けたその感じに勝っていかなければ……。人に対することをつまらないことのようにやってはいけません。義務的な過程からは復活の役事が起こりません。おもしろみがなければなりません。夜の更けるのも知らずに夜を明かし、天国がここ以外にないという所にのみ、天国へ行ける価値が発見されます。そうではありませんか? 木も完全に密着してこそ接ぎ木されるのではないか、というのです。そうでしょう? (七五―一七七)
霊的指導者はそういう体恤的何かがなくては仕事ができないのです。本を見て説教の準備をし、本を見て天が……。その本の中に神様がいますか? そうではないのです。神様は神霊の中にいらっしゃるので、神霊を通じなければ駄目だということを、皆さんは知らなければなりません。
体恤的信仰は最も貴いものです。ですから統一教会へ入ってきた食口ならば、大概体恤するようになります。必ず体恤するというのです。どんなことが起こるかというと、皆さんの現実の生活圏内にすべて起こるのです。本当にみ旨のために、あるだけの精誠をささげれば、天が共にいてくださるのです。(七六―一五一)
皆さんが神様と直接密接な関係にあるのなら、説教の準備をしなかったと心配するなというのです。そういう訓練も必要です。私が有名な人に会うようになると、一日に十回話すこともあります。その時は、場所によって全部内容が違う話をしないといけないのです。ところがそれを全部準備して話しますか? そういう時の心は、完全に祭物としての自覚をするのです。祭物の自覚。「私」というものはありません。存在意識がないのです。所有観念もないのです。完全にささげられる場所なのです。(六〇―三四八)
「説教は聖日のみするものだ」と言っておいて、いざ聖日になると「聖書はどこを見ようか」「讃美歌出てこい、聖歌出てこい」。(笑い)それではいけません。そうするなというのです。人々に対する情報を中心にして、生きた材料を中心にして、聖書からそれと同じような歴史を引き抜いて、その人のことと聖書の内容を対照しながらおもしろく説教するのです。そうすると聞く人が自分のことを話すので、すっかりほれ込んでしまうのです。喜ぶのです。こうやっていくものです。分かりますか? 本を見てやろうと考えるのはやめなさい。人から本も出てくるのです。人自体が本の原本だということを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。(四六―二六五)
2 霊的な実力を具備しなければならない
皆さんも同じです。教会で一番難しいことを私がやる、というのです。いつでもそういう肝っ玉をもち、いつも周囲をきょろきょろせず、横に曲がるなというのです。そうできる皆さんになれば、皆さんは発展するのです。分かりますか、何のことか? (はい)。
皆さん、一番難しいのが霊的責任者の立場なのです。ですから祈祷しなければならないし、食口たちと夜を明かしつつ相談しなければならないし……。真理を討論しながら夜を明かすことがずっと継続する、そのような所は発展するのです。分かりますか? (はい)。村中の反対を受けるとしても……。
今も先生は、どこへ行っても、昔の私、一九六〇年代と同じ気分に返ると、そういう風が吹くのです。私がさっと行ってやると、その環境が一度に見事に変わるのです。そういう何かがあるのです。皆さんもそういう基準をもつために祈祷をせよ、というのです。霊的実力があってこそうまくいくのです。ですから祈祷をたくさんしなければならないのです。分かりますか? (はい)。
その時間を多くもてなくても、自分の心情のアンテナはいつもそこに集中していないといけないのです。二十四時間いつでもそこに向かって、どんな仕事をしても、その基準をもって生活するようになれば、祈祷時間をたくさんもたなくてもいいというのです。見ることもそれを中心にして見、感じることもそれを中心にして感じようとし、話すこともそれを中心にして話そうとし……。そうすれば説教の準備をしなくても説教の題目はいくらでもあるし、説教内容はいくらでもあるのです。あなたたちはそうではないでしょう? ぷつっと切っておいて、「あ、メモがどこへ行った?」と、いつもメモを捜して回るのです。あ、それはどこへ行ったかと……。
電気の線と同じなのです。そのメモをなくして「神様はどこへ行ったのか。ちょっと探してみよう」と言い、説教となると「ああ、神様」、そうやっていては駄目なのです。いつでも私には電気の線の端がなければなりません。ちょっと触るとピリピリ! プラス、マイナスを合わせると、ここに強烈なスパークが起きるように……。
先生はもう、ある家へすっと入ると、この家が精誠をささげた家かどうかということが、直ちに分かるのです。話をしなくても全部分かるのです。静かにしていると細胞がピリピリとし、電気が通ずるのが分かるのです。分かりますか? すうっと入ると、精誠をささげた所だ、ということが直ちに分かるのです。教会へ行ってみれば分かるのです。
そういう何かがあるので、神様のみ旨だ何だと従ってきて、今まで死にもせず、滅びもしないで残ってきたのです。それがなくて残ると思いますか? あなたたちみたいだと全部滅んだはずです。先生は話はしません。お母様にもある話は全くしないのです。ある時は失敗し、「きょうは何かあるはずだが」と言うと、「あなた、どうして分かるの」、「そうね、黙って見てなさい」、「やあ」、じっと見ている先生は何も知らないようで知っているのです。時々そういうのがばれる時があるのです。めったに話さないのです。それを全部理にかなったように話さないと邪悪な人になるのです。分かりますか? 「巫女、男の巫女みたいな人だ」といううわさが立つのが良いですか? 統一教会の文先生がそうであってもいいのですか? 駄目なのです。むしろそれよりは知らないようにしていて真理として……。その人はどうしてなのか知らないのです。話はするが、なぜそうなのか知らないのです。しかし先生は知っているのです。なぜそうなのか知っているのです。ですから教えを受けなければなりません。
ですから、そういうことは祈祷しないといけないというのです。そういうことは先生に従わないと駄目なのです。先生は他の人が受けた話は、本当によく聞いてあげます。「そうだったのか?」と、何も知らないようにです。ですから「人の話をよく聞いてくれる先生だ」と思うのです。そうでなければなりません。神様がその一人の人を開拓するために、そういう現象まで起こすのは本当に難しいのです。霊界からその人まで橋を架けようとするとき、その橋がどれほど爆発したか考えてごらんなさい。切られ、切られ、歴史時代、何代をも経てそういう橋を架けてくるまでに、どれほど苦労したことかというのです。私は専門家なので、それを知っています。その人に対する神様のみ旨があることを知っているので、夜を明かしながら聞いてあげるのです。そうしなければ駄目なのではありませんか? 全部知ってあげないと。違いますか?
皆さんもそういう何かがなくてはなりません。そうするには祈祷しなければなりません。分かりますか? (はい)。皆さんが伝道に出かけて、おぼろな道をそっと回って帰ってくる時、とめどもない涙を流すのです。帰ってくる時もそうでなければいけないというのです。「私が不足だったのか、きょう……」。神様が愛する息子、娘を求めて出かけたのに何の収穫もなく帰ってくる時は、私の精誠が不足していたことを感じなければならないのです。私を代身として立て、神様が求めんとした息子、娘を求められなかったことがどれほど恥ずかしいことでしょうか。
田んぼのあぜ道に立って大声で痛哭することもでき、木にすがってひっくり返って、自分の位置と立場も忘れて祈祷することもできないといけないというのです。皆さんはそういう時間を多くもたなければなりません。指導者ならば、せめて最低三日に一度はそういう感じをもたなければならないというのです。分かりますか? (七〇―一七四)
夜寝る時は、あすどこへ行くのかについて、「お父様! 私が行く道をお父様にゆだねますので、起きるとすぐ私の考える方向を定めてくださいませ」と祈祷します。そして、朝さっと起きると、「どこそこへ行かないといけない」という感じが入ってくるのです。案の定、行ってみると待っている人がいるのです。分かりますか?こうすることによって、皆さんの霊的心情を開発することができます。
そうなれば自分の考えがしきりに当たるのです。「きょうはこういうことがありそうだ」という思いがしきりに的中します。考えもしない中で、動機が私ではないところから考えが浮かぶ時は、必ずどうなるか見てみなければなりません。それを見ると、啓示的なものだったということを知ることができます。そうなるのです。そういう面を皆さんが発展させて、これから進んでくださるよう願います。(六〇―三四七)
3 心霊的生活が必要
一番初めに入ってきてうれしかったその心、一番初めに入ってきた時決心したその心、それがいつももっと強まり、もっと輝かなければなりません。さあ、このみ言をもったなら、「世界を間違いなく一つにする!」という自信をもてというのです。そういう心をもてというのです。私の話を全部貫き通し、そうなる環境をもてると考えていく人が……。さあ、そういう環境にいれば、ここに来る人はみな頭を上げられなくなるのです。いくら驕慢な人が来てもです。何か分からない霊的圧力に押されるのです。驕慢な心をもって、「この教会に何があるのか?」こうして来ると、不思議に体が動かなくなり、謙遜な心があれば、ここが自分の住む家のように感じられるというのです。
そうするには祈祷しなければならないのです。一人静かな所へ行って月を見上げて感謝し、すべての自然と呼吸できる神霊的生活が、祈祷生活が必要だというのです。先生もそうなのです。私が海へ出かけるのも、ベリータウンによく出かけるのも、その心情を体恤するためにそうするのです。それが御飯を食べることよりもっと貴いのです。一人で寝て、起きて座り、夜を明かすことがあり……。
さあ、ですからみ旨を思い、天を思い、痛哭できる心、愛する恋人を慕うのと同じ心、恋人と永遠に離別する時の、その物悲しい心がいつも残っていなければならないのです。そういうことを感じる人は、世間の愛する人もみな捨てて、そうして行くことができるのです。皆さんが今、先生の話を聞く場合は、その言葉だけを聞いているので、心情には響かないのではないかというのです。なぜそうなのですか? 体験がないのです。先生は既に、ある神霊を受けた牧師が壇上で説教すると、「ああ、あれは天が与える言葉だ」ということがすぐに分かるのです。皆さんは分からないのです。(九四―一五五)
自分自身が生活の最低まで潜り込んで、現実のすべてのことを観察してみなければなりません。そういう位置に立って、新しいものを携えて出なければならないというのです。こういう心をある一時抱いてみましたか? 私たちが一日二十四時間、現実的生活の中でどのくらいみ旨を中心にして働いてきたのか、自分自身がみ旨に対しながら、どれほどその価値を感じつつ推進してきたのかを考えてみなければなりません。そういう時間が果たして何時間くらいになるのですか? そうできる時が必要だというのです。
また、自分の耳、目、口、鼻等、すべての感覚器官を通じて感じられる感覚、すなわち直観を通じて確認することによって信じられるという、そういう時間をもってみなければなりません。そういう時間をどのくらいもっているのかが重要です。個人の生活を中心にする人々はあまり感じられませんが、恵み深い生活をする人々は、いつも見る万物が昔とは違って感じられるというのです。いつも新しいというのです。朝見ても新しく、夕方見ても新しいというのです。神様の恵みが忍びやかに波打ってくる時は、神秘さを立体的に感じるというのです。そのように感知する人がいるなら、その人は幸福な人なのです。そういう人は、釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったのと同じく、無限な価値を感じながら自分の高貴性を賛美できる場所に立つようになるのです。(三〇―一三四)
4 歴史的生きた材料を多くもたなければならない
先生は今までに印象に残ったことがあります。強盗と一緒に手錠をはめ、興南監獄へ移送されていく時、山の谷間へ近づき、沢道に沿って歩いたその時が本当に新たに感じられたのです。うねうねと山の谷間の道を歩いていったその時が、今も忘れられません。印象的です。その歩みは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。
「これから毎日行くべき私の道はどこだろうか? 刑を終えて出てからどうすべきなのか?」をとても知りたいのです。「監獄生活をどうやっていくか? 困難だが私は行く」というのです。その時が、新しい自我を覚醒することができる良い機会になったのです。先生に残ったものはそういうことしかありません。
一時は咸興で穴を掘る仕事をしました。腹があまりにもすいた中で仕事をするので、つるはしを握り締めた手が上がらないで、精神までも息絶え絶えになっていました。「昼飯の時間だ!」という声を聞いた時、その声がどれほどうれしく思われたか分かりません。その時の御飯! その御飯を食べるためにつるはしを地に差して立ち上がるその瞬間の気分、先生にはそのような生きた歴史の材料が、数えられないぐらい多いというのです。どんな苦労もそういうことに比べられないのです。
こういう悲惨なことの数々が、私を滅ぼすものではなく、歴史に長く輝くものとすることを知らなければなりません。ですから、神様が大切にはぐくんだ宝物を集めることのできるその日まで行かなければならないのです。そういう受難の事実を、世界の万民の前にすべて話せば、ほかの内容で一時間説教するより、この内容で十分だけ話せば痛哭が起きるというのです。そのような良い説教の内容が、どこにあるかというのです。
ですから皆さんに、心配しないで三十歳までは苦労せよというのです。イエス様も三十三歳まで苦労して、死の道を行きました。先生が話す統一教会の祝福というものは、皆さんが借りてもった福です。そのことをしっかりと知らなければなりません。こういうすべての内容の結論が何かといえば、新しいものを悟ろうというのです。新しいものを悟るところでのみ、新しい日が共にあるのです。新しいものが現れなければ発展があり得ないというのです。ここにお母様が一緒に座っていますが、お母様が大変真剣にみ言を聞いたところ、先生がいろいろな内容で話をするようで、結局は何について話すのか分かるというのです。結論は自分をおいて話す話だというのです。ですから教育をたくさんしなければならないのです。自分自身をたくさん教育しなければなりません。(三〇―一五二)