P.254

第四節 説 教

一 お父様の説教

 先生は説教のために準備をしたことがありません。生きた体験として、事実を話す時はみな感動せずにはおれません。

 過ぎし日、み旨のために苦労したことに対し、私がなぜそうしたかと考えるのは、主体性を喪失したからです。民族のために苦労したなら、民族が残っている限り、その苦労の基準も生きて残ります。(一六―三四五)

 先生は、説教する前に、説教のために祈祷する時間より、食口のために祈祷する時間を多くもちます。「お父様! 彼らを導き引き上げなければなりませんが、どうしますか? これですか、あれですか?」と言って精誠を集めてから、心の命ずるままに説教します。

 心情を離れては生命がありません。心情の谷間の道は、苦痛で惨めな道です。師を要求しますが、知識の師を求めないで、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、掘り下げれば掘り下げるほど涙であり、「自分」はなくなります。(九―八一)

 先生は壇上に立つ時は特別に祈祷をするのです。ある時は、壇上に立つ時まで説教題目もない時があります。準備もせず、聖書を読んでから、祈祷の中で題目を決める時が多いのです。それは何を見て? 人を見てです。人をまずさっと見れば、「ああ、あれはこんなタイプだな」と……。自分と比較するのです。「ああ、私がああいう時は、あんな事情だった」と心が……。自分を置いて説教をするようですからね。自分の経路を通し、天がその時同情した恵みを中心にして……。その人が感動を受けていれば、聴衆は全部受けるのです。ですから聴衆と私とは、食口と私とは同体だ、というのです。ですから食口が必要だというのです。

 それから、いくらできの悪い人が話をしても、学ぶことがあるというのです。自分だけの特性をもった真理をもっているというのです。ですからその言葉を流れ去る言葉と考えないで、真剣に聞くようになれば、そこに自分が説教材料として使えるものが豊富にあるというのです。ですから祈祷しなければなりません。

 私が韓国で説教する時は、この背中が汗でびっしょりになりました。ワイシャツや下着は完全にぬれて、頭からは汗の露がしたたり落ちたのです。このごろここでは通訳を使うから、あまり汗をかきません。通訳を使うからそうなのです。韓国ではそうではなかったのです。何のことか分かりますか? (はい)。ですから心から聞いてあげ、心から話してあげなさい、ということです。皆さん、そうですか? 一人のおばあさんの言葉を、十二時間から二十時間まで聞いてあげなさいというのです。夜を明かしつつ聞いてあげよというのです。全部聞いてあげたから、今度は私の話を聞きなさいというのです。(九六―三二三)

 先生は昔から眠りながら説教したのです。眠りながら話をするのです。日曜学校に通う時にも、眠りながら説教するのです。大雄弁で……。ですから一人でするその説教の声に私が目を覚ますのです。その時既に、多くの人々を天を代表して指導することを知ったのです。私が教会を通り過ぎると、昼飯を食べる時も無性に中へ入って食べたいのです。一番前の壇上に上って食べたいのです。そうなのです。もう梯子を置いて上ることを知っている、というのです。心が既に全部知っているというのです。(一二〇―三二五)

 全部復帰するのです。労働者から出発するのです。労働者から復帰して上っていくのです。最高の栄光の場所でそれを失ったので仕方ないのです。一番下へ入って、もう一度捜して上ってこなければなりません。服を着る時、こうして正装することはできませんでした。正装をすることができませんでした。労働者が正装をしますか? 説教する時、洋服を着て説教したのが、多分一九七〇年を過ぎてからだったでしょう。その時は洋服も着ませんでした。労働服を着て説教したのです。皆さんアメリカの食口たちは、そういうことを初めて知るかもしれません。先生が食卓に座って御飯を食べ始めたのではありません。お握りから……。復帰です。蕩減復帰です。スプーンだとかフォークだとか、そういうものは必要ないのです。そういうものは全部蕩減復帰しなければなりません。(一六一―七六)

 ソンターク博士の質問:文牧師は、大衆にする話と、信者たちに私的に教えることが違うといって非難を受けています。すなわち、私席では弟子たちに少し違って強い教理を教えていると、多くの人々が推測しています。こういう点はどこに根拠を置いているのですか?

 私は決して大衆の前で話すことを恐れません。神様のみ言には妥協がありません。歴史上のあらゆる預言者たちは、大胆に啓示の内容を明らかにしましたが、私もそうします。事実、ヤンキー大会やワシントン大会だけではなく、信徒たちに行う大衆説教で(あなたのように誰でも聞きに来られる)私はよく虚心坦懐に話をします。時には強硬な語調で説教します。なぜなら、説教が記憶されることを願うからです。

 私は外交官のように円満に話をしません。また、私は国民たちの歓心を買おうという政治家のように話をすることもありません。歴史が私にどのように語るのかという点が、私には最も重要です。

 

私は現在の人気を追い回しません。私には、今日のアメリカ国民たちから人気を得られるか、得られないかが重要ではありません。神様が私に指示したとおりに話すだけです。

 しかし時には、人々の必要によって、また聞く人の水準に合わせて話しもしますが、そこに秘密があるのではありません。イエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語られました。時に私は、あることを信徒たちや、さらに指導者たちにまでも話せないことがあります。それは何か秘密があるからではなく、ただ彼らが理解できないからです。各自が「統一原理」を理解する程度には差があります。使徒パウロも、改宗者たちは霊的に準備ができていないので、「あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている」(ヘブル五・一二)と語ったことがあります。誰でも聞く人の水準に合うように話すほかありません。

 統一教会の運動は、秘密にやる理由は全くありません。過去の記録がそういう点を見事に証拠づけています。私が過去何年間何をし、統一教会が韓国、アメリカ、日本で何をしましたか? それが正に証拠です。我々がしてきたことは、国家や人類、すなわち他の人のために我々自身を犠牲にするものでした。我々の最初の使命は、真理を伝播し、神様に対する人間の心情を回復させることです。我々がある政府を転覆させるとか、銀行からかすめ取ろうとしたという話を聞いたことがありますか? (九一―一二九)