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三 礼拝時間

1 礼拝時間は祭祀をささげる時間

 礼拝をささげる時間は祭祀をささげる時間です。自分の過去を神様に報告し、贖罪しなければなりません。ですから礼拝時間は、自由がない時間です。(二一―一六三)

 礼拝をささげる時間は、怨讐と一撃戦をするよりもっと深刻な場です。考えてごらんなさい。神様を訪ねていき、侍る場所に礼服を着ないで参席できますか? 外見上の礼服ではありません。心情の礼服です。こうして集まった皆さんの姿がかわいそうだといっても、その心からみ言と共に、賛美と共に、感激した心情が流れあふれるなら、天は皆さんを通じて役事なさるのです。堕落した人間がエデンの園から追放される時、涙を流し追い出されましたが、皆さんは悲しみの涙を流す代わりに喜びの涙を流し、笑顔で神様と出会わなければなりません。悲しみの涙も流してみることのできない者が、喜びの涙から流してはいけません。(九―二九六)

 この礼拝時間というのは闘いをする時です。単独で決戦する時です。それなのに眠るのですか? そういう者がいれば揺り起こしなさい。「サタンよ出ていけ」と言ってイエス様がペテロに語られたように、脇に一発かましてやりなさい。それが愛なのです。先生は、礼拝の時に居眠りする者がいればそのままにはしないのです。過去・現在・未来は私を呼びます。そう考えますか? 過去・現在・未来は私を必要とします。(一五―一二一)

2 礼拝時間は公的な時間とせよ

 時間観念が強い人は、礼拝時間のような時間を公的時間として立てておきます。そうすると、そういう公的な人が尊重視するその時間を守れない人は、その公的時間を守る人に対し恥ずかしくなるのです。その時間を守った人が三千名、あるいは三万名ならそれだけ、数が多いほどそれだけもっと恥ずかしく感じるようになるのです。皆さん、そういう感じを受けてみましたか? 天を求めていく基準は違うのです。(二五―二六八)

 どこへ行き、何をするにしても礼拝時間を記憶しなければなりません。聖日、公的集会に出席する手本にならなければなりません。礼拝に出席する夫婦は仲睦まじく一緒に出なさい。子供たちがうらやましく、ついてきたいと思うように……。十時前に教会へ来て、聖日を準備しなさい。(「会報」一―三)

 祝福家庭は聖日、必ず伝道をしなければなりません。聖日礼拝は朝、十時以前に教会へ来て準備しなければなりません。どこで何をしても、礼拝時間を記憶していなければなりません。(二一―八八)

 聖日のような時は、必ず明け方五時に起き、その教会で礼拝を受け、その責任者は説教し、そうして出よというのです。公式的礼拝時間を守れ、ということです。分かりますか? そうすれば間違いなく発展します。(九七―二一四)

 さあ、私たちが時間を定め、「八時に来い」。こうして八時に来ることを約束したのに八時十分に来た、という時、「八時十分なのになぜ?」そう言いますか。それでは駄目なのです。八時一秒過ぎに来ればそれはいいのですか、駄目なのですか? (駄目です)。それがどのぐらい……。十分ぐらい過ぎても来るのに、一秒ぐらい許してあげないと……。(笑い)そういうのは駄目です。この世界で通じないのです。八時が最も秩序あるようになっているので、駄目だというのです。

 さあ、八時なのに六時に来た人、七時に来た人、七時五十九分五十九秒に来た人にどのような差があるのか、ということです。秩序で見る時、これは同じなのです。この人が本当に時間を節約したのであり、本当に時間をよく守る人なのです。(黒板に書いて語られる。笑い)ここは二時間前に来たので、二時間のパートタイムをやればいくらですか?五ドルずつやっても十ドル稼げるのです。(笑い)その主張を誰もできなかったのです。主張をしなかったのです。

 さあ、ここにいるこの人、「私は時間を守るのに一番だ」、そういう時は二人ともいいというのです。これは不平を言えないのです。悪いと言えないのです。ですから、こういう秩序と順序という法が重要だということを知らなければなりません。分かりますか、何のことか? こういう観点から、歴史と今日の人間世界のすべてのことが進展しているという事実を、皆さんは知らなければならないのです。(一一七―一八七)

3 礼拝時間に遅れるな

 考えてごらんなさい。そういう信念と覚悟のもとでここに出てきたのに、時間も満足に守れない皆さんを前にして話ができますか? そのまま逆さに打ちつけたらいいのです。皆さんの中に父母たる人もいるし、子供である人もいますが、皆さんが神様の前に出ていくにおいて、時間というのは何よりも重要なものです。時というのは何よりも重要だというのです。時を合わせられなければ滅びるのです。時を見つけられなければ滅びるのです。神様は実によく聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、皆さんは時間も守れず、どんじりで讃美歌を歌っています。天はそんな賛美を願いません。

 皆さんの責任が重要だということを知らなければなりません。皆さんを眺め、み旨に従ってくる数多くの人がいるとすると、彼らが皆さんのような人になってもいいのですか? 見物人のような人々になってもいいのか、ということです。天地の前に責任を果たそうと誓って出た人として、皆さんのような人を前にして何を話せますか? どうやって福を与えよと祈祷できるでしょうか? 「神様、彼らに天に隠し置いた栄光を許してくださいませ。天の生命圏を許してくださいませ」と言えるかというのです。

 師を師とつくるためには、皆さんが責任を果たさなければなりません。父の前で祈祷しても、潔く「お父様、あなたが蒔いておかれた息子、娘がまいりました。あなたが会いたいと願われた息子、娘がまいりました」と言える環境をつくっておいて祈祷しなければならないのです。

 本来は、時間が過ぎれば門を閉めてしまわなければなりません。皆さんのような人々を集めて話したくありません。こういう皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとするので、二時間、三時間話をするのです。そうしてこそ、私が天の前に祈祷し、覚悟した心情的な基準につながれることができるのです。(一一―一三二)

 皆さん、もう礼拝時間が過ぎたのに何人集まりましたか? 皆さんがそういう観念をもっているなら、先生も聖日に皆さんを指導したくありません。むしろ地方教会へ行くほうがいいのです。そのほうが気が楽です。地方の食口たちとは心情が合います。先生が時々地方を巡回すれば、その一時間を迎えるために、その時間に参席するために、数百里の道を歩いてくる人がいるということを知らなければなりません。そういう人に比べると、皆さんは天の前で呪われて当たり前です。来たくはあっても運賃がないので三日、四日ずつ、食べることもできず、昼夜の別なく十里、二十里の道を歩いてくる人がいるということを知らなければなりません。

 今回、修練生たちが本部へ来て共通して感じたこととは何かといえば、本部教会の食口たちが全部人間ができていないということです。皆さん、今後先生が地方教会へ行き、皆さんの言葉を伝えられる基準になってくれることを願うとすれば、皆さん自身が地方教会の食口たちよりもっとよくやらなければなりません。先生が地方教会へ行って、皆さんの言葉を伝えられる立場に立つためには、皆さんがもっとよくやらなければなりません。こうしていて、何がみ旨のために生きる人々ですか?

 心情統一、行動統一、理念統一、生活統一を叫んでいる皆さんが、こんなに遅れてきて恥ずかしくありませんか? どうやって顔を上げられますか? そうしてどんな恩恵を受けるというのですか? そういう人は絶対恩恵を受けられません。まして終わりの日には、「集まることに力を尽くせ」と言いました。集まるのに力を尽くせと。ところで皆さん、力を尽くしましたか? ですからそういう人が今後いれば、聖日礼拝は三十分以内に終えようと思います。祈祷を一回して、聖書を一度読んで、説教も骨子だけ話し、また、先生がここにいたとしても、もう聖日礼拝の指導はやるまいと思います。どうなることか、ちょっと見てみようというのです。ここに立った人は、皆さんがそのように対する人ではありません。

 私たちが天の前に出ていくにおいて、約束というものはどこへ行っても絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人がどんな恩恵を受けるのですか? そういう人は行ってもやめてしまうのです。今後先生は皆さんが動くとおりに指導します。嫌ならやめなさい。誰が滅びるか、見ようというのです。誰が滅びるでしょうか?

 天は切々と慕い、切々と苦労する人に対してくださいます。誰でも訪ねていって対してくださる天ではありません。ですから時間だけは絶対に厳守しなければなりません。今後時間を破ったなら、前に立たせて一人ずつ恥をかかせてあげるのです。分かりましたか? (一一―一三三)

 きょうの朝も、礼拝が始まる時には何人も来なかったのに、時間が少したってからたくさん来ました。どうせ来るのなら早く来ればいいのに、どうして遅れて来るのかというのです。それは少し勤勉ならできることです。遅れそうなら、その時間だけ早く寝ればいいではないですか。それさえ考えられませんか? 早く来ただけの時間は、神様のためにささげた時間なので、千金、万金を与えても買えない価値があるのです。その時間だけは神様にささげる時間なので、その時間に遅れて来るというのは神様から盗むことになるのです。ですから定時に出なければならないのです。そうすることで、それだけ寝られなかったことで蕩減することもでき、神様の前に面目を立てられもします。そうなれば、きのうより良い心をもって天の前に近づけますが、遅れて来れば祈祷する時も目をぱちぱちさせながら、先生はどんなお話をなさるか、といって座っているのです。こうして座っている姿を見ると、惨めなことこの上なく見えます。(三六―一二五)

 精誠をささげるべき人たちが礼拝時間に遅れて来てもいいですか? そういう人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人の中の罪人だという心をもたなければなりません。そして、これから時間をしっかり守ると誓い、人よりもっと多くの精誠をささげなければなりません。時間も守れないで、「おお、天よ」と言えますか? 精誠は人に知られるべくささげるものではありません。教会へ来て精誠をささげようと思うなら、自動車に乗って来るのではなく、歩いて来なければなりません。ここへ来て祈祷するのではなく、祈祷をしてからここへ来て、もっと懇切な祈祷をしなければなりません。精誠はこうしてささげるものです。世間の人々が願う環境と、彼らが追求する欲望とは反比例する所で、精誠は積まれることを知らなければなりません。(四二―二三五)

4 すべての制度は責任が優先だ

 今、先生の時代において法を立てることは責任分担法の延長であり、拡大であることを知り、その法に絶対順応しなければなりません。分かりますか? 分かりますか、責任分担? 教会の規約のようなものも全部責任分担です。ですから礼拝時間はきちんと守らなければなりません。孝進がこれを知らないと駄目です。礼拝が始まる前に来ないといけないし、礼拝をささげる時は絶対動いては駄目です。お前が勝手に立てば全大衆の前に影響が及ぶのです。それがみんな責任分担所管なのです。代表者になるならもう……。

 お父さんがそうしたのです。お父さんは昔学校のような所に遅れれば、その日は昼も食べない、そういうことをしたのです。きちんと五分前に行くのです。あらかじめ行っておいても、時間を浪費することはないではありませんか。ですからとても科学的なのです。

 私が学校に通う時は、二里の道を歩いて通ったのです。国民学校に通う時。二里がどのぐらいか知っていますか? いくらですか? (八キロメートル)。八キロメートルを毎日のように歩いて通ったのです。ですから中間辺りに住む子供たちは、私がきちんとその時間に通るので、その時出てくれば絶対遅刻しません。すべて科学的なのです。ですからずーっと峠ごとに子供たちが待っているのです。(笑い) 私は本当に早歩きなのです。八キロメートルを一時間以内に、四十五分で行くのです。タッタッタッタッタッと行くのです。そうなると後ろからついてくるのが大変でしょう。(笑い)そういうことで有名なのです。

 私にはそういう逸話がたくさんあります。そういうことを話す必要もないですが、そういうことをしたのです。お父さん、お母さんが学校に行きなさいと準備することもなく、全部私が準備したのです。学校の校長先生の所へ行って口述試験を受けるのも、私が全部交渉したのです。分かりますか? 全部開拓です。全部開拓しました。全部創造したのです。

 ですから皆さんもそう思って、すべての制度が責任分担所管下に所属することを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。統一教会の法を守らなければならないのです。あなたたち、朝の敬拝時間にみな起きるのですか? (はい)。家で敬拝しない人、手を挙げてみなさい。全部それは責任分担です。それを一つもできなくなると、この次に皆さんの一生の問題が左右されるのです。

 責任分担、分かりますか? (はい)。靴を履く時、「きょう責任分担を完成しなければ」。こうでなければなりません。毎日責任分担です。一年責任分担、永遠責任分担もありますが、一時間の責任分担もあるのです。友達同士の約束もそうだし、全部そう考えるのです。先生がもし約束を守らなかったなら、それ以上恥ずかしく感ずることはありません。交通が渋滞してどうのこうのと言って、時間を守れないようなのはまっぴらです。(一三三―一五五)