P.1221

七.祖国光復を成さなければならない我々の姿勢

 イエス様も国を立てるために来られました。祖国がなければかわいそうです。祖国がないので宗教人たちは悲惨でした。審判するなら、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界が不変の基準に立ってこそ、その基準を土台にして審判します。祖国は最後の願いです。祖国の中には民族も、氏族も、家庭も、個人もすべて含まれるのです。

 この三千里は祖国になりましたか。そうならなかったので、清算しなければなりません。神様が願われ、イエス様と聖霊が願われる祖国を創建するために、我々が一片丹心の苦労をしなければならないのです。

 善とは何ですか。家庭のために個人が犠牲になり、氏族のために家庭が犠牲になり、祖国光復のために氏族が犠牲になるのが善です。祖国光復のためにすべてが犠牲になって祖国光復が成されれば、すべてが愛国忠臣となります。国家的基準の前に忠誠を尽くし、国家基準を立てれば、家庭、氏族の基盤をつくったという公認を受けるのです。道の基準は神様のために絶対忠誠であることです。そうすれば、その過程のすべてのことは認定されます。

 統一教会員はどうすべきですか。イエス様は「父よ、私の思いのままでなく、あなたのみこころのままにしてください」と言われました。私の思いはこの世の思いであり、父の思いは神様の思いです。統一教会員である皆さんは何をしましたか。忠臣の道理を守り、また、その実績をもってきましたか。孝子の道理を尽くし、その実績をもってきて、個人、家庭、氏族、国家、世界的な闘争をする覚悟ができていなければなりません。イエス様は祭物の使命をもって来られました。皆さんは世界的な闘争のために行きながら、民族的な基盤を備えなければなりません。メシヤと相対的な価値を備えなければならないのです。指導者が世界を開拓する場合、指導を受ける皆さんは民族的な道をつくらなければなりません。数多くの人々が光復の道を見つめながら死んでいきました。いつ死んでもよいという信念をもって死んでいったのです。

 統一教会員は個人から民族、国家基準まで備えてきました。これからは、全世界の人類とすべての国家を動員しなければなりません。我々は祖国光復、自由、平等、幸福の日を探しに行かなければなりません。その道が困難でも行くしかないのです。それは先生が見つめる観点であり、神様が見つめる基準です。イエス様はこの基準を見つめて行き、亡くなられたのです。我々は祖国光復の過程において、苦労しながら進まなければなりません。この地上の人類は統一教会員を先頭に立たせて進まなければならないのです。統一教会員でなければだめだ、という時がきても三年は苦労しなければなりません。彼らが我々のしたことを相続するまで伝統を立てて、血と汗と涙を流さなければならないのです。まだ、我々には蕩減条件が残っていることを知らなければなりません。

 韓国は我々が責任を負わなければなりません。きょうも明日も変わらない祖国創建という覚悟と信念をもってイエス様の祖国、聖人の祖国、先知先烈の祖国、神様の祖国、その祖国を成せなかった恨を晴さなければなりません。そうでなければ面目が立たないのです。(五一―二八一)

 我々は祖国を探さなければなりません。祖国を得るためには、祖国のために生きなければなりません。祖国のために生きられない人は祖国を得ることができません。それでは、どのように生きれば祖国のために生きるのでしょうか。世界を自分の祖国と思って、世界のために生きなければなりません。そのような人が祖国を創建できるのです。食べて、寝て、歩く、すべての生活と行動が祖国創建のためのものにならなければなりません。

 ですから我々は、白昼に共産党が振り下ろす刀を受ける覚悟をもって闘っているのです。この民族ができない時には、我々がしなければなりません。この民族が行くことができないので、我々が行かなければなりません。そうするためには誰よりも祖国を愛さなければなりません。御飯を食べても祖国のために食べ、結婚をしても祖国のためにするのです。我々の祖国のためなのです。(三六―一八五)

 これからは私が言えば、言うことを聞く群れが現れ、私が方向を提示すれば、動くことができる群れが現れますが、これで幸福を感じる男ではありません。統一教団を犠牲にしても、祖国光復を期約できる、そのような基盤を広げなければならない使命があることを知らなければなりません。六千年の摂理の中心的なみ旨を立てた家庭を得ることができる教団と、民族と、国家がなければなりません。得られた、そのような基盤を備えて、それが一時に連結されることを願いながら送られたのに、これがばらばらに壊れたので、再び一つに縫い合わせなければならない運命が残るようになったのです。これを縫い合わせるためには先頭に立って走らなければならないのです。

 夜になって寝床に入る時間にも、その願う国と共に寝なければなりません。今は国がありませんが、私はその国民の一員として、その国のために寝るのであり、起きる時も、その国を建国するための一員として目覚めるのです。見て、聞いて、感じるすべての感覚も祖国という命題を考えずして感じてはならないのです。その日がくるまでは死ぬことができないのです。その日がくるまでは忙しいのです。それを成すためには過酷な受難と逆境を克服しなければならないのです。

 やるべきことがあるのなら、遅く寝てでも解決するしかないのです。祖国の光復というのは、時間を中心とした犠牲の量を加重してこそ成就することを思うときに、私の目と精誠の量をきょう、この時間を通して一分でも増やすべき責任があるにもかかわらず、楽に寝て、背伸びをしながら起きることができるのかというのです。目が覚めたら腰を曲げて、「お父様、あなたの迎える明日は安息の場所であり、あなたが行使されたかった世界を支配できる勝利的国家の基盤に向かって行く、寂しく孤独な男の行く道はこのように悲惨であると思いました。私自身がそうなのに、天が探し求めてきた道は、もっと悲惨なものではありませんか?」と祈祷しなければなりません。

 疲れていても自分勝手に横になることはできないのです。死んでも国のために死ななければなりません。ですから、年を取って疲れを感じるそのような身で、私がもし死ぬことになったなら、その場に残すことは何かというと、それは「天のためにできることはすべてやった。その国のためにできることはすべてやり尽くした」という言葉です。それが願いです。

 イエス様は「あなたがたは何を食べようか、……何を着ようかと思いわずらうな。……これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたは、まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ六・25〜33)と言いました。このように聖書の主流思想は、神の国です。その国、その国を求める思想なのです。自分が幸福を求める思想ではありません。国の民として生まれて、夫をもったなら、その夫は国を代表した夫です。ですから、国を愛してから、夫を愛さなければならないのです。妻も国を代表した妻なので、国を愛してから妻を愛さなければならないのです。死んでも私が出せる力を出し切って、私はこれ以上できませんからその場で死ぬようにしてくださいと言うことができなければなりません。「これをしてみたら良かったのに……」という言葉を残して死んではいけません。ですから、やってもやっても忙しいのです。行けども行けども、また行かなければなりません。他人が休む時に、我々は一歩でも進まなければなりません。サタン世界よ、休め! サタン世界よ、お前は楽に食べて遊んでいろ! 我々はその国のために行く、と言わなければなりません。(五〇―二四六)