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我々が行かなければならない所はどこですか。個人を訪ねていくのが我々の目的ではありません。また、家庭を訪ねていくことが現在の我々の目的ではないのです。我々統一宗族が行かなければならない道は国を探していくことです。分かりますか。父親、母親、子女たちに関係なく、これを探さなければならないというのです。ところが今日、統一教会の教会員たち、祝福を受けた家庭、氏族圏内にいる人たちが「ああ! 国が何で、教会が何なのか分からない」と言います。そうなると、全部落第です。原理的にそうなのです。分かりますか。
死ぬまで、国を探す誠を尽くしてこそ、天の国の光復のために祝典を開き、祝うことができるのです。勝利の凱歌を揚げることができる、その時を迎えなければならないのです。(五五―三二〇)
イエス様の言葉なら何でも一つだけ知っていればいいのです。方向を提示するのは、二つでなく一つです。行こうと言えば、行かなければならないのです。そうなっています。なっていませんか、なっていますか。(はい)。では、夫を捨て、知識を捨て、家庭を捨てて行こうと言えば、行かなければなりませんか、行ってはいけませんか。(行かなければなりません)。統一教会のためにそのようなことはしないのです。国のためにそれができなければならないのです。
今、北韓では家庭の戸籍を全部書き直しているでしょう? それは何なのか、分かりますか。サタン世界が先にやっているのです。国のためなら自分の夫や妻、親、子供に関係なく、すべてを捨てて行くことができなければなりません。そうでなければ、願う国を求めることはできないのです。その国を探し得た時、国と共に父母を得ることができるのです。国を求めることができなければ、血を流す父母を見なければならないし、血を流す妻を見なければならないし、血を流す子女を見なければなりません。それ以上悲痛なことがどこにありますか。ですから国を得る前に妻を愛することはできないのであり、父母を愛することができないのであり、子女を愛することができないのです。これがキリスト教が行かなければならなかった道であり、統一教会が行くべき道なのです。(五一―一八九)
皆さんは自分を否定し、その国とその義のために生きる人にならなければなりません。どのような難しい環境に置かれたとしても、皆さんは自分自身に対する父の願いがあることを考えながら、その環境と戦い勝つ人でなければなりません。そのような皆さんになって初めて神様の真の息子、娘だと言えるのです。
では、神様の国を建設できる人はどのような人ですか。自分を否定し、社会と民族、国家、世界のために生きる人が、まさに神様の国を建設できる人だと言うのです。そして、国家と世界を否定しても天のために生きる人が天国を建設できる人だと言うのです。また、どのような悲しい環境に置かれても自分のことで悲しむのではなく、社会と国家、世界、そして天のために悲しむ人であってこそ、神様の国を建設できるのです。
それだけでなく、皆さんが神様の国と神様の義を探し立てるその過程でサタンと戦い、負けずに勝利して、皆さんが個人から家庭、民族、国家、世界を一つに結ぶことができなければなりません。すなわち、皆さんがどのような位置に置かれたとしても、そこで、サタンと戦い勝利する人になるのです。社会に出れば、その社会のどのような環境の中でもサタンと戦い勝たなければならず、国になればその国家の一番難しい問題に責任をもって進み、サタンと戦って勝利しなければなりません。(三―一三一)
では、六千年間、神様をひどい目に遭わせていたサタンがただ単純に「ああ、私は降参だ」と言って、目を伏せて帰っていくと思いますか。皆さんは雑巾の山でも捨てるとなると、もったいないと思うでしょう? 雑巾の山でも、ひっくり返してにおいをかいでみて捨てるでしょう。サタンが何事もなく引き下がるのではありません。だから、緊張した戦いをしてきたのです。統一教会の文先生も中心から外れる時は、へし折られるのです。方向が合わないと発展しないのです。
ですから、その国を探すためには夜も昼もありません。その国を探すことは世界を探すため、世界を探すのは霊界のためです。そして、何をしますか。神様に仕え、地上に来て位置を確保し、万国が神様を中心として侍り、その神様の前に勝利の栄光を捧げるために進むのです。そのような戦いをしなければならないのが、我々統一教会の使命であることを知らなければなりません。(五七―二七六)
統一教会の教会員は裸足で出ていって祖国を創建しなければなりません。食べて残りもので、この国を生かすことができますか。いつ、食べること、着ること、乗って回るようなことに気を使うことができますか。裸足で、素手で開拓していこう、このような仕事をするのが統一教会です。(一四―二〇一)
皆さんは祖国を探しにいかなければならない勇士ですか、そうでなければ、ボーッとしている亡士ですか。勇士というのは国を代表して他の人ができないことができる人です。誰でもできることをする人を勇士とは言いません。そのような人は兵士です。同僚たちができないで後退する時、その仕事を成し遂げられる人なら、彼は勇士です。「勇」という文字は、すばしっこいという意味なのです。誰よりも素早く走り、銃の玉までも避けるほどにならなければなりません。誰でもできることをする人を勇士とは言えないのです。
その国を建国するために開拓の勇士にならなければならない先鋒の将軍は誰ですか。統一教会の幹部たちです。皆さんは、今も教会長ですが、昔も責任者でした。小尉、地区長をしていた人たちなのです。
では、その国を成すことができる基盤はどこですか。一つの国を成すためには主権がなければならないし、国土がなければならないし、国民がいなければなりません。それでは、天の国を中心として見る時、国土にできる基盤は何ですか。それは教会の財産以外にはないのです。そうでしょう?
その次に天の国の民とは誰ですか。教会員です。また、主権者とは誰ですか。皆さんです。皆さんが村長の代身であり、面長の代身であり、郡主の代身であり、道知事の代身者です。皆さんは、主体者になりましたか。サタン世界から爆弾を積んできたら、まず最初に走っていかなければならないのです。そのような心構えがありますか。そして、金が一銭でもあるなら教会を広げるために使うのです。その国の版図を広げて国民を結集させるために使うのです。教会の責任者は主権を代身するのです。村長の代身であり、お母さん、お父さんの代身なのです。このような伝統的な思想を残さなければなりません。我々には何もないのです。違いますか。(四九―一六四)
この韓国に立てられる国は、どのような国ですか。お互いに流通し、交流するようになると、共産国家になるのか、そうでなければ、現在の大韓民国としてそのままにしておくのですか。そうでなければ、どちらでもない新しい国を追求しますか。このような問題を見てみる時、我々の時もだんだん近づいているということを感じます。皆さんは、これを支えて責任をもたなければならない統一の群れであるならば、それに対する責任感をどれほどもっていますか、また、どれほど犠牲の代価を払える決意ができているのかというのです。責任者たち、自信がありますか。(はい)。三十八度線を越えて、以北五度の市郡を中心として我々の基地を備えるべきではないでしょうか。
人員が足りないこの群れの誰があの北韓の地、定州ならば定州の責任者になるのでしょうか。考えてみましたか。定州の町なら定州の町を中心として、私が教会長にならなければならないと、十年、二十年間準備し、それでだめなら子孫に、「お前は熱心に勉強し、熱心に準備し、その日を迎えたなら、定州の地に天の因縁を代身とした教会長になれ」と遺言を残して死ぬことができるくらい精誠を尽くす皆さんになってみましたか。先生は今までそれを考えて準備しているのです。
そのようなことを考えるとき、若い者たちが地方に行って自分の子女たちと女房を連れて、げらげら笑いながら暮らすようになっていますか。なっていますか、なっていませんか。(なっていません)。死んだとしても、国を残して逝かなければなりません。死んでも子供たちに国は残して逝かなければならないでしょう? 新しい決意をしなければならないというのです。
「私は危うくなった境界線のある地方に行って、共産党と面と向かって朝晩に銃声を聞きながら、国境地帯の見張りの役をする教会長にならなければならない。国にも知られず、誰にも知られなくても、生命に代えてもその国を愛する忠節の心は変わらない」という決心をしなければなりません。それで満点です。世間の人は知らなくてもいいのです。霊界へ行けばすべて分かるようになっているのです。
このようなことを考える時、人が足りないことを知らなければなりません。分かりますか。人が足りないことを知らなければならないというのです。かかしのような男でもラッパを吹かせて、あるいはロボットを造って北韓の地に行かせて、ラッパを吹かせたいのが先生の心であり、神様の心です。口をもった、感情をもった男として生まれて、それも二十歳、三十歳の若い心と体をもっていても原理のみ言を語れないというのでは話になりません。
目玉が膿んで潰れるほど、夜寝ないで勉強しなければなりません。腹が減って骨だけが残っても準備をしなければなりません。そのようにして骨だけが残り、やせ細った体が天の愛をたっぷりと受けることができる体になれるのです。神様がそのひ弱な一人の男性なら男性に期待を一身にかけることができるのではないでしょうか。(四九―一一四)