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万民が平和で幸福に歩むことのできる平坦な大通りを整備しなければなりません。そうして気分良く何百マイルもの速度で走ることのできるハイウェイを造らなくてはなりません。たとえ後代の人たちが誰が整備したかも知らず、感謝することもないとしても、このような道を整備しておかなければならないのが我々の使命なのです。それゆえ我々は、直線的で平坦な大路を整備するのです。ところでこのように狭く山川の多い韓国において、直線道路を敷設するというのですからどれほど大変なことでしょう? ああ、統一教会のみ言は立派で真理は真理なのだけれど、苦労のためについて行くことができないというのですか。きょう、せっかく出てこられた方々もいるでしょうが、いったん統一教会に入ってきたなら容赦がありません。
我々は天の権威をもって立ち上がらなければなりません。天が望まれ、天が一人ではできないあらゆる内容を背負って万国の前に宣戦布告をし、誇ることのできる姿を備えなければなりません。天の権威を立てるときには、自分の権限に執着して立てるのではなく、自我主管の権威を立てなければなりません。万民の後ろから後押しをしながら裏通りのでこぼこを埋めながら進まなければなりません。茨の野があれば取り除いてしまい、穴が開いていれば埋めなければなりません。石ころだらけの野原があればそれを整理して、万民が行くことのできる道を整えなければなりません。夜も昼も、人が悪口を言おうが言うまいが一生懸命道を整えなければなりません。途中で人に褒められたといってその場所で大笑いし、休憩しながら荷を解くことのできるような状態ではありません。誰かが悪口を言ったからと徒党を組んで争い、憂さ晴らしをするような立場ではないことを知らなければなりません。彼らに争いを仕掛けるよりも、もっと忙しい仕事をしなければならないために絶対に歩みを止めることはできません。
先生の歩みがこの土地、三千里の半島全体を遍歴することができないのが恨ではありません。三千万の民族に先生の口を通して話すことができないのが恨です。それで統一教会は故意に責任を全うしなかった罪人と同じ立場において道を探し出し、それを敷設するのにあらゆる精誠を尽くそうというのです。このようなことを知っていますか。
神様が今まで悲惨な立場から万民を救うために探してこられた道を、私がこの地上に再現させて、それを蕩減しなければなりません。神様の摂理を代身するためには悲惨な場所で行わなければなりません。悲惨な姿ではあっても、情熱と血の沸き立つような愛の心をもって処理しなければなりません。そのような責任があるために、このような過程を経てきたのです。
それだけではなく、我々は三千万の民族を越えて世界万民を代身しなければならない使命があります。それで目を開ければ万民が自分の懐におり、また自分の目の前にいるために、彼らのために祝福をしてやり、彼らのために戦う責任を背負って今まで歩み続けているのです。そのために将来統一教会が世界的な問題になるでしょう。事態は、先生が話したようにすべてなりつつあります。(二〇―一三六)
精誠を込めなければなりません。そのような思想をもって、「精誠を込めることにおいては、この時間だけは私が主人である」、このように言うことができなければなりません。三千万民族が眠っていたり、休んでいたりしますが、天は休むことがないので、三千万の運勢は夜に成し遂げられるのです。歴史は昼成し遂げられるのではありません。夜成し遂げられるのです。それゆえ人が遊んでいる時間に、人が寝ている時間に精誠を込めなければならないのです。このように我々にはやるべきことが山ほどあって、とても忙しいというのです。
私が三千里の至る所、一軒一軒の家に十回、いや百回でも行きたいのですが、行くことができないため、皆さんが先生の代わりに行きなさいというのです。分かりますか。(はい)。おおよその見当で十字架を描くように、一回りは回らなければなりません。蘇生、長成、完成の三数を経て来なければ、この民族に対して統一教会が責任を果たしたと言うことができないのです。
今はどのような時ですか。イスラエル民族がエジプトからカナンの福地に向かって出発する時です。そのような時なので、エジプトの地に暮らしているイスラエル民族に対し、夜を徹し死に物狂いになって、何日何時にその家を離れなければならないと通告をしてやらなければなりません。それを知っていても通告をしてあげない人は、永遠に罰を受けることになるのです。このようにカナンの福地に向けて出発する時代に入ってきたために、我々は三千万の民族全体の前に、彼らが行っても行かなくても通告をしてやる責任があります。そのために二十年近く全国的な活動を展開してきたのですが、まだ統一教会を知らない人がいるようです。それではだめなのです。
よく見ると、まだ統一教会を知らない人がいるでしょう? (はい)。それは責任を果たしていないということです。楽に休んで遊ぶ人はいても、この民族に責任を負うことのできる責任者たちがいませんでした。骨が砕けてもこの山川、あの村の谷間ごとに、私の血と汗がしみ込んだ精誠の援助の手を待っているがゆえに、あなた方は行かなければならないのです。そうすることができなければ鐘に糸を結わえて手繰っては、四方に「ガラン、ガラン」と鐘を打ってでも一箇所に移動して来ることのできる統一戦線をつくらなければなりません。そうしなければ南北韓がいくら会談を行っても、統一方案を模索することのできる道がありません。我々が主体的な立場においてそのような道を整えなければなりません。(六一―二二二)
皆さん、韓国におけるみ旨は何ですか。韓民族、倍達民族を中心に見れば、先祖たちの功績があり、世界的に悲惨な民族になったために、神様がこれに同情して祝福を下さったのです。この恩恵を他の国に引き渡すことはできないので、先祖たちを愛し、伝統を尊重視する立場に立って、大韓民国の主体性をもたなければならないと考え、世界のどのような機動隊よりも皆さんを苦労させたいというのが先生の気持ちです。間違った先生でしょう? (いいえ)。悪い先生ですか、良い先生ですか。(良い先生です)。なぜ良いのですか。先生は皆さんを中心の位置に立てるために、今までこの仕事をしてきたのです。分かりますね? (はい)。(六一―二二四)
今日、何を差しおいても統一の道を願い、み旨がこの地の上に成し遂げられることを願う我々統一の群れは、天が既に主体となっているということを知りました。その主体が行かなければならない方向も知りました。個人は家庭のために犠牲となり、家庭は氏族のために、氏族は民族の、民族は国家のために犠牲にならなければならないという段階的な前進路程をみな知りました。
ここにおいて、我々が投入しなければならないものは何ですか。自分を投入しなければならないのです。心と体を別々に投入するのではなく、心と体を一つとして一度に全部投入しなければなりません。(六一―二六一)
将来我々はどのようにしなければならないのでしょうか。結局は統一のために尽くす道において、共産主義以上に凄絶な内容の道を南韓の国民たちが行かなければなりません。そのような限界点を踏み越えるのだという信念があれば、南韓が北韓を統一することができるでしょう。しかしながら北韓が、南韓の限界的な要件を耐え抜く一方で、南韓の国民たちがこれに耐えられずに倒れる時、北韓の前に南韓がどのようになるでしょうか。吸収されないでしょうか。誰が勝ちますか。限界の基準を克服するやからが勝ちますか、それとも「ああ、私は嫌だ。もう知らない」というやからが勝ちますか。尋ねるまでもないのです。
問題はこれです。歴史の勝敗圏を予想する、最後の激戦場における勇士として戦うに当たり、将来迫り来る激戦、戦争の前にどれほど強く大胆であるのか、どれほど克服して行くのか、生死の交差路においても決意することのできる、希望に満ちた勇士となるのかということが問題なのです。死の道においてもまた再び生きて戦うことのできる希望があり、これを成し遂げられない時には再び生きて戦うのだという思想があれば、共産主義を吸収することができるのです。
共産主義は唯物思想なのです。分かりますか。共産主義は唯物思想です。死ねば全部なくなると主張するのです。しかしながら統一思想は、自分がみ旨を成し遂げられなくなれば、死んででも戦わなければならないのです。このような面において一つだけはましです。そのような思想でなければ勝つ見込みがない、と結論を出すことができます。皆さんはそのようになっていますか。
先生が何かしようとすれば、「ああ、また何かやろうとしているな」と、こう言うつもりでしょう? 我々統一教会は他の団体の責任者たち以上に責任を感じながら進まなければなりません。進みなさい! 言い訳をする人が多いでしょうが、「あっ、先生待っていました。この朝が、この昼が、この夕方が、この夜が来るのを待っていました」と、何十倍も待つことのできる人が南韓にいればどうなるでしょうか。北韓の人はそうすることはできませんが、南韓の国民がそうしようとすれば北韓を消化してなお余りあるのです。合っていますか、合っていませんか。間違っていますか。(六一―三五)