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一.民主世界の出発の動機
民主主義を何のためにつくったのか分かりますか。神様が人間を息子として抱くための大いなる愛のためにつくりました。昔の主権者たちは僕として抱き、あるいは召使として抱きましたが、それはすべて偽りのものです。それで、天は真の僕を送られ、悪なる怨讐の懐にいる人間たち、神様に背反し呪う群れを抱くようにされ、それで終わらず再び息子を送られ、死にながらも人間を抱くようにされました。そうしながらこの世を崩してきたのです。僕を送り抱くようにされる時にはサタン世界の僕となる立場のすべての主権者たちを退くようにして、息子を送り抱くようにされる時にはサタン世界、悪なる世界の息子的なすべての主権者たちを退くようにされました。今は、父的な主権時代に向かって追い出しています。(一〇―一七三)
今日、民主社会を眺めてみるとき、民主社会の動機はどこにあるのでしょうか。これは神様にあります。民主世界とは、今日、キリスト教文化圏においてもたらされた世界的な体制です。キリスト教は神様から出発しました。それで、善なる背景を中心としたキリスト教は発展の一路を得てきました。それにもかかわらず、今この終わりの日に来て、結果時代に来て、良くない民主世界の結果が現れているのです。それでは、その動機となる神様が悪いのか、そうでなければ、この運勢に方向を合わせなければならないキリスト教が責任を果たすことができなかったのかという問題を見てみる時に、動機的な神様は悪くありません。人間を代表したこのキリスト教が責任を果たせなくなる時には、必ず、その結果が悪くなり得ると我々は考えることができるのです。(八四―六一)
初代教会の凄惨な犠牲の代価がなかったならば、今日、皆さんが平安に座って信じているこのキリスト教が存在したと思いますか。到底望めないというのです。皆さんもそれを知らなければなりません。皆さんがローマに行ってカタコンベという所を見れば、クリスチャンたちがどれほど悲惨な生き方をしたのかよく分かるようになるのです。彼らは生活の中で、「きょうが私の命の最後の日だ、きょうがこの世に決別して神様のそばに行く日だ」と言いながら生活したのです。一日といえども心配なく生活できなかったクリスチャンたちであったことを、皆さんは知らなければなりません。今日、全世界のクリスチャンたちは、このような血の犠牲の代価の上に立てられたみ旨を忘れてはならないのです。神様はこのように導き、民主世界までつくっておかれたのです。(五四―一二一)