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第四節 共産主義理論とその虚構性

一.進化論

1 人間の祖先は猿ではない

 この地球星を眺める時、絶対者であられるその神様の前に相対できる存在はいったいどのような存在でしょうか。今日、ある学者たちは猿だと言うのですが、猿が相対になることができますか。皆さん、動物園に行けば猿が本当に尊いでしょう? ある動物学者たちは、人間の祖先が猿だと言うのですが、それならば、その学者に対して「先生、あなたのお祖父さんは誰ですか。猿ですか。では、猿の何十代目の孫であられる先生」とあいさつしてみなさい。喜びますか。とんでもないと言うのです。気分が悪いのです。皆さん、猿が皆さんのお祖父さんならばうれしいですか。(七八―一〇五)

 人間がアメーバから進化したというのですか。生物学者とか生物学教授とかいう人たちは、猿が自分のお祖父さんであると言うのです。このような妖邪なことが天下を滅ぼしているので、それらを掃討するために統一教会の文先生が出てきたのです。ここにいる青年たちもそうではないですか。

 見なさい。力の法則では出力と入力が互いに同じという法はありません。公式がそうです。必ず、入ってくる力が大きいのです。そうでしょう? 

 皆さんは、これを物理で学びます。電気を見ても、モーターを得て出ていく力よりも入ってくる力が大きいのです。いつでもそうです。作用すれば力が消耗されるのです。作用するのに、プラスとなる法がありますか。

 マイナスになりますか、プラスになりますか。(マイナスになります)。小さくなるでしょう? それでは、アメーバが作用するのにどうしてプラスになれますか。そうできないのです。プラスになろうとするならば、どのようにしなければなりませんか。プラスになろうとするならば、第三の力が加えられなければなりません。入っていく時より、高次的な基準の力の作用体となるところにおいて、どうやってプラスになるかというのです。作用すれば、マイナスになるのです。

 それでは、人と猿とを比較してみましょう。猿はただキッキキッキと言い、食べて、寝て、子を産むのが第一です。猿が故郷のお父さん、お母さんを見たくて泣きますか。猿と人間は根本が違います。猿がお兄さんを心配し、あるいは、父母のために死のうとしますか。それでは人はどうですか。そのようなことをしますか、しませんか。(します)。種子が違うのです。そして、猿たちが集まって座って、祖先が何をどのようにした、神様がいるのかいないのかと議論するすべを知っていますか。(できません)。霊界があるということを考えたりもしますか。この宇宙が平和の世界となり、一つの世界となり、愛の花園になるということを夢見ますか。そのような猿が進化して人間になったという人たちは、犬や豚のようなやからです。

 人とは種子が違います。人間は、自己を中心にしたものではなく他を中心として、より大きいことを中心として所望しながら生きるようになっているのであり、自己より低いものを所望しながら生きるようになっていないのです。次元が違うのです。

 人間は古代から、すなわち、人間が生じた時から神を崇尚してきました。神様を崇尚しない種族はありません。神様を考え、我々人間がもっとよくなる宇宙を考えながら来たのです。猿は、その頭でそのようなことを考えられますか。何千、何万段階が過ぎてもできないのです。猿に、そうすることのできる内容、力がどうやって加重して入っていきますか。話にもならないのです。(三九―三三二)

 共産主義は、人間は物質から出てきたと言います。それが可能ですか。物質にそうできる観念がありますか。どんなに人間の能力、すべての調和のビジョンをもってくっつけても、物質自体がそのような素質をもつ道がないのです。弁証法ではすべての物質、すべての存在世界は変化し発展すると言いますが、これ(高い理想、高い基準に向かう心)も発展して変わるのかというのです。昔の人から今の人、何万年後の人がこれに対する本性が変わって発展できるのかというのです。それは変わるもののようですか。猿は高等動物ですが、猿がそのような考えをもちますか。何千年何億年どんなに力を加え、ありとあらゆることをすべてやっても、そうできる本性の心を猿がもつことができるかというのです。このような観点から見るとき、我々人間には猿とは違って、本性的にその偉大な本然の作用が投入されたという結論を下すことができるのです。

 ですから人間に、このような変わる素性ではなく、変わらない素性を投入したのは、変わらない主体の相対的作用によって、その対象的実体になるようにするためなのです。このような論理が妥当であると見るのです。我々にそのような本性があるということは、そのような本性をもった主体的実体があるためであるという結論を下すことができるのです。ここから、主体の観念と対象の観念を知ることができ、私は主体と相対的関係によって因縁づけられているということが分かるのです。

 それでは、主体となるその方のそのような本性を投入したことは、それ自体だけのためのものなのか、より次元の高い理想郷のためなのでしょうか。

 これが問題です。より大きいことのために、より大きいことを願って投入したという結論を我々は下すことができるのです。(九一―一八七)

2 進化論は流れていく一つの歴史的遺物

 チャールズ・ダーウィンという人が書いた『種の起源』を見れば、彼は進化論を起源に弱肉強食という論理を提唱して、力をもって世界を支配して新しい文化圏を形成することを正当化させる悪も行いました。このようなありとあらゆる悪がすべて起きたのです。

 では、種の起源が何かというのです。根本問題に入っていくのです。それを考えるようになる時、神様がいるのかいないのかという問題、今日、哲学的な観点からは意識が先か事由が先かということが大きな問題として台頭しているのです。人間の根本は何ですか。猿から始まったのか、また別の何かの種の起源があるのかという問題、このような根本問題を解決しなくてはならないのです。(一六二―二六〇)

 最近、進化論と言えばみんな流れていく一つの歴史的遺物になっていますが、それは進化して発展すると言うでしょう? 進化するならば、なぜ逆には進化しないのですか。逆に行くこともできるのではないかというのです。東にも行くことができ、西にも行くことができるのではないですか。進化することのできる方向を誰が定めてくれましたか。自己が成長しながら方向を定めますか。アメーバから、これが発展して人になる時まで数多い高次元段階を経て行きますが、高次元に向かって発展できるその方向を誰が定めてくれたのかというのです。なぜ、そのように高次元に向かうのかというのです。

 下に下がって行くこともできるし、横にも行くことができるでしょう。それはどういう意味かと言えば、女子が男子みたいにもなれ、男子が女子みたいにもなれ、言い換えれば、二つとももつことができるのです。一つは前にもち、一つは後ろにもち……。そのような理論まで出てくるのです。女子は女子としてこうでなくてはならないという方向性、男子は男子として絶対こうでなくてはならないという方向性を誰が決定しましたか。それを、女子が決定し、男子が決定しますか。我々の祖先たちが決めたのですか。彼らが決定したのではありません。この宇宙が決定したのです。この宇宙の中心となる、何らかの意思があるべきです。その意思の主体を神様であると見るのです。神様が、「男子はこうでなくてはならず、女子はこうでなくてはならないのである」と、このように決定しておいたのです。(一六六―二一三)

 共産党式は、自然に適応するのは自然的な道理であるとします。根本もなく適応するというのですか。このような人々は、たたきつぶさなければなりません。(三九―三三二)

 作用がないならば、アメーバからより大きな存在が出てくることはできません。より大きな存在が出てこようとするならば、必ず作用が起こらなくてはならず、ここに何かの力が連結されなくてはなりません。すなわち、力が連結されようとするならば作用をしなければならず、作用をしようとするならば主体と対象の関係があるべきです。

 主体と対象は、絶対マイナスとなるところでは作用をしません。プラスとなるところでだけ作用をします。そうなのですが、主体と対象の関係は必ず相対的関係となっているべきです。したがって、アメーバから発展しようとすれば、発展できる、また別の何らかのマイナスとか、また別の何らかの主体とかいう、ある何かに対して与え受ける合同作戦をすべきです。そのようにしてのみ、より大きいものが出てくるようになっているのです。そうでなければ、何ものも出てこないのです。言い換えれば、第二の力が必要なのです。その次、目的が必要で、方向が必要です。ですから、進化するには勝手に進化するのではなく、方向があるべきです。方向を知らなければなりません。方向が絶対に必要なのです。

 方向には、その方向が行こうとする終着点があるべきです。それが目的点なのです。目的観がなくてはならないのです。これが問題です。

 その次には力です。力の公式的な原則を見るならば、このような公式がありますか。(板書される)人間において、入ってくる力と出ていく力とが同じになれますか。力が入ってきてこのように作用したのですが、作用しようと入ってくる力と、作用した後の力、出ていく力は同じであり得るでしょうか。ここには消耗が起こるでしょう? そうではないですか。運動をすれば、消耗が起きるでしょう。ですから、入ってくる力と同じにはなり得ません。作用した後の力はいつでも小さいのです。進化論者たちは、作用をすれば力がもっと大きくなると言うのです。そのような公式はありません。そのようになれば、この世の中はひっくり返るのです。ですから、第二の力が必要です。

 それでは第二の力はどこから補充するのでしょうか。より大きい目的を達成するためには、第二の力の加入が成立しなくてはなりません。第二の力は、主体と対象の合わさった立場には可能なのです。きっぱり出るのです。理論的に合うようになっているのです。そうではないですか。主体と対象が二つ合わさるので、もっと大きい力が出るのです。そうでしょう? ですから、神様は主体と対象の関係を発展的な相対形として整えて、新しい目的の価値を提示した結果、より大きいものへと発展したのです。創造原則がそのようになっているので、小さな物質から宇宙が形成されるのです。(五五―二五六)

3 「自然に生じた」という言葉はごまかし

 今日、共産主義社会では、進化を通して人間になったと言います。それならば、人間になる前に動物はどうやって生まれたのでしょうか。これが問題です。猿はどのようにして生まれたのでしょうか。(一九八七・一〇・三一)

 この世の中を一度考えてみてください。この世界がどこから生じたのでしょうか。今日、科学者や共産主義者たちは「自然に生じた」と言いますが、それはごまかしです。ごまかしているのです。その「自然」はどこから生じたのですか。創造物全部がどうやって生じたのでしょうか。創造しなかったならば、どうやって存在するようになったのかというのです。共産主義者たちは、ただ「自然に」生じたと言うでしょう。

 このピアノも自然に生じたと言うでしょう。これもすべて科学的であると言うでしょう。マイクも、「お前はなぜ生じたのか?」と聞けば、自然に生じたと言うでしょう。(笑い)数百万の医学博士がどんなに研究しても解決できない、この人体は神秘の王宮ですが、「お前はどうやって生じたのか?」と尋ねる時、「私は自然に生じた」と言えば、それは話になりますか。非常に科学的な素質を、属性をもった自然であると言う時、その自然自体が神様と同じです。結局、原因なしに生じる法はないのです。

 今日、皆さんは進化論を適用しますが、アメーバならアメーバが繁殖するのにおいて、アメーバよりも大きいものが生じるためには、つまり、現在のものよりも大きくなるためには、別の力が加えられなければならないのです。力がプラスされたというのです。(板書しながら語られる)それでは、アメーバ自体が力をプラスしながら発展させることができますか。アメーバ自体が、そのような力を加入させることができるのかというのです。そのような能力があるのかというのです。(いいえ)。少しでも上がっていき、もっと大きなものになれるとすれば、ここにもっと大きな力をプラスしなければならないのです。

 それでは、これ自体が力を創造してプラスできる能力がないのに、どこからどうやって来るのですか。そのような論理が成立しますか。(いいえ)。ミスター・金ならばミスター・金、ミスター・朴ならばミスター・朴がいる時、「私が、モハメッド・アリのような人を問題なく片付ける」と言うことができますか。そのようにしようとするなら、ここにもっと大きな力が加わらなくてはなりません。そうでなくては、どんなにやってみても限界線を越えられないのです。ミスター・朴が、「突然変異によって、私の力が非常に強くなれば、モハメッド・アリを打ち倒せる」と言うことができますか。そう言えますか。(いいえ)。

 そこには、何か注射を打つとか、人参エキスを飲むとかして、力を加えることのできる動機を整えておいてこそ、爆発できるダイナマイトを仕掛けておいてこそ、ドカンと粉砕できますが、それ自体としては、不可能なのです。(笑い)それ自体としては、より大きな力をプラスさせることができないので不可能なのです。ですから、それ自体はより次元の高い前進ができないという結論は、理論的な結論なのです。(八九―七三)

4 人間を中心とした進化論批判

 人間が生命をもって生まれる時は、宇宙のすべての生命をもって生まれたような、相対的な原因をもって生まれたということを、我々はここで語ることができるのです。人間一つをモデルにして、低級微生物から高級動物まですべて造ってきたのです。ですから、進化というのは結果的打診にすぎません。

 ですから、出発から一つの目的体である人間を目標として、この宇宙が生成され現れたということを、我々はうかがうことができるのです。微生物からすべての生物、高等動物まで、生成されるところには一つの原則的な過程が連結されています。

 これを見る時、これは無意識的な発展によって成ったものではなくて、意識的な目的観によってそのようになったという結論を下すことができると見るのです。ですから、すべての存在は目的観が入っている存在として出発したということを、我々はここで理解しなければなりません。

 一つの存在を考える時、必ず内的目的と外的目的をもっています。大体このように見るならば、人間も二つの目的体になっています。体の目的と心の目的があります。このように二つの目的をもっていますが、一つの帰結点は同じです。

 では、なぜ二つの目的をもつようになったのでしょうか。これが問題なのです。内的な世界と外的な世界があるために、物質世界と精神世界があるために、この二つの世界を連結するために二つの目的をもった内容をもたずにはいられないのです。これが相克するとか分立するのではなく、一つにならなければなりません。調和的統一を成すところにおいて、すべての人間の理想的実存性が形成されるのです。これが一つになるところにおいて、無秩序ではなく、その二つは一つの統一的目的である人間完成という標準に向かって終結するようになるのです。そのように完成した男性ならば男性、あるいは、女性ならば女性自体が一つになるために活動するのです。

 男子と女子が、なぜ一つになろうとしますか。我々がここでダーウィンが言った進化論を論ずる時に、進化というのは必ず一つになることのできる先進作用がなくては不可能だということを提示しなくてはなりません。進化という決定を見る前に、進化できる先進的作用、お互いが合わさろうとする力があるという事実を、我々は認定しなくてはなりません。この先進的な力、先にあって進化を起こすことのできる力は、より高いものへと前進するようになっています。

 では、これを誰が提示したのかというのです。進化していくものそれ自体が、高いところに行かなければならないという方向性を提示することはできないのです。方向性をなぜもつのでしょうか。必ず目的という意識をもたなければ、方向性は決定しないのです。勝手に行くためです。ですから先進的な力の作用、合わさって一つになろうとする作用と、その次に方向性と目的性というものを認定しなければ、進化して高等動物に前進、発展するという論理を立てることができないと結論することができるのです。

 進化も、一つの作用として見るならば、なぜ起きるのかというのです。一人では作用ができません。作用とは、相対的関係から起こるのです。作用するにおいて、必ず二つとも利益になって大きくならなければならず、小さくなれば絶対に作用しません。この原則を知らなければならないというのです。男女がお互いに愛を中心にして作用しようとするのは、自分たちが損害を被るためではありません。より次元の高い発展のために、その目的のために、作用しようとするのです。

 その作用は誰のための作用でしょうか。お互いのための作用であるという結論が出ます。その方向は誰のための方向でしょうか。お互いのための方向です。お互いのための方向からのみ発展します。その目的は誰のための目的でしょうか。お互いのための目的です。お互いのための目的からすべてのものが形成されるのです。

 ですから、作用するところには必ず二重性があり、方向性にも二重性があり、目的にも二重性があるという結論を下すことができます。(九三―一七三)

5 すべての存在は目的意識が先在している

 弁証法では、方向性とか目的性を認定しません。その次に、作用性に対する根本問題に触れないようにします。なぜ作用しようとするのか、なぜ一つになろうとするのか、という問題に触れませんでした。それ自体を中心として発展するというのです。発展する場合必ず大きなものに発展する、ここに突然変異という仮想的な論理を立てて、補填しようと努力しています。

 なぜ突然変異が起こるのかというのです。それでは、作用は誰が成し、方向性は誰が提示し、そのような結果になった目的は誰が提示したのかというのです。それ自体が提示できるのでしょうか。できないというのです。

 我々男女が、愛する場合において、古代の祖先たちと今の我々と、愛する方向とか作用とか目的が違うでしょうか。(同じです)。そこには、なぜ突然変異が起こらないのかというのです。人間が今まで進化したならば、人間以上へと進化すべきなのに、なぜ人間で停止したのかというのです。これが問題です。人間が停止すると言って、こうなりましたか。「私が停止する」と、人間が考えて停止しましたか。(いいえ)。人間がそれを決定したのではなく、決定した位置に人間がひとりでに立っているのです。この事実は、既にこの宇宙に意識が先に在ったという結論を下すほかないということです。

 我々は、目一つを見てもすべて答えることはできないのです。今日、弁証法とか進化論をもって、これについて話すことができないのです。皆さんは将来、共産主義者たちと戦うべきです。今、進化論と弁証法を壊すべきです。進化論だけ壊してしまえば、弁証法は壊れるのです。今、闘いは何ですか。意識が先か、物質が先かという問題です。共産世界は、「物質が第一だ、物質が始めだ」と言い、民主世界では、「意識が先だ」と言います。

 この目は物質です。物質によって構成されています。目がどのようにして生じたのかと言う時、目がただ生じたくて生じたと考える人は狂った人です。鼻はじっとしているのに、目はなぜ動きますか。「なぜ目が動くか」と言う時に、「動きたいから動くのでしょう」と言うのが進化論式であり、弁証法式です。目の目的は見ることです。見るところに目的があるために動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻は、ちりが付いてもじっとしているのに、目はなぜこのように絶えずパチパチするのかというのです。なぜそうなのですか。なぜそうかと言えば、水分が蒸発して乾くので、水を撒いてやるためにそうするのです。

 まゆ毛はなぜ生じましたか。ちりを防ぐために生じました。「なぜそのようになっているのか」と言う時、そのようになりたくてなったと言うのは進化論式です。(笑い)それは、そのように簡単ではないのです。それがただそのようになったと言う人がいれば、「ばかげたことを言うな」と、こう言うのです。

 このように考える時、目というものが本来生じる時から、この宇宙があることを知っていたのかというのです。ここには太陽があり、ここには空気があり、ほこりが生じ、水蒸気になって蒸発するという事実、このような宇宙があるということを始めから目というものが知っていたのだろうかというのです。それを知っていたでしょうか。一番始めに、目がそれを知っていたのだろうかというのです。答えてみなさい。(知りませんでした)。それでは、「知らなかったのにそのようになった。知らなかったのに進化的発展によってそのようになり、弁証法的発展によってそのようになった」と言えば、やめろというのです。それがあり得ますか。(いいえ)。

 ですから既に、この目が生じる時には太陽があり、空気があり、ちりがあり、水蒸気が蒸発するという、天文学的、博物学的知識基盤の上に存在し始めたという事実を我々は否定できません。理論的に否定できません。ですから物質が先か、意識が先かという時、どちらが先ですか。(意識です)。何ですか。(意識です)。

 根本的に人間がどこから生じたのかという問題を見る時に、人間自体の意識、あるいは、人間自体の発展的作用の何かの原因によってそうなったのではありません。必ず根本的な作用があり、方向性があり、目的観があったということを認定できる内容を、先に提示しなければならないのです。このように見る時、人間とかすべての万物が自分勝手に進化、発展したのではなく、必ず作用はこうあるべきだ、方向はこうあるべきだ、目的はこうあるべきだという意識の決定的な目的的実体として存在し始めたということを、我々は論理的に否定できないという事実を知るべきです。

 それでは、人間はなぜ生まれたのでしょうか。人間は、高等動物としてなぜ生まれたのかというのです。人間は高等動物として作用し、高等動物として行くべき方向があり、高等動物として成すべき目的をもって生まれました。このようなことを知るべきなのです。(九三―一七六)