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第二節 共産主義の正体

一.共産主義の正体

 共産主義はどこから出てきたのでしょうか。今から五十年前の一九一七年にソ連を中心として出し抜けに出てきました。

 それでは、この共産主義が歴史的なみ旨と今までの時代的なすべてのみ旨を、みんな一つに結ぶことができますか。それはできないのです。(一八―一一)

 共産主義も世界主義ですが、それは何ですか。神主義ではありません。善が来る前に悪が先にこっそりと現れて踊りを踊り、去っていくのと同じです。それが、統一教会の原理観です。(五六―一六三)

 今日、共産主義者たちからは、「おお、資本主義世界の農民を解放しなければならない」という声が高らかに聞こえてきます。その解放の声が果たして、神様が人類歴史を通して完全に主体となって善なる側で主導するある特定の宗教、その主力となる宗教人たちが願う解放の基準と一致することのできる、そのような喚声であったのかといえば違うのです。

 この共産主義は、唯物論に立脚した世界の解放を夢見るのです。これは、神様までも否定して、宗教は悪であると烙印を押してこっぱみじんにし、その世界では形態すらもなくしてしまうのです。このような立場から解放を主張するのを見るときに、これは、理論的な見地から見ても一致できないのです。それはどこまでも神様の前に正反対となる対立的な解放に違いないために、悪なる悪魔の神がいるならばそれが旗手となり、神様が願う宗教的旗手の前に正面から世界的攻勢を加えてくるのです。それが今日の共産党であるという結論を、そのような観点から下すことができます。

 それでは、共産党は何ですか。悪魔的宗教と同じ、悪なる群れの宗教と同じ形態を備えて現れるのが共産主義です。悪魔の理論完成のために道具として使用されている唯物論的立場の宗教形態が共産主義である、このように見ます。それはなぜですか。悪神であるからです。(八五―二三〇)

 唯物論は宗教圏内から偏頗的に逃亡していったのです。唯物論というのは共産主義なのです。共産主義とは何かと言えば、唯物思想によって宗教を統一しようとするものです。キリスト教の形態とそっくりに生じて、外的問題を中心とした唯物的宗教形態のような集団が共産主義なのです。人間が神様を身代わりしようとしているのではないですか。金日成をお父さんとしてつくっておいたのです。そして絶対視しています。仮想的に神格化させるのです。それは、宗教思想と同じです。外的な形態もそっくりです。内容も全部、宗教思想のような内容を中心として単一化させています。ですから、偽物と本物はそっくりなのです。(四一―三三九)

 共産主義というものを中心として見るならば、国家観であれば国家観において人間の価値を完全に認定するのかというのです。すなわち、国家的な所有観念圏内に人間が入っているのか、人間を中心とした人間圏内に所有観念が入っているのか、ということを我々が考えないではいられないのです。このような観点から見るとき、共産主義というのは、党が絶対なのです。「すべてのものは、党の命令に絶対服従しなくてはならず、その所属圏内に永遠にいなくてはならない」。こうして、「世界を共産主義のものとしなければならない」と言うのです。

 それでは、共産主義が主張する人間の価値はどこにあるのでしょうか。党に絶対服従するところに人間の価値があると言います。逆さまになっているのです。党のためには個人を犠牲にしなければならず、すべてのものを犠牲にしなくてはならないと言います。それでは、その党は永遠なものかというのです。どのような永遠なる権利をもっているのかというのです。これは変遷していっています。共産主義は変遷していっているのです。絶対的であり永遠なる基準で絶対服従し絶対順応するところには、公式的なある定義とか真理的体制があるかもしれませんが、変わるところにはそれがあるはずがないのです。

 このような圏内で生きる人は、いつも人間の自主権、人間の権利、人間を中心とした新しく自由な世界観を憧憬するようになっています。皆さんが知っているようにドイツは東西間を障壁によって隔てられていますが、この障壁さえなければ、東ドイツの人たちはみんな西ドイツに移ってくるでしょう。全部越えてくるのです。それはなぜかと言えば、人権というものをみんな蹂躙したために自動的にそうなるというのです。共産主義という体制圏内に人権を擁護する自由な制度があるならば、それは世界を完全に征服できて余りあるものだと考えます。このように見る時、共産主義はいずれ人間世界で新しい一つの人権と物権がぶつかり、戦って転覆させられる運命に置かれているという結論を、我々はここから下すことができます。(九三―七二)

 悪とは何ですか。私的なものです。その中でも世界的に私的な看板をつけて立つものが、最高の悪です。共産党とは何ですか。自己を中心とするやからです。自己の主権のためには、どのようなことでもするというのです。(三二―二八二)

 皆さんは共産主義者たちを甘く見たのです。共産党は滅んでも自体内で高級官吏たちの戦いが起こらなくてはならないのであり、外部との戦いをもっては滅びません。倒れません。倒れれば、分散して地下に入っていきます。それで、子供たちが出たり入ったりするのです。ゲリラ戦法をすべて学んだのです。食べ物がなければ、盗んで食べるのです。

 共産党にとって盗みは普通のことです。通り過ぎる人から強奪するのは普通のことです。天下のすべてのものが敵です。敵ではなくて何と言うかというと、自己の心のままにできる餌です。部落に行って牛なども盗んで山に持っていって、殴り殺して食べて生きるのです。富者が出掛ければ道の要所で待ち伏せし、金を奪って殺してしまうのです。革命のためには、そのようにしなければならないというのです。不純分子たち、不応する分子たちは、処断するのが原則なのです。ですから、天下に彼らが行く所ではどこでも、ありとあらゆることをしかねないのです。

 彼らが南韓にスパイを送る時、財布を持たせると思いますか。すりを学べということです。すりから始めよということです。

 それでどうにかしてすりの親分になって分け前を大きくしてからは、自分は直接先頭には立たないで部下たちに工作資金、活動費をあてがっているのです。それを知らなければなりません。(一六三―一九八)