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第一節 共産主義の出現と今日の世界
一.共産主義の出現
1 共産主義出現の預示
旧約聖書の歴史を見れば、ユダの嫁タマルについての話が出てきます。このタマルという女性がどのような女性かと言えば、天の祝福を受けた血統を残すことを何よりも重要視した女性です。タマルという女性は神様の血統、すなわち祝福というものを重要視した人です。それで彼女は神様の代を継ぐことにおいては、どのような冒険でもしようとする歴史的な代表的女性です。これは誰の立場と同じかと言えば、エバの立場と同じです。エバは、人類の母として神様の直系の伝統を引き継がなければならないにもかかわらず、これを等閑視して破綻させました。これを復帰するためには、エバよりも優れた女性が現れなければならないのです。死んで滅びることを意に介さず、ただ神様の祝福を受けた血統の継代(代を継いでいくこと)が残ることを、自分の命よりも価値あるものと思う女性が現れなければならないのです。その女性が誰かと言えばタマルです。
年の幼い義理の弟を通してはその支派の血族を残せないということが分かったタマルは、冒険をしたのです。自分は死んで消え去ろうとも、祝福を受けたユダ支派を残さなければならない責任を切実に感じていたタマルは、義理の父をあざむいて関係を結んだのです。それはちょうどエバが神様をあざむいて関係を結んだことと同じです。タマルは神様のみ旨を成すために、自分の義理の父をあざむいたのです。そのようにして、天の道を復帰したのです。
それはエバと正反対です。エバは天をあざむいて誤った愛の道を行き、天地を滅ぼしましたが、タマルはこの誤り滅んだ世の中を正すために、神様をあざむいたエバと同じように自分の義理の父をあざむき、神様の代を受け継ごうとしたのです。エバと正反対の立場に立ったのがタマルでした。分かりますか。
どうしてタマルは、このような非法的な愛の関係を結んだにもかかわらず天の祝福を受けることのできる第一代の母になったのですか。これは堕落したエバが父なる神様をあざむき非法的な愛の関係を結んで滅びましたが、タマルはそれとは反対に非法的な愛を通して滅んだのではなく、神様を尋ねていくことのできる神様の継代を誰よりも尊重視したからです。蕩減復帰がなされたために、天がタマルを通して役事をするので、それが罪とならないのです。原理に立脚した位置になるのです。分かりますか。そのような立場はエバとは正反対の立場です。
そのために、タマルを通して天の摂理の糸口が残るようになったのです。分かりますか。タマルは義理の父ユダが羊の毛を刈りに通う道端で娼婦に粉装して待ち、義理の父をあざむき誘い入れて関係を結び、妊娠しました。これが復帰摂理の一つの勝利的土台になったということが、今まで分かりませんでした。分かりますか。ヤコブも兄をあざむかないわけにはいきませんでした。すべてそのようになっているでしょう?
そのようにしてタマルが腹中に赤ん坊をみごもるようにはなりましたが、ここで根本的な交差運動をしなくては天倫の正常的な血統的勝利の土台を立てることができないので、神様はタマルに双子を生むようにしました。分かりますか。これが、ペレヅとゼラです。
ですからこのように、腹中で入れ替えなければならないのです。入れ替えをしないでは、正常的な因縁を通して原理的に先に生まれた長子の基準を地上に立てることはできず、次に生まれた次子を主管できる基準を立てておかずには、原理原則に戻っていくことができないのです。そうですね? このみ業をするためにタマルの腹中でペレヅとゼラが戦うのです。
出産期になって赤ちゃんを産むようになったのですが、兄がまず手を突き出したのです。創世記第三十八章を見ればこの内容が詳細に出ています。手を突き出すので産婆が赤い糸で縛ってあげました。このことは将来、主が来られる前の時代に共産党が出てくることを予示したものです。赤い糸を結ばれた兄が少しの間現れましたが、それを押しのけて反対に弟が先に出てくるようになったのです。ペレヅという名前は、押しのけて出てきたという意味です。(五八―五三)
道端で娼婦の姿に変装して義理のお父さんの懐に抱かれて生んだ息子が誰かといえば、双子のペレヅとゼラです。ペレヅとゼラは、おなかの中で入れ替えをしなければならないのです。エサウとヤコブが入れ替えをした後、腹中での根本的な復帰過程が残っているために、これを完全に入れ替えるために腹中で二人が戦うのです。
兄になるゼラの手が先に出たので産婆がその手に赤い糸を結んであげました。これは共産党が先に出現することを予告することなのです。分かりますか。
終末時代に入れ替えをした主が来られる前に、先に出てきたゼラに赤い糸を結んであげたのと同じく、共産世界が先に現れるというのです。共産世界が兄の姿で先に出てきましたが、弟がその兄を押しのけて、世界的な主権をもってくるということを見せてくださったのです。分かりますか。
ですから弟が、先に出てこようとする兄を押しやって、後になるべき弟の立場でありながら先に生まれたのです。ペレヅという名前は、押しのけて出てきたという意味です。分かりますか。
善が先に出発しなければならないのに、悪が先に出発したでしょう? これを初めて入れ替えたのです。(四三―一九九)
2 赤色と共産主義
白色は安全なものを象徴しますが、赤い色は危険なものを象徴するのです。そうでしょう?
ですから共産党を赤と言うのです。共産党をなぜ赤と言うのかといえば、危険が付きまとっているためです。危険なために赤と言うのです。しかし、右翼は正しいことを言うのです。それ自体がそのような内容を告げているのです。それは人間が作り出したものではありません。(三九―一二七)
天地において、サタンは悪なる存在なので、自己の正体をさらけ出さずには天倫の前に立つことができません。絶対者の審判廷に立つことはできないのです。サタンは悪なので左側です。ですから左翼という言葉が出てくるのです。そして赤と言います。赤色は危険を表す色でしょう? (はい)。
そしてイエス様の十字架の時の右側の強盗を身代わりして出てきたのが民主世界です。右側の強盗を身代わりして出てきたために、民主世界を右翼と言います。旗を見れば左翼である共産世界は赤色旗であり、右翼である民主世界は白色旗です。終わりの日には全体が実を結びます。ですから自己の正体を告げる証の時代です。全部告白しなければならないのです。このような立場が真の父母を中心にして展開されたのです。イエス様を中心として実体的な世界が成されないで霊的にだけ成されたために、実体的に二つの世界として展開されたのが民主世界と共産世界です。(二三―一七七)
実に不思議でしょう? 誰が共産圏を左翼、民主世界を右翼と名づけたのか不思議なのです。誰がつけたのですか。そのように蒔いたので、そのような結果をもたらすようになったのです。「赤(共産主義)」の赤色は危険を象徴する反面、白色は平和を象徴します。そして、民主世界を白色主義と言い、共産主義を赤色主義と言います。誰が最初にそのように名づけたのでしょうか。
人は誰でも、天倫の前には自己の良心を中心にして告白しなければなりません。偽りは偽りとしての終局を避けることはできません。その正体をさらけ出さなければならないので、左翼とか赤とか赤色主義とか言うのです。すべての事実をはっきりと知っている者の前では、告白しなければならないのです。悪がどんなに世界的な勢力の基盤をもったと言っても、その正体の内部まで詳細に透視していらっしゃる神様の前では否定できないために、自身の正体をさらけ出す左翼あるいは赤色主義というのです。(二〇―一七三)
我々はどのような主義ですか。民主主義ですが、民主主義は白色主義です。なぜ、白色ですか。神様が中心になって神様の仕事をするということです。世界的な仕事をするのです。
反面、共産主義は赤色主義でしょう。共産主義とは何ですか。サタンを中心として遊ぶ主義ですか。違うのです。共産党は真っ赤で気分が悪いのです。(四五―二八三)
3 羊とやぎの比喩
皆さん、マタイによる福音第二十五章を見れば、終わりの日には羊とやぎを左右に分けるとあります。悪の勢力を分けて二つに裂くということです。羊には主人がおり、やぎには主人がいません。その時が今なのです。民主世界は神様を主人として侍る世界であり、その反対に共産世界は神様がおらず、宗教は怨讐だと言う世界です。このように二つに分かれるのです。これは私の言葉ではありません。歴史がそのようになっているのです。「一つ」に一番近いものが「二つ」です。終わりの日にはこのように二つに分かれるのです。(五四―四七)
聖書を見れば、終わりの日には羊とやぎとに分けるとあります。それはなぜでしょうか。植えたものは秋になれば刈り入れます。言い換えれば、終わりの日には、蒔いたとおりに刈り取るようになります。人は心と体が闘うものとして植えたために、これが世界的に実を結ぶ時が来るのです。
その時がいつかと言えば、世界的に民主世界と共産世界に分かれている今です。一つは唯心世界を主とするのであり、一つは唯物世界を主とするのです。一つは内的な心の側を代表した世界であり、一つは外的な体の側を代表した世界です。これは、心と体が闘う私を根本として生じたのです。(四一―六一)
皆さん、聖書を見れば、終わりの日になれば羊とやぎとに分かれるとあります。羊には主人がいて、やぎには主人がいません。そのために、民主世界は唯心論を中心に神様をつかんで現れた歴史観であり、共産世界は神様を否定する、主人がいないと言う歴史観になっているのです。(五三―一八六)
聖書には、終わりの日に羊とやぎが分かれるとあります。羊とは主人がいる者を言い、やぎとは主人がいない者を言います。世界は今まさにそのようになっています。自由世界は神様を主人にしていますが、共産世界は神様はいないと言うので主人がいません。それは、我々個人の分かれた心と体の世界的な実なのです。結局は、春にそうやって植えたものを刈り取らなければならない秋の季節が来たのです。(五四―一二五)