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第六節 「ため」に生きる哲学と統一

一.人間の幸福の起源

 

1 愛と理想と幸福は一人では成せない

 

 昔から人類は、永遠ながらも真で変わらない愛と理想と幸福と平和を描いてきたことを我々は知っています。しかし、今日我々が生きているこの世とこの時代は不信の世の中であり、混乱の時代です。そのような中で、このような要件を探して成すということは、既に不可能な段階にぶつかっているということを我々は直視しているのです。人間ができる努力はみなしてみたけれども、このような要件を充足できない現在です。

 それゆえ我々人間としてできないからには、我々は人間を越えて、永遠で不変で真であられるある絶対者を探し、その方に依存するしかないでしょう。その方が真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福を念願されるならば、その方を通じてのみこれが可能だと我々は考えざるを得ません。

 そのような立場で考える時、そのような方がいらっしゃるとするならば、その方は神様でないはずがないのです。神様は愛の王になれる方であり、理想の王になれる方であり、平和と幸福の王になれる方です。それではその方を通して、このような人類が追求した理想的要件を成すためには、その方が提示する内容を我々が知って従って行かなければならないということは当然の結論なのです。

 我々が考えるに、愛とか理想とか幸福とか平和とかいう言葉は一人で成立する言葉ではないのです。これは必ず相対的関係で成立される言葉であるゆえに、いくら絶対者であられる神様がいらっしゃるとしても、その神様が願う理想と幸福と平和は、一人で成すことができないのです。

 神様自身においても、相手が必ず必要なことは必然的な帰結であるゆえに、いったいこの被造万物の中で、神様の相対になることができるそのような存在がどこにいるのかと反問するならば、それはとやかく言うことなく人間以外にはないという結論が下されるのです。

 神様の理想を成すことができ、神様の愛を成すことができ、神様の幸福と平和を完結させることができる対象が人間だという事実を、我々は考えることができなかったのです。

 神様一人で愛して何とし、神様一人で理想だとして何としますか。必ず相対的な人間を通じなくては、このような要件を成すことができないということは当然の結論です。(七五―三一五)

 

2 愛と理想と幸福と平和の起源

 

 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様が、真なる愛や真なる理想や真なる幸福や真なる平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどこに置くのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。

 主体がいらっしゃる反面対象がいますが、主体のための道と、対象のための道、この二つの道の中で理想の要件をどこに置くかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないのです。

 それで真なる理想、真なる愛、真なる平和において、主体を中心として対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くべきか、対象を中心として主体が対象のために生きるところに理想的起源を置くべきかという問題を神様は考えられました。その理想的起源を主体である自分の前に、対象を(自分の)ために尽くさせる位置に立てるならば、神様がそうであると同時に、すべての人も自分がある対象をもつことができる位置に立ちます。そのようになるのです。それでは一つになることができる道がふさがってしまいます。これを知らなければなりません。

 一つになることができ、平和の起源になることができるその道はどこにあるのでしょうか。神様自身だけでなく、真なる人間は「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったというのです。それゆえ、真なる愛は「ため」に生きる所から、真なる理想も「ため」に生きる所から、真なる平和、真なる幸福も「ため」に生きる立場で成立されるのであって、「ため」に生きる立場を離れては探すことができないのです。これが天地創造の根本であったという事実を、我々人間は知りませんでした。

 真なる父母はどのような人かという時に、子供のために生まれ、子供のために生き、子供のために死ぬ人だということができます。

 そのようになってこそ、子供の前に真の理想的父母として登場できるのであり、真の父母の愛が成立されるのです。さらに進んでは、子供の前に平和の中心になるのであり、幸福の基準になるということを我々は知ることができるのです。

 反面、真の孝行の道はどこに基準を立てるべきでしょうか。その反対の立場なのです。父母のために生まれ、父母のために生き、父母のために生命を尽くす人が真の孝子になることができます。そのようにしてこそ父母の前に理想的子女であり、心から愛することができる子女であり、幸福と平和の対象になることができるのです。

 それで我々はここで一つの公式を提示することができますが、「ため」に存在する立場でのみこのように理想的要件、すなわち真の愛、真の幸福、真の平和を見つけることができるということを今推察されたであろうと見ています。(七五―三一八)

 

3 宇宙創造の原則と人間幸福の起源

 

 神様の創造の原則が何でしょうか。創造は何かというならば、神様自体を投入したのです。神様のすべてのものを投入するところでのみ、完全投入するところでのみ完全結果が保障されるのです。これが創造の原則であることを我々は知らなければなりません。それゆえ、私自身を真に投入しなければなりません。真で与えなければならないというのです。真で与える所でのみ未来の自分の相手が起こるのであり、自分の踏み台が形成されるのであり、私を立証できる環境的与件が成立されるのです。受けるところでは不可能なのです。それは創造原則にありません。(八二―三二二)

 

 このように宇宙創造の原則であり、人間の幸福の起源が「ため」に存在するところにありました。例えば、男がなぜ生まれたかと問うならば、今日ここに著名な人士がたくさん集まりましたが、誰にも負けない私自身のために生まれたと今まで考えてきたことでしょう。しかし、本来男が生まれたその本意がどこにあるかというならば、女のために生まれたというのです。女のために生まれたというこの事実は、誰も否定できないのです。

 相対的な立場で見るならば、男は上の肩が広く、女は下が広くなっています。ニューヨークのようなところに行ってみれば、座席が満員になった時その狭苦しい椅子の中央に座っても、上が広く下が広い男と女と一緒に座ればぴったりはまるのを見ることができます。これはお互いが「ため」に生きる相対的関係をもつために、そのように生まれたということを我々は否定できないのです。

 男は男のために生まれたのでなく女のために生まれました。また、女は女のために生まれたのでなく男のために生まれたという事実を自らが確信できない立場にある時、問題が勃発するということを我々は知らなければなりません。これは天地創造の大主人であられる神様がそのような原則を創造原則としたゆえに、その原則に従って行かなくては、善で真で幸福で平和な世界に入ることができないのだと、本人は知っているのです。(七五―三二〇)

 

 男と女が生まれたのは、男は男のために生まれたのでなく女のために生まれ、女は女のために生まれたのでなく男のために生まれたのです。このようになったというのです。生まれたのは自分のために生まれたのではないのです。自分のために生まれたのでない者たちなのに、自分を主張するのです。「私、私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば統一の世界は展開されるというのです。(六一―二六六)

 

 自分の価値を自分から追求するよりは相手から、すなわち相対的基準からその価値を追求できる道を探求する人は不幸な人ではありません。いつでもどこでも心情の基盤は相対圏をもったゆえに、行っても来ても彼は孤独でなく幸福でいられるのです。(五九―二〇〇)

 

 真の父母は子供のためにいるのであり、真の孝子は父母のために、真の国民は国のために、真の主権者は国民のために……。ここに真があり幸福があるというのです。

 このような原則を適用して、アメリカの国民の中で一番の愛国者が誰かというならば、ある者はエイブラハム・リンカーンだというのです。彼は平民に生まれて民主主義を代表した指導者として、生まれながらにしてアメリカのために、生きながらもアメリカのために、死ぬのもアメリカのために死んだから、このような原則に一致した生を終えた人なのです。それゆえ、彼はアメリカ国民の中で今まで愛国者の表象として残されているのです。

 また、人類歴史上の聖人の中の聖人は誰かというならば、この原則を適用してすぐにイエス・キリストを捜し出すことができます。なぜならば、彼は人類のために来て、人類のために生き、人類のために死にながら、自分を十字架につけた怨讐さえも許してくれという祈祷をして亡くなった事実を見る時、どのような聖人よりも飛び抜けていたので、そのイエス様こそ神様が極めて愛することができる息子にならざるを得ないことは当然の帰結なのです。それゆえ、天国はこの公式により成されるのです。(七五―三一八)