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真の愛とは何でしょうか。真の愛に接するようになれば、皆さんの心の細胞と体の細胞が共鳴することがあります。共鳴! 音叉というものは、共鳴するもの同士周波が同じになれば、また振動数が同じになれば、この振動数で自動的に同じ波長に順応して共に作用することを言います。同じように真の愛に人の心が来て「ふうー」と呼ぶ時は、体も「ふうー」と共鳴するというのです。
この細胞一つ一つがみな真の愛を中心として共鳴点に入っていくようになる時は、目も見る所が一箇所であり、考えも一つの考えであり、作用も一つの作用であり、においも一つの方向であり、言葉も一つで、これを称賛するために動くようになります。そうして男と女は平衡的、平面的主体と対象の関係になっており、男女が合わさって中央線に立つようになる時に垂直線が立つようになりますが、これは神様が願う愛の垂直線につくられるのです。男女の平面的関係と、男女が合わさって立てられた神様が願う愛の垂直線と一致するその点が、センターを通じてすべての球形の作用をするようになり、その位置を通さなくては球形の力は作用できなくなります。それは千年、万年共通分母になります。万種の作用、万種の存在、万種の細胞構成の共通理想と通路として、それが決定されなければなりません。ここで愛の目で見るならば、全部私のものでないものがありません。(一九八六・一・二一)
我々人の生理的構造から見る時、人には五官がありますが、この五官の好む本質が何であり、本性の通路がどこにあるのでしょうか。愛に従って行くその道しかないというのです。それゆえ、愛を中心とするようになる時は、目も耳も鼻も舌も統一され、すべての触覚、感じも完全に統一されるのです。全体が一つになるのです。目がこのように行ったり来たりするけれど、愛がある所へ行くのです。鼻がこのようにあるけれど、そちらへ行くのです。私のすべての霊と肉が、生理生態のすべての要素がそこに全部一致させるのです。朝太陽の光が照らすと、すべての草木が自分勝手になっているけれど芽は、この端はみなこのように一致させるのです。生命の要素であるゆえに。(一六八―一八一)
神様の愛が何がどうだと言うけれど、神様の愛が何か分かりますか。神様の愛がどんなに強いかというのです。皆さん、鶏の足のようなものを切って筋をつかんで引けば引けるでしょう? 筋をつかんで引けば全部このようでしょう? 愛とは何ですか。愛だけつかんで引けば、神様の愛だけつかんで引けば世界がみな引かれてくるのです。何の話なのか分かりますか。
その愛に酔うようになれば目も一つになり、鼻も一つになり、手も一つになり、フォーカス(focus:焦点)が全部統一されます。全部みな集中されます。完全に一つになります、完全に。それで「よい!」というようになれば細胞までも「よい!」というのです。そのようにできるのです。分かりますか。何の話なのでしょうか。完全に垂れ下がってぶらりぶらりします。完全に一つになってどこに行っても、どのようにしても……。
そこへ入っていってその場で「ああ、いい!」というならばこれが全部踊りを踊るようで、細胞が踊るようで、そこと共に宇宙が踊っているようです。私がよければ全宇宙が喜びます。それでそこで神様の愛を受けて、よくて「ほほほ……。よい」という時、宇宙が「ほほほ……」と、こうなのです。山鳴りのように響くというのです。「あはは……」というならば「あはは……」と響くというのです。何の話なのか分かりますか。目がひっくり返る程度でなく、目がむちゃくちゃに飛びますよ? そのような気分なのです。表現できないのです。人はそのような愛を受けるようになっているのです。そのような男と女、二人がよくて暮らすようになるならば、息づかいにも宇宙が全部行ったり来たりするのです。海の水が月の引力によって行ったり来たりすることと同じように、「ふうー」というならば全部「ふうー」そうなのです。それ一度知ってみたいでしょう? (九一―三一八)