P.480

三.愛は統一の起源

 

 本来神様を中心としていつ統一されなければならないのでしょうか。神様の創造の偉業を立て、実践理念を追求していく中で完全に一つになるには、何を中心として一つになるのでしょうか。神様の創造の能力ですか。違います。既成教会が神様の能力で世界を統一して地上天国をつくり、天上世界で再臨主を迎え、千年王国を建てて生きると夢を抱いていますが、とんでもありません。力でやり遂げることができたならば、堕落は成されなかったのです。そのようにできたならば今日堕落を見ないというのです。理論に合わないそのような空想をしたところで滅びるのです。滅びます。権力ではありません。神様の全知全能ではありません。知らずにいるのです。知識ではありません。神様に宝物がないのではありません。しかし宝物ではありません。愛です、愛。愛を中心として一つになるのです。

 愛を中心として一つになればどのようになるのでしょうか。神様のものであると同時に愛に属したものになるのです。分かりますか。妻がダイヤモンドの指輪をはめたとしても、愛の表示としてはめられたその指輪は誰のものですか。夫のものです。それを知らなければなりません。私のものではありません。愛の表示として与えた愛の表示体です。愛がなくなる時はこの指輪も逃げていくのです。そうでしょう? 内容が愛です。どんなに金銀、宝石で飾り立てたとしても、愛する夫を奪われてしまったならば、幸福ですか。

 そのように見る時、神様の統一的起源がどこにあったのでしょうか。神様の体と心が「やー、もういい」ということができる完成基準、神様の完成基準、神様が喜ぶことができ、神様の体と心が喜ぶことができる基準、これをつくるために愛の対象をつくったのです。それが愛です。これを分けて置いたのがアダム、エバですが、二人が愛するようになる時、その愛を中心としてアダムはエバのものになるのであり、エバはアダムのものになるのであり、アダム、エバのものが神様のものになるのであり、アダム、エバのものが万物のものになるのです。万物が愛と連結される時、アダム、エバのものになり神様のものになるのです。何の話なのか分かりますか。

 それゆえ、愛を中心としてすべてのものが統一されるのです。神様の体と心が一つになり、神様の二性性相から分けたアダム、エバが一つになり、そのアダム、エバが一つになると同時に万物までも一つになることができるのです。この起源が、統一圏が本来の愛を中心として人間と神様と万物の中に設定されたならば、堕落はなかったというのです。そのようになったならば、その人は既に神様のものになったのです。アダムも神様のものであり、エバも神様のものであり、愛で結ばれた男は絶対的にエバのものであり、女も絶対的に男のものであり、そうした父母は絶対的に息子、娘のものであり、息子、娘は父母のものになるのです。共同所有の理念の基盤を確定することができました。これを知らなければなりません。

 愛が偉大なのはそれです。上下、高低の距離を超越し、空間と時間を超越して、共同所有の理念を即刻に共有できる圏内に参加することができる、参加できる能力が愛の道にあったのです。これは驚くべき事実です。(一六八―一九七)

 

 神様が悲しむために被造物を創造されたでしょうか、でなければ、喜ぶために創造されたでしょうか。プラス(+)になるために創造されました。プラス(+)になれば喜びが生じるのです。そうすれば、喜びの対象に愛が流れていくのです。神様の愛は統一の源泉になるのです。この愛を掲げて出るようになる時は、万国を消化させることができる力が生じるのであり、万国を抱いて永遠に引っ張っていっても、もっと引っ張ってくれたならばという力が生じるのです。

 愛はこのように父母が子を愛するように、愛すれば愛するほど喜びが増えるのです。愛は一つになるのです。もし神様の愛と一つになった人がいるならば、その人は誰も引き離すことができないのです。だからどんなにすてきな愛ですか。(一八―三二九)

 

 完全な統一は完全な神様の愛によってなるのです。(九四―二六三)

 

 統一はどこで起こるのでしょうか。統一は考えで起こるのでなく愛で起こります。皆さんの体と心が愛するその瞬間だけは一つになるのです。そのようになるのです。それゆえ、統一は愛を通して成されるようになるのです。

 ここで初めて一つになるのです。完全な統一、縦的な統一はもちろんであり、横的な統一も愛で始まるのです。(五八―二一四)

 

 神様を中心として見る時、善の根本は愛です。愛があれば統一は自動的に成されるのです。サタンよりもっと水準の高い愛をするならば、サタンも引っ張られてくるようになります。神様は最高の善と愛を与えるために天地を創造されたのです。(一三―九五)