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神様のみ旨を中心として見るとき、韓民族は神様が選ばれた民族であり、韓国は神様の願われる「ために生きる生活」の見本を示してあげなければならない摂理の中心です。歴史の多くの事縁と曲折がもつれている韓国は、ここに結集されている無数の摂理史の霊的条件と歴史の功過を引き受けて整理し、清算しなければならない摂理的な使命があります。優秀な天稟と文化をもった民族でありながら、世界で類例を探すことのできない苦難の道を歩んできたということも、このような点から理解しなければなりません。
我が民族の試練の数々は自体のみのものではなく、摂理的なものであり、神様は民族がこれを克服するのを待ちこがれていらっしゃいます。世界史の総合的遺産と称することのできる東と西、南と北の出会い、精神と物質、有神論と無神論の対決と混沌が集約され、韓半島で渦巻いているのも、あたかも新時代を懐妊した産婦の身もだえのようでもあります。韓民族の民族的、国家的困難は、神様のみ旨と摂理を離れては解決することはできず、韓国単独としてではなく、世界との関連の中でのみ解決が可能だと見るのです。韓民族は今や天の摂理を悟り、神様が世界の精神界を指導する目的で送られた方に従って、苦難を越えなければなりません。
本人と統一教会の基盤は、徹底して天のみ旨に従い、「ため」に生きながら築いてきた基盤です。ユダヤ教とキリスト教の迫害を切り抜け、東と西の無理解を飛び越えて勝利した基盤です。韓民族と韓国が、本人の世界的勝利の基盤の上で世界のために生きる生活をするようになったならば、神様は民族に対する歴史的祝福以上の福を韓国に下さると見ます。このようになれば、韓国は苦難を克服するだけでなく、世界の前に真と愛と平和の中心となるでしょう。神様が韓国を愛されるのは、韓国だけのためではありません。韓民族が世界のために生きるとき、初めて神様の韓国に対する祝福が結実することでしょう。(一九八五・一二・一一)
それでは神様の愛はどこで受けるのでしょうか。世界の中心で受けるのです。言い換えれば、イスラエルという勝利圏内で受けるのです。そのため統一教会はイスラエルの創建を願って出てくるのです。そのイスラエルの創建は、韓国のためのものではなくて、世界のための創建だということを知らなければなりません。
韓国のための世界ではなくて、世界のための韓国です。何の話か分かりますか。そのような立場に立たなければなりません。世界のための韓国といえば、まず与えなければなりません。与えておいて受けるようになるときに、位置をつかむのです。これが授け受けする道理です。このように我々が国のために与え、国が受けるようになるときは、どのようになるのですか。帰っていくようになります。どこに帰っていくのでしょうか。神様の国へと帰っていくようになります。すなわち、カイン・アベルの位置に帰っていくのです。そのため、大韓民国を中心として、今後世界最高の国家を相手にして与えなければならないのです。(三四―二四四)
神様はこの民族が個人的な蕩減条件を立て、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的な蕩減条件を立て、さらに天宙的な蕩減条件まで立ててくれることを願っていらっしゃるのです。
神様はこの民族に世界を救う責任を下さいました。それではこの民族が神様からこのような責任を賦与され、その責任を完遂することのできる力をもったというからには、どうしなければならないのでしょうか。神様の前に心情を掛けて涙を流さなければなりません。そうして宇宙的な歴史の転換点を成すことのできる、蕩減の基盤を築かなければなりません。(一三―三七)
皆さんが神様のために生きるならば、神様を本当に知り、神様と私との関係をはっきりと知って、私はその方のために生まれ、その方のために生きたならば、不平があり得ないと言うことができなければなりません。なぜ? 世界復帰をしなければならないからです。したがって世界が問題なのです。私一人の生き死に、統一教会員数名の生き死にが問題ではありません。大韓民国一つが滅びても、世界を救うことができるならば、神様は大韓民国を祭物にして世界を救おうとされるのです。世界が優先です。
そうしようとすれば、一刻も早く大韓民国を団結させて南北が一つとなり、天の前に祭物として捧げられるようにならなければなりません。そうして大韓民国によって世界が贖罪されて救いを受ければ、大韓民国は滅びません。贖罪された世界が栄えるのに伴って、大韓民国も栄えるからです。贖罪された人々の国とそのために苦労した人々の国が一つの国になれば、苦労した人々の国が一つの中心的国として登場するようになります。そこには恨があり得ません。
神様の前に立てられた韓国民族がみ旨を奉じる日には、世界復帰の偉業は簡単に成し遂げることができます。韓国民族さえ一つになれば、世界復帰は簡単なことです。このような運勢に合わせて、今後統一教会がどのように発展していかなければならないかということに責任をもって指導する使命が先生にあります。これを皆さんが知って、そこに歩調を合わせるためにすべての精誠を尽くさなければなりません。(一六―八一)
皆さん! 我が祖国韓国は新時代の先駆者であり、神様の寵児です。我々は長い苦労の末に、ついに新時代の王者として登場する時が来ました。この時我々は悟らなければなりません。韓民族を神様が召されたのは、神様が韓民族だけに良い生活をさせるためではありません。世界の救援のためにです。韓国は世界の救援歴史のために召命された国であるということを悟らなければなりません。我々は神様に召されたので、神様の世界救援役事のために誰よりも一番先に自身を犠牲にすることのできる、愛の王者にならなければなりません。我々が神様のみ旨のために死ぬことはすなわち生きることであり、苦労することはすなわち栄光の位置に上る道です。イエス様が「私のために死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言われた意味が、まさにこれだったのです。(一〇〇―二五四)
栄えることのできる一つの道とは何でしょうか。神様が行かれる摂理の方向を中心として一致することのできる立場に立たなければなりません。世界的なすべての悲しみを抱き、世界を代身して自分たちが傷を受け、世界的な悲しみに責任をもって死ぬ位置に入ったとしても気にも止めず、前に出ることのできる民族にならなければなりません。そうしてその民族の立つ地がなくて、世界に散らばるようになったとしても、その民族が残ることのできる思想が残っている限り、その思想によって世界を収拾することのできる天運が開かれるのです。何の話か分かりますか。(はい)。
民族文化を誇るのをやめなければなりません。現在の世界的なキリスト教国家だと誇るなというのです。今後近づいてくる悲しみの世界に責任をもつことのできる民族になれなければ、この民族の主権と希望は喪失してしまうのです。しかし、民族がどんなに国家の主権をもち得ない凄惨な位置にあったとしても、そこで強く大胆に世界の悲しみに責任をもつことのできる国民性をもっていれば、その民族は勝利の世界を迎えることでしょう。そのような勝利の世界を個人が待ちこがれ、家庭が待ちこがれ、氏族、民族、国家、世界が待ちこがれるのです。ですから落胆せずに最後まで戦いなさいということです。
寂しい牧者の生活をしたとしても、あるいは放浪する宗族となって、追われながら悲しく恨めしい生活をしたとしても、今後の悲しみの世界に責任をもつと言うことのできる民族にならなければなりません。そのような民族は、神様から千年、万年祝福を受けることのできる民族になるでしょう。そして、その民族は結局世界を征服するのです。このような民族になるためには、民族文化も放棄し、民族の主権も放棄しなければならないのです。そのようなものは失ってもよいということです。世界を占領するために偏狭なものとは絶縁しなければなりません。そのような観をもった群れがあるからには、その群れは必ずいつの日か決定的な時を迎えるようになるのです。(二一―一一六)
我々が担わなければならないものが何であるかを知らなければなりません。それは民族を解放しなければならないということであり、アジアを解放しなければならないということです。また、大韓民国をみ旨の前に解放させて、民族を解放しなければなりません。これが我々がしなければならない仕事です。その他のことは、後でやってもかまいません。一番初めに、血なまぐさい神様の悲しみを抱いて越えていかなければならないというのです。(二一―一一九)
歴史的に間違ったこと全体をひっくり返すことのできる民族が現れなければなりません。我々がこれを変えておかなければなりません。(一六―二四六)