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1 韓国人は啓示的な民族
韓国人は啓示的な民族です。韓国人が啓示的な民族であるということを、どのようにして知ることができるのでしょうか。一例として、韓国語に「誰かを取って食べた(注:俗語で女性に手をつけるという意味がある)」という言葉がありますが、それは聖書に出てくる「善悪の実を取って食べて堕落した」という言葉とぴったり合う言葉です。啓示的な言葉です。そして韓国人たちは、よくても死にそうだ(チュッケッタ)と言い、死にそうでも死にそうだと言います。うれしいことがあっても「ああ、うれしくて死にそうだ」と言います。うれしいときはよいと言えばいいのに、なぜ死にそうだと言うのかということです。また、暑くて死にそうだ、腹が減って死にそうだ、おいしくて死にそうだ……。すべて死にそうだというのです。韓国人たちはしょっちゅう死にそうだと言うのです。
このように韓国人たちは死ぬ教育を受けてきたために、死ぬところには深く通じた人々です。死ぬ教育、よく死ぬ法を教えてくれる教育は道義精髄教育です。この二つの比喩だけ取っても、かっこいいでしょう? 何かもっと多く話をすればいいでしょうが、話す時間がありません。
おかずを見てもそうです。西洋人たちのおかずを見れば、ほうれんそうもまるごと持ってきて食べます。また、料理も水っぽく一種類だけでします。しかし我が韓国の食品は陰陽の調和をなしています。辛くもあり、しょっぱくもありながら、調和がよく取れています。そしてスプーン一つは神様を象徴し、箸二つはアダム・エバを象徴して、結局三位基台を表します。
そして韓国の地域の名前を見れば、この名前自体がその地域の内容を表しています。名勝地のような所や名前のよい所を見れば、その名前自体がそこの地形と同じだと言うのです。鶴郡と言えば、鶴の多い郡であり、金郡と言えば金が出る郡だということです。
そしてその名前がみな陰陽の調和をもって作られました。皆さんの故郷の名前はどうですか。一度考えてみてください。地域の名前が悪ければ、みな変えようとします。郡の名前を見れば大概よいのです。先生の故郷の名前も悪くありません。定州郡徳達面徳興洞です。今は徳彦面に変わりましたが、素晴らしい名前です。そのように名前を呼ぶことは知っています。
韓国人たちは世界にない人々です。いかなる国の人々よりも文化に関心が多い民族です。そうでしょう? 飽きるほど死にそうだと言いながら、生きる思案は誰よりも多くします。国会議員たちも占い師を訪ねて行って「私の星回りがよいでしょうか、よくないでしょうか」と言います。私が知る限りでは、そうでない人は一人もいません。運勢に付き従うことにおいては、誰にも負けない群れです。これは極端な一つの例になるかもしれませんが、大体において韓国人はそうだということです。(二五―一五七)
2 韓国民族の風習の中に表れた民族性
皆さんが知らなければならないことは、韓国民族のすべての風習はユダヤ民族の風習と相当に近いということです。私が霊界を知ってみると、その霊界の風習と極めて多く類似しています。子供を産むときだとか、娶ったり嫁いだりすることだとか、あるいは生活態度だとか、そのすべての方式を見れば、霊界の原理型と同じものを多く発見するようになりました。
韓国の食卓を見れば、箸が二つ置いてあり、その横には必ずスプーンがあります。食卓ではいつでもそれが主になるのです。また、お膳の上に置かれた器を見ても、必ずプラス・マイナスの相対的関係、すなわち陰陽によって調和させて食べ物を整えて食べます。そして七数を中心とする数を合わせています。(五四―二三七)
さあ、見なさい。韓国の食べ物を見ても調味料が三種類以上入っていないものがありません。コチュ、マヌル、ネギが入っていないものがありません。そこにさらに何が入るのかと言えば、胡麻が入ります。それを見れば三種類でなければ四種類は常に伴うようになっています。そのため、三位基台、四位基台を好む国民なのです。また、韓国の気候を見れば三寒四温です。これはどうしてそうなのでしょうか! 本当にそうだというのです。三位基台、四位基台、三段階、四数を好むのです、このようになっています。(六三―一二七)
韓国の民法は同姓同本結婚を禁じ、異族結婚を奨励しますが、これは統一を思慕する民族であるからそうなっているのです。(一九―三〇六)
韓国の気候を見れば、三日間は寒く四日間は暖かい三寒四温になっています。また、一年の天気を見ても、暑さ寒さ、あるいは雨や雪が降る期間も公式的に合って入ります。私が世界をみな見回りましたが、韓国の金剛山のような所がありません。風致地域として、スイスが問題ではないというのです。(五四―二三八)
皆さんが韓国語を学べば分かるでしょうが、韓国語は心情的表現だとか形容詞が相当発達しています。よい悪いという表現もいろいろに言います。色の表示もいろいろにするのです。言語を見ても、世界で最も科学的になっており、本当に精密でありかつ宗教的になっています。それで韓国人たちは世界のどこの国の言葉でもみなできるのです。この人(通訳者)がドイツ語をよくできなければ、純種の韓国人ではありません。(笑い)韓国人はどの国へ行っても、数年だけ住めばその国の人々と見分けることができないほど達者に話します。
そして誰からも支配されることを嫌う人々です。また、頭が本当によいのです。そして韓国人はユダヤ人たちにも負けません。そのため韓国人にアジアのユダヤ人という名前が付いたのです。しかしながら韓国人は、ユダヤ人のようにそれほどひどくお金を集めることは考えないのです。みな道を修めることにおいて専門だというのです。霊界に通じる人が非常に多いのです。彼らは世界の終わりの日が来ると信じているのです。
このような観点から見るとき、韓国が意味のある国のようだと考えてもかまわないのです。皆さんが韓国で三年だけ暮らしてみれば、絶対にどの国にも帰りたいという思いはなくなることでしょう。いま全国にアメリカ人が多く来て暮らしていますが、帰るときには、行きたくないのに仕方なく行く人が多いのです。
また、韓国は空気がよいのです。気候もよいです。韓国の気候は世界を代表したものです。そしてどこにでも流れる水はゴクゴクと飲んでも腹痛を起こさないほどに、本当に澄んだ水です。(五四―二三八)
韓国の民を見れば、大概は自立性と自主性が強くありません。ヨーロッパ人たちやアメリカ人たちはそうではありません。どのような百万長者の息子でも、十八歳になれば父親は学費を出してあげません。学費を出してやることをむしろ恥ずかしく感じるというのです。これは個体を啓発し、自主的な基盤を磨くときは絶対必要ですが、伝統を引き継ぐ上においては妨害になるのです。その国の固有の思想を引き継ぐとか、あるいは愛国精神を引き継ぐのは難しいのです。みな自分を中心として何でも新しいことを提起していくのです。(二五―一四三)
3 月よ月よ明るい月よ……
このような言葉があるでしょう? 月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ、どうしたこうした、草家三間の家を建て、両親父母に侍って、千年、万年、生きてまた生きて……。その両親父母という言葉が素晴らしいのです。この民族には本当にそのような何かがあります。草家三間の家はなぜ造るのでしょうか。天上世界の蘇生、長成、完成という言葉を知っていたということです。三段階の受難の道を経て、千年、万年黄金時代を迎えて生きようということです。非常に簡単な内容に詩を詠みましたが、この詩が民族の骨髄的な愛、天の天理と因縁を結ぶことのできる選民思想を証していると見るのです。分かりますか。
草家三間は道を修めるときに必要ですが、道を修めて出てから、両親父母に侍って生きる時も草家三間ですか。そのような者は不孝者だというのです。その者の息子は不孝者だというのです。草家三間は会うときまでです。父母様が来れば「ああ、お前はこんなに苦労したんだね。私がお前に福をみんなあげる。天下のすべての威厳はお前にしかやる者がいない」このようになるのです。ですから、福を受けることのできる基準、土台はできましたが、父母に侍ることのできる所は草家三間ではないというのです。それは間違っているのです。
それではどのような三間でなければならないのでしょうか。天下三間! 天下三間という言葉はないでしょう? (笑い)地上に神様の家を造るのであり、天上世界に神様の家を造るのであり、我々人間の心の世界に神様の家を造るのです。ですから草家三間ではなくて何と言うのですか。天地三層でしょう。天地三層の家を建て、両親父母に侍って千年、万年? 億万年生きてまた生きて、でなければならないのです。そうすることができますか、お前さんたち? そうすることができますか、できませんか。(できます)。(七六―七五)
皆さんは神様の勇士にならなければなりません。サタンは何千万回神様の前に対敵しました。その度ごとに神様が流された怨恨の涙と、悔しく口惜しかった峠の数々を解怨してさしあげなければなりません。そして「サタンよ、お前は我々の父の怨讐なのだ。この方は我々の父であられる。この地は私の地だ。お前は私の僕であると同時に怨讐だ」と言うことができなければならないというのです。今日、数多くの道があり、数多くの宗教がありますが、この問題を解決できずにいます。この問題を解決できない限り、この世の中は平和が来ることができません。来ることができません。
このような点から見るときに、我々の韓国民謡は本当に驚くべきものです。「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ、……両親父母に侍って、千年、万年、生きてまた生きて」これがどれほど驚くべきことでしょうか。両親父母に侍って、千年、万年、生きたいなあ……。我が民族は今まで孝道を主張してきたのであり、孝子と烈女と忠臣を高く評価してきました。数百年の間このような民族精神を保ってきた皆さんなのです。今はこれがある一時に結実されるのか、されないのかということだけが残りました。何と共に? 天と共に結実するのか、できないのかということが、悟りに掛かっています。今まで数多くのキリスト教徒たちが神様のためにどれほど死にましたか。それがこの時に結実されるのか、されないのかということが問題です。(一〇―二〇一)
皆さんは韓国人として生まれたことを絶対に悲しんではなりません。過去には韓国人として生まれたことを悲しんだでしょう? 思いがけずこの生活の苦しい韓国の民として、五千年の歴史を経てきて誇りではあるが、あの草家三間に生まれたのでしょうか。というのです。何かの歌に歌うのを見ればそうでしょう。月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ、あそこ、あの月の中にどうしたこうした、草家三間の家を建て、どうしたこうした、両親父母に侍って、どうしたこうした……。草家三間の家を建ててどうやって万年生きようというのですか。(笑い)私はそのような民謡を聞くと、気分がよくありません。わずか草家三間ですか。そこに何の民族の希望がありますか。
しかし「草家三間の家を建て、両親父母に侍って、千年、万年、生きてまた生きて」という、その両親というのは何かと言えば、人間の理想的な父母を言うことができるのです。キリスト教で言えば再臨思想と天国だということです。万民万国を通してみれば、救世主思想と通じることのできるこのような内容になっているというのです。分かりますか。(はい)。(八五―八一)
人間が探そうとするものは何でしょうか。王に会うためのものではないのです。父母に会うためのものです。父母、誰と共に住むのかと問うてみれば、王と共に住むという人はいないですから。お母さん、お父さんと共に住もうというのです。我が国の民謡にもそのような歌があるじゃないですか。「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んだ月よ、あそこ、あの月の中に桂の木を打ち込んだので……」その次は何ですか? 「玉の斧で切り出して、金の斧で整えて、草家三間の家を建て、両親父母に侍って、一年二年生きてまた生きて」。(違います)。(笑い)分かるのは分かるようですね。
それが何でしょうか。それを見るとき、韓国の民は啓示的な民族であるということです。世界の宮殿がどんなに多いといっても、草家三間の家を建てて両親父母に侍って千年、万年生きてまた生きてなのです。両親というのは、自分の父と母ではありません。宇宙の三大父母形態で現れる父母です。神様が誰かといえば、家庭の本当の父母であり、私の本当の父母であり……。その国は一つの国しかありません。国が二つありますか。
皆さんの家庭が二つですか、いくつですか。(一つです)。一つであり、国はいくつですか。(一つです)。一つでしょう。大韓民国が世界の中心国ですか。そのため数多くの国はこの地球上に必要ないというのです。一つの国、一つの国が必要です。一つの国の父母は神様だというのです。家庭も一つであり、国も一つであり、天地も一つであり、主人も二人ですか。(一人です)。(笑い)それを知らなければなりません。(八五―三一四)
我々は家庭で両親に侍って生きなければなりません。アダム・エバによる嘆息圏内を抜け出すためには、両親父母に侍らなければならないのです。両親父母に侍って草家三間の家を建てて生きようと言いますが、草家三間がどのようなものか知っていますか。韓国の草家三間の何がそれほどよいのですか。何がよいのですか。
家の中で服を着る家は草家しかありません。居間はのどかなので、どこにあっても早く行きたい所であり、春になれば眠るのにまたよい所です。そのようによい所です。このような草家三間の家を建てるときは三代が一緒に住むことができるように造らなければなりません。三代が住むことのできる家を造らなければ、父母はどこに行って住むのですか。そのような家を建てて両親父母に侍って千年、万年一緒に生きようというのです。韓国民族はすてきです。復帰の心情をもって出ていく民族は韓国しかないということです。分かりますか。(はい)。(二六―二〇三)
4 全人類が越えていかなければならないアリラン峠
韓国の民謡の中ではアリランの歌が有名でしょう。先生はアリラン解説家ではありませんが、歌が終わる部分にサランドンネ(愛の村)という言葉があります。それは天国を言っているのです。先生がそのように考えると言えば、統一教会の文先生という人は民謡をよく知らないと言うことでしょう。
三千万民族の誰よりもよく知っていると言えば、どれほどよいでしょうか。峠とは何ですか。峠をよく越えて行かなければならないというのです。峠は十二峠ですが、皆さんは十二峠を越えましたか。越えられなかったならば、アリラン峠でも歌いなさい。皆さんはアリラン峠をいくつ越えましたか。アリラン峠はくねくねしているからアリラン峠なのですか。それはアリラン山であってアリラン峠ではありません。それでは越えていくときに、下りながら越えていくということができますか。
先生は三千万民衆がこの峠をまだ越えられていないと考えます。数百万が数限りなく歌ったかもしれませんが、そこを完全に越えてみた人はいないということです。ところが先生は越えてみました。それが失礼になりますか。今後、そうすることができるという韓国の民謡と唄は本当によくできています。沈清伝や春香伝を見れば、復帰摂理を説明しているのですが、適切な例話としてよく表現されています。春香とこの独身の男がどれほど粋でしょうか。そして、沈清が父母に侍るその孝誠、どれほど健気でしょうか。このように、これから来る本然の世界では、主をそのように迎えなければならず、真の父母様にそのように仕えなければならないのです。そのためにアリラン峠を越えて勝利しなければならないということです。(一七―一一六)
我々は最後には何をするのでしょうか。神様がこの地を中心として生活を始めるということを知らなければなりません。神様がこの地を中心として生活を始められるのです。皆さん、そのような話を聞いたことがあるでしょう? 福なるみ言の中でこれよりも福なるみ言はないのです。神様がこの地で生活を始められるというのですが、もし皆さんがその場所を知ったならば、そこへ行ってみますか、行ってみませんか。皆さんの財産をすべてはたいてでも、行ってみたくはないですか。そこを聞けば誰もが行ってみたいことでしょう。
そのため、我が韓国がそのような基準だけを越えるようになれば、世界のすべての人々が自分の金銀財宝を売ってアリランの鼻歌を歌って訪ねてくるでしょう。そのアリランが何だか分かりますか。なぜアリランなのでしょうか。先生はこのように考えます。愛(エ)の字と、離(リ)の字と、その次に郎(ラン)の字でエリランですが、これがアリランになったと考えます。「失った愛を、澄んで明るい日を再び探し出す」ということです。このようにアリランの歌を歌って流れる涙が変わって何になるのでしょうか。喜びになるのです。千年の悲しい事縁を抱いて万年を待ちこがれながら、この「アリラン」峠を越えてきて、一つ所で会わなければなりません。そこでもう一度生きなければなりません。そのようにならなければなりません。(二二―一〇四)