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二.霊的な基準を中心とした第二イスラエル

 イエス様は人類の父として来たのであり、聖霊は人類の母としてこの地に来ました。しかし、これらは霊肉を中心とする父母となることができずに、霊的な父母としてのみ役事してきました。イエス様の十字架での死は霊肉を合わせた位置でサタンに勝利したのではなく、逆にサタンに負けて死んだのです。そのために体はサタンに渡して霊だけが復活したのです。四十日後に復活して弟子たちを集め、霊的な基準を中心として第二イスラエルを出発したのです。これが今までのキリスト教二千年の歴史なのです。

 それでは第一イスラエルはどこにあるのでしょうか。第一イスラエルは滅びました。第一イスラエルであるユダの国はイエス様を殺した罪で滅び、第二イスラエルが登場しました。神様は四千年の間メシヤを待ちこがれたイスラエル民族を導き、保護し、育成し、四千年間苦労したその功績の基盤の上にメシヤを送られました。それにもかかわらず、この民族はメシヤに従うことができず、十字架の死の道へと追いやりました。それでこの民族は神様の前の怨讐となったのです。

 イスラエル民族はこの時から国なき民族となりました。そしてイエス様が再び来る時までは独立できないのです。イエス様を殺した罪を蕩減するために、二千年間とてつもない苦労をしなければなりませんでした。イスラエル民族は万人類のために、万民の祖先として来られたイエス様を刑場に立てて血を流させたので、国なき民族としてそのような苦労をしたのです。

 その時のイスラエルは霊的にも肉的にも、どこに出しても堂々たる権威をもった国でした。イエス様はこのような国家圏の上に来られ、国家を収拾して世界を復帰しなければならない責任があったのですが、イスラエル民族が従わず、死へと追いやったので、イエス様はしかたなく霊界に行くほかはなかったのです。

 しかしながらイエス様は神様のみ旨を立てることのできる忠孝の道理を果たしました。死の道を行きながらも万民を代身して天倫の使命と責任を果たそうとし、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と言いながら忠孝の道理を立てたのです。それゆえにイエス様は死んだとしても、その精誠の基準はサタンが占領することができないのです。そうしてイエス様が霊的に復活されることによって、霊的なイスラエルの基準をつくっておいたのです。

 キリスト教は霊的な第二イスラエルです。霊肉的なイスラエルではなく、霊的なイスラエルにしかなれなかったのです。そのためにキリスト教人たちは行くところどころで迫害を受けたのです。国なき民族のように流れていく民族となり、霊的な国を主として実体の国を望んで出てきたのです。これが今までの二千年のキリスト教の歴史なのです。(一九―二〇七)