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1 堕落の結果として主人が二人になった人間
神様は、その愛を中心として昼夜なくすべてのものを主管しなければなりませんでした。愛は時間を超越し、空間を超越してすべてのものを主管することのできる基準なので、神様ご自身も主管するためには愛が必要です。このように考えるとき、愛がなければ存在の価値もないという結論が出るようになります。
ところが、このような理想は愛によって堕落したために喪失してしまいました。愛の起点は目や口ではありません。男女が共にする愛の器官です。しかし、それを通して堕落したために、すべてのものが滅びてしまいました。
愛の結合点はすべての感覚を総合した所だといいます。それが、堕落によってその基準が壊れ、宇宙に被害をもたらすようになったのです。
それゆえに、今後再創造過程を経て、もとの場所に帰らなければなりません。堕落の結果主人が二人になりました。もし主人が一人ならば戻すのは簡単ですが、二人になったので帰るのが難しくなりました。真なる主体である神様に対して万物は、自動的に矛盾や衝突がなく一致するようになっていました。しかし、ここでマイナスは一つなのに、プラスが二つになり、神様に対して反発するプラスが生じました。ですから結局、反対の力が強いので、外的な力と内的な力が分かれるようになったのです。それゆえ、サタンは外的な力を中心として動き、神様は内的な力を中心として連結されています。結局サタンは外的主体になり、神様は内的主体になったのです。一つの個体に二つの主体が対応する結果をもたらすようになったのです。
ですから、内外が共にプラスになったので、常に反発作用を招来するようになります。これはすなわち、堕落人間の肉心と良心の闘いだと見ることができます。
一生涯、心と体、良心と肉心とが一体となって融合しなければならないにもかかわらず、お互いに反発し、方向を異にしています。一方に傾く場合があるかと思えば、方向を失ってしまったりもします。
人間始祖であるアダム・エバがそのようになっているので、彼らから生まれる子女たちも同様の立場に立つのです。十人がいれば十人、方向がそれぞれ異なるようになります。このような堕落世界がこの地球上に築かれてしまったのです。(一九八三・四・三)
2 人間の矛盾性は人間堕落の結果
今日我々は人間の同一個体の中で、悪の欲望を達成しようという邪心の指向性と、善の欲望を成就しようという本心の指向性が、それぞれ違う目的を前に立てて熾烈な闘いを繰り広げながら心と体に分裂しているということを知ることができます。このように、人間の心と体が分裂している矛盾性はどこから始まったのかといえば、まさしく人間始祖の堕落からでした。人間始祖が堕落することによって常に心と体が闘争し、分裂する矛盾性をもつようになり、家庭と社会、ひいては国家と国家同士が闘い、血を流す不幸を味わわざるを得なくなったのです。
堕落とは何でしょうか。心と体が元の場所にいないことです。絶対的な神様が人間を創造され、理想とされたとおりに実体を備えて全宇宙の前に堂々と現れることのできる本然の人がいるというとき、その人は心と体が立つことのできる立場を備えた人です。そのような人がいたならば、すべての環境がその人の拍子に従って動くのです。そのような立場を有することができないのが堕落です。
それゆえ、心は東側に行こうとし、体は西側に行こうとします。おかしいでしょう? 心が志向するものと体が志向するものが違うのです。このようなものを見るとき、人間が堕落したということを否定することができないのです。
人間は神様の絶対目的によって我知らず生まれました。それゆえ、人間にはその目的に符合する生理的な現象が作用して現れなければならないにもかかわらず、今日我々人間は心と体の位置と方向が違うということを否定できません。
「私」は「私」なのですが、心も私であり、体も私のようなのですが、実際に体が私の体であり、心が私の心なのかというとき、自分もそれが分かりません。元来は心と体が一つになって離れようとしても離れることができず、神様も分けようとしても分けることのできない絶対的な基準を備えて自分の目的を成就していかなければならないのです。(一八―五八)
3 堕落した人間と堕落した世界の姿
ここで我々はさらに進んで、堕落した人間と堕落した世界の姿について探ってみることにしましょう。
ヨハネによる福音書第八章四十四節を見れば、イエス様が悪なる人間たちをご覧になって、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、……」と語られた内容があります。
堕落することによって、人間は自分たちの父親を取り替えたのです。真の父である神様を捨てて偽りの父であるサタンと一つになったのです。このようにして最初の男性と女性はサタンの息子、娘になってしまいました。ゆえに人間は偽りの父であるサタンに屈服せざるを得なくなったのです。
偽りの父であるサタンのもとでアダムとエバは神様の祝祷も、神様の許諾もなく不法に夫婦となりました。そして、彼らが子女を繁殖したとき、その子女もすべてが同じ偽りの父のものとなりました。その子女は神様の子女でなく、すべてサタンの子女として生まれるようになったのです。それゆえ、アダム以後原罪をもった子女を繁殖して罪悪世界を築くようになったのです。なぜかといえば、人間が神様を中心とすることができなかったからです。
そこには罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、そして、嫌悪と戦争の世界があるのみです。そして、国家と社会はお互いが破壊的行為をしながらも何ら苦痛を感じられなくなってしまいました。これが地上地獄なのです。事実上この地上の主人公は神様ではなく、サタンです。ですから、ヨハネによる福音書第十二章三十一節にも「今こそこの世の君は追い出されるであろう」と記録されているのです。
我々はこの宇宙が神様によって創造されたということを知っています。我々はまた、神様が人間を創造されたということをよく知っています。しかし、神様が我々の主人公になることができませんでした。それは、人間が主人公を代えてしまったからです。人間は神様に反逆し、偽りの主人であるサタンと一つになってしまいました。ですから、このサタンが人類の父になったのです。(七三―二〇二)
この地上天国は神様を中心とした一つの家庭であり、人類はすべて一つの兄弟です。そこは間違いなく一つの伝統と一つの文化の統一世界であらざるを得ません。そこには人種差別があり得ず、言語の相入れない状態があり得ず、国家の分裂があり得ず、理念の対決があり得ず、殺戮する戦争はあり得ません。
このような神様の理想世界を描いてみながら今日の現実を眺めるとき、我々は神様の理想とは正反対の世界に生きていることを痛感するようになります。我々は今日、まず我々自身の中で心と体が分裂しているのを見ることができます。
今日の我々の世界は分裂の世界です。国家の分裂、言語の分裂、文化・伝統の分裂、人種の分裂、理念の分裂、愛の分裂、このような分裂の中で人類歴史は闘争と戦争と殺戮の連続でした。これはどのように見ても天国だということはできません。そうです。我々は地上地獄に生きているのです。これは、人間始祖であるアダムとエバが堕落したために引き起こされた結果です。堕落したということは、神様に背いたということであり、神様から離れたということです。ですから、神様が臨在なさることのできない歴史が始まったのです。人類歴史は神様に背いた歴史の連続によって今日に至ったのです。(一〇〇―二四二)
4 現世が不合理で矛盾している理由
皆さんが今日の世界の現実を眺めるなら、この世界が不条理と矛盾、対立と闘争、そして、苦しみと悲しみに満ちた世界だということを知るようになります。ですから、仏教ではこの世の中を「苦海」といい、すべての宗教と聖賢たちが苦海の人間世界を救い出そうとしてきました。しかし、それは今まで誰も解決できない一つの課題として残されてきました。
なぜ、人間は苦海の人生を生きなければならないのでしょうか。人間は常に幸福で平和な理想郷を願うのに反して、人間の現実を見ると間違いなく矛盾しています。もし、全知全能の神様がいらっしゃるなら、絶対にこのように矛盾した人間世界を創造されはしなかったはずです。なぜなら、神様は完全で絶対的な方だからです。このような観点から見るとき、我々は人間が堕落したと見ざるを得ないのであり、誰もこれに反駁する余地がないのです。
現世が不合理で矛盾している理由を人類の堕落から見いだそうというのが普遍的な宗教の世界観です。堕落したということは、人間が故障して本来の位置から落ちたという意味です。自分が完成することを願いながら、神様の前に出なければならないのが本来の人間の立場でした。神様が人間を創造しながら願い、目的としたところのみ意どおりに成長期間を経て、花を咲かせ、実を結ばなければならなかったのが本然の人間でした。けれども、不幸にも未完成期で花を咲かすことのできないまま落ちてしまったのです。言い換えれば、堕落したということです。
堕落したなら、どのようにしなければなりませんか。上がっていかなければなりません。そして、神様も堕落した人間を再び救わなければなりません。人間は堕落することによって矛盾し、罪悪の世界で生きるようになったのですが、もし、神様がこのような人間世界をそのまま放置して堕落した世界で生きるようになった人間をお救いにならなければ、神様は無能な神様になってしまうからです。したがって、神様は必ずこの罪悪の世界をお救いになり、人間を本然の位置へと救援せざるを得ないという結論を得ることができるのです。
ですから、すべての宗教はその宗旨として救世の道理を広めるようになるのであり、人間が本然の理想世界を具現することのできる求道の道理を説くようになるのです。罪悪となり、矛盾した善と正義を具現し、人間が永遠な幸福と平和を謳歌することのできる理想郷をつくろうと、その救世の道理を広げるのです。これが宗教の核心であり、基本的な課題であり、使命でもあるのです。(一九八一・四・二五)