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1 堕落人間に対する神様の救援摂理
神様はこの堕落した世界をどのようにされると思いますか。堕落して故障し、不合格品になったから見捨てればいいのではないか、と考えるかもしれませんが、神様は決して見捨てることはできません。本来、人間を創造されるときに永遠な理想をもって創造なさったからです。神様の永遠な愛の対象として人間をお造りになったからです。それゆえ、我々はここで人間が神様の愛の対象として愛の完成体になれない限り、神様は不完全な神様として残らざるを得ないという結論に至るようになります。なぜなら、神様の永遠性や愛の主体としての本質的な資格は、その対象として創造された人間を通して初めて得られるものだからです。
それゆえ神様は、再び創造の過程を経て本来願われた愛の目的を具現なさろうと、今日まで宗教を通した再創造摂理を経綸して来られたのであり、真なる愛の宗教が現れ得る摂理歴史を広めてこられたのです。
そうであるなら、神様はここで堕落した息子、娘をどのようにして理想的な息子、娘に再創造なされるのでしょうか。
水に落ちた人を救うということは、水に落ちる前の状態に移動させてしまうことを言います。それゆえ、堕落した人間を救うということは、すなわち再創造するということは、人間を堕落する前の創造本然の立場へと移動させてしまうことを意味します。言い換えれば、神様の理想的な愛のみ旨を実現すべき人間が堕落することによってそのみ旨を成し遂げることができなかったので、神様は創造原理による再創造過程を通して、人間が創造本然の神様の理想的な愛を中心としてその愛を実現しながらその愛の中で生きることのできる、創造本然の状態へと移動させてしまう摂理をなさるようになるのです。これがまさに神様の堕落人間に対する救援摂理です。
それゆえ、堕落した人間にとって愛の理想を実現することのできる宗教が絶対的に必要になるのであり、そのような神様の意義深い摂理によってこの地上に生まれたすべての宗教が、一様に愛の内容を主張してこざるを得なかったのです。(一九八一・四・二五)
人間が堕落したので一つの理想的基準を求め得る方法がありません。自分自体から二筋の方向があるからです。ですから、どんなに心が強い人でも、心が完全に体を支配して、一致した一つの善の方向をもつことができません。もし、人間が心と体を一つに一致させることさえできたなら、真なる愛の心の上に体を一致させて、全く闘争がない愛の中で円満に調和して生きることができるのです。それゆえ本来、人間が堕落しなかったなら、人間は神様の愛を中心として完全に神様と渾然一体になった立場に立つことができたのです。
しかし神様は、人間がいつまでもこのように堕落した世界で生きるように傍観なさるお方ではなく、本来、神様が願われた創造理想世界を再創造なさるために今日まで宗教を通してその再創造のための基台を築いて来られたのですが、それが神様の救援摂理です。(一九八一・五・一〇)
2 人類歴史とは人間の救援のための神の摂理史である
今日、人間が歴史をつづってくるに際して神様が介在しているということを、信仰生活をしない人は知らずにいます。人間の歴史の背後には、我々人間だけではなく、神の摂理史があるのです。神の摂理史とともに人間の歴史がつづられてくるというのです。
では、なぜ人間の歴史に神様が介在しなければならないのでしょうか。人を造り、この世界を存続させるのは神様のみ旨、神様の創造理想を実現させるためのものなので、人間がどんなに過ったとしても、この創造理想を実現させ得る人間として登場させなければ神様の創造理想を完成することができないからです。
それゆえ、人間は知りませんが、人類歴史は神様の創造理想を再現するために歩んできたというのです。これが救援というものです。
すべての宗教は救援(救い)を語っています。新しい世界へと行くことのできる、理想世界へと行くことのできる、永遠な世界と連結され得る救援を目標としているのです。それでは、救援の道とは何でしょうか。病気にかかったならかかっていなかった本然の状態へと帰ることをいいます。ですから、統一教会では、「救援歴史は復帰歴史であり、戻っていく歴史である。本然の基準を中心として帰らなければならない」と言います。このような言葉が必要になったというのは、つまり救援摂理という言葉が必要であり、復帰という言葉が必要になったという事実は何を意味するのでしょうか。それは人間が堕落したことを意味しているのです。
では、堕落したというのはどういうことでしょうか。神様に直接主管され、神様の一体理想圏に立っていたならば堕落はあり得ないのです。我々人間は神様と神様の愛を中心として、引き離そうとしても引き離すことのできない父子の因縁をもって、すべての生活を始めなければならないのです。神様の愛を中心として生活するその立場とは、悲しみの立場、苦痛の立場ではなく、幸福の立場であり、喜びの立場であり、充足の立場なのです。ところが、堕落することによってそれを失ってしまいました。
では、それを失わせた動機、その根本は何でしょうか。神様がそのように造ったのでしょうか。人間がそのようになったのでしょうか。違います。それは天使長です。天使長が人間を誘惑してそのようになったのです。人間は完成できる立場に到達するための過程を経ていく、そのような立場にいましたが、サタンが、天使長が我々人類始祖を強奪したので、そこから非運の曲折の歴史が始まったのです。ですから、これを復帰しなければなりません。
堕落とは何でしょうか。サタンに支配されたことです。それゆえ、今日アダムとエバを中心として生まれたすべての後孫は、サタンの支配圏から逃れることができないまま、歴史が発展してきたのです。個人・家庭・氏族・民族・国家・世界的な環境を経てきましたけれども、これはどこまでも神様が主管されたものではなく、サタン主管圏内で動かしてきたのです。これは本来神様のみ旨ではなく、人間が理想とするところではないので、神様と人間は一つになってこの堕落圏から抜け出さなければなりません。そのような歴史過程の責任を負わなければならないのです。
このことを成すために神様は民族の背後に数多くの宗教を置いて、そこから抜け出るための運動をするのです。それゆえ、東洋には東洋の宗教があり、西洋には西洋の宗教があって、さまざまな宗教を編みながら世界へ、一つの宗教圏へと越えていき、また、歴史上の思想も一つの統一された思想圏に向かって越えていくのです。(一六八―二九九)
3 人類歴史とは善悪闘争の歴史である
人間が本来堕落しなかったならば、今日、我々は神様が喜ばれ、好まれながら愛することのできる祖国をもったはずです。この地球星は我々の祖国になったはずであり、その祖国をいわゆる地上天国といったでしょう。その祖国は神様を中心として始まり、神様の愛を中心として関係を結ぶので、神様が共にいらっしゃり、神様の愛があふれ出る世界だったはずです。それゆえ、我々人間は神様に侍ることができ、神様の愛を体験することによって愛がどのようなものであるかを知ることができ、万民が兄弟の関係となって、一つの家庭の食口のように大家族を成したはずです。この地上天国で神様の家族として暮らしていた人間が、肉身生活を終えて霊界に行って、天上天国を築いて暮らすようになるのです。
天国は我々人間の本郷です。ところが、堕落することによって、祖国である地上天国が築かれなかったので天上天国が築かれず、肉身生活を終えて霊界に行っても、天上天国に入る人間はいなかったのです。
それでは、人間が堕落した結果、どのようになったでしょうか。人間の心と体が一つになれずに分かれ、夫婦が一つになれず、夫婦と子供が一つになれない中で、すべてのものが分かれて闘争するようになったのです。それは人間を中心とした被造世界がサタンの主管圏内に陥ったことによって、分裂と闘争の歴史として点綴された堕落世界となってしまったというのです。神様と一つになってこそ天国に行くことができるのに、その神様と因縁を結ぶことができずに分かれ、正反対の立場でサタンに引かれていくようになったのです。
堕落した人間は地球上で、気候に従って寒帯、温帯、熱帯地域に拡散して白人種、黄色人種、黒人種となりながら、分裂した世界を築くようになったのです。五色人種に分裂した世界は、自分の利益だけを追求しながら、個人・家庭・民族・国家・世界に至るまで、闘争の歴史を展開させてきたのです。闘いは必ず善なる側と悪なる側に分かれて行われたのですが、悪なる側はサタンが操縦し、善なる側は神様が役事されたのです。結局、堕落以後の人類歴史は戦争の歴史ですが、その背後にはサタンと神様がいたのです。また、人間を中心として行われた闘いにはサタンと神様だけでなく、霊界の善霊と悪霊まで総動員され、協助しながら闘ってきたのです。善なる側は善霊が協助し、悪なる側は悪霊が協助しました。それゆえ、人間世界での闘いは地上と霊界が総動員されました。それは堕落した人間を奪ってくるための神様の摂理だったのです。(一六一―一二)
今までの人類歴史はカインとアベル、天側とサタン側が対決してきました。人類歴史は結果的に善と悪が対決しながらつづられてきたのです。(一二―三七)
今まで流れてきた歴史を見れば、善が築いてくる歴史と、悪が築いてくる歴史が、常に裏返しに伝わってきているということを知ることができます。人間が堕落しなかったならば、善悪の闘争はなかったはずです。しかし、人間が堕落することによって善悪の闘争が生じるようになったのです。本来、善が歴史の中心にならなければならないにもかかわらず、悪が歴史の中心になりました。善が先に出発しなければならなかったにもかかわらず、悪が先に出発し、善が上になければならないのにかかわらず、悪が上にあるのです。このように全体的に不当な内容を、正当な本然の姿勢に戻すための闘争が今日までの歴史的闘争の母体です。では、我々自身が何をしなければならないのでしょうか。正しい本然の立場を取り戻すことが、我々人間の最高の目標であり、神様が摂理してこられる最大の目標なのです。言い換えれば、本然の姿をこの地球上の歴史過程で、あるいは、復帰摂理路程で成就することが、神様と人間が成すべき最終的な仕事です。それを我々は知っています。
ゆえに、これを成就させることのできる人が、結局は歴史を支配するようになります。このような人だけが、摂理路程において新しい時代の使命を果たすことができ、誤った歴史を正しい方向へと転換していくことができるのです。それゆえ、このような人を中心として、善悪が交差する転換点を築いてきたという結論が出るのです。
では、交差点とは何でしょうか。それは社会でいう交差点ではありません。ある個人の事情による交差点ではなく、ある時代の交差点でもありません。また、国家でいう政権の交差点でもないのです。それはどこまでも、誤ったこの世の中全体がひっくり返されて、神様が予定された本然の姿に復帰される交差点なのです。このような過程を経なければ新しい世界となることができません。ですから、交差の転換点という問題が現れるようになったのです。(二八―二四四)
4 歴史はヘレニズムとヘブライズムの対決
皆さん、歴史は人本主義思想(ヘレニズム)と神本主義思想(ヘブライズム)と交差しながら闘争してくるのです。
では、どうしてヘブライズムが登場し、歴史的に問題になったのかということです。宗教の中では、唯一神を中心とした宗教が一番長い歴史をもっています。これを引き継いだキリスト教が今日の統一教会の時代まで、歴史上を変遷しながら改革してきたのであり、一つの世界を収拾してくる主流的な歴史をもったのです。そのために、キリスト教が問題になるのです。
また、なぜヘレニズムが問題になるのでしょうか。人本主義の思考方法を中心とした歴史的起源は、ギリシャにおいての人本主義思想と連結されています。これが一番古いものです。歴史は長い歴史を中心として人本主義思潮と神本主義思潮の対決です。このような観点から見るとき、これが今日までの問題になっているのです。
ヘブライズムの特徴が何かといえば、伝統を中心として一貫した歴史像をもっていることです。しかし、ヘレニズムは、時代、時代の環境に従って変遷してきました。ユダヤ教が代表的に今までの伝統をもっています。皆さんがカトリックの映画を見れば、伝統という言葉が出てくるでしょう? それは変わらないものです。キリスト教もイエス様を中心とした思想なのに、変わることができますか。変わらないのです。変わることができないというのです。人類の主流的な歴史を通して、キリスト教が古代から中世を経ながら現代にまで影響を及ぼし得る一つの宗教になったという事実によって、神様が共にある宗教だということを、我々は知ることができるのです。ですから、キリスト教は世界を支配するものだというのです。世界を支配すべきだというのです。(七九―一八二)