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二.人間の堕落は愛の事故だった

 聖書には善悪を知る木の実を取って食べてはならないと記されています。そこには人間と神様との関係を破綻させ得る内容を含んでいるからです。ですから問題になります。原理ではこのような思想を明確に解明してくれています。統一原理は堕落に対する事実をはっきりと知らない人にとって偉大な福音です。苦痛を受けながら生きているすべての人間を救援することができる偉大な福音です。

 善悪を知る木の実は文字どおり木の実だと見ることはできません。木の実ではありません。では、億千万代の人類がこのように破綻の立場と闘争の路程で呻吟する状況をつくり得る実を、神様がなぜお造りになったのでしょうか。それは、先生が言う「愛の内容」を中心として現れた結果であるというのが何よりも理論的だといえます。堕落の結果、愛には善なる愛と悪なる愛の二つが生じました。

 

成熟した人は真の愛を知る人だと見ることができます。反面、堕落した人は真の愛を知らない人です。

 アダム・エバは十六、十七、十八歳になれば自然と思春期になって異性に目覚めるようになります。花がいっぱいに咲くとき人がかぐわしい香りに酔うように、アダム・エバが成熟すれば異性として考えるようになるのです。このかぐわしい香りに神様も一緒にひかれていくのです。神様の愛とアダム・エバの心と体、この三つが一つになれば宇宙の核が生じ、すべての愛をコントロールできる本軌道で回っていくようになるのです。ところが、ここで脱線してしまいました。脱線しなかったなら完全に一つになったはずです。このように一つになったなら、神様も離れることができず、アダムとエバも離れることができなかったのです。そうして、子々孫々に連結され、氏族、民族、世界を築いたはずです。ここは素晴らしい世界、地上天国になるのです。

 先生の時になって、堕落が愛によって引き起こされた結果だという事実を明らかにしたのは驚くべきことです。これは歴史的背景を通して理論的に体系化されたことであり否定できない内容です。(一九八三・六・五)

 人間始祖アダム・エバは、思春期を望みながら一時を中心として現れました。その時まで待たなければならない理由がどこにあるのか知らなければなりません。すぐに男性と女性が一つになって愛すればよいのに、なぜ待たなければならないのでしょうか。愛のためにそうせざるを得なかったというのです。成熟することのできる思春期までの期間が必要なので、それまでに過程的な要件を備えなければなりません。

 

(人間は)愛を中心として成長しなければならないのですが、愛によって故障したときには神様は身を引くようになります。このように見るとき、愛の事故のほかには堕落があり得ないというのです。それゆえ、神様にとって問題となり、人間にとって問題となり、歴史の問題となり、宇宙の大事件として衝撃を与え得るのは愛の事故しかありません。(一九八三・六・五)

 人間の先祖は、単純に何かの果実を取って食べることによって堕落したのではありません。そのような単純な動機が人間始祖を堕落させたのではないのです。堕落は血統の不貞的動機から起こった事件でした。それゆえ、堕落の結果が今日まで原罪として遺伝されてきているのです。

 不倫な淫行関係によってエバは天使長と一つになり、アダムは天使長と一体となったエバと一つになることによって、アダムとエバは結局神様を中心としたのではなく、天使長を中心とした夫婦関係を結んで、家庭を成すようになりました。したがってアダムとエバの後孫であるすべての人間はサタンの血統を引き継ぐようになったのです。

 したがって、本来のアダム・エバの息子たちは神様の長子と次子にならなければならなかったにもかかわらず、エバが不倫な情によって天使長と関係を結んだので、彼らの息子たちはサタンの所有物になってしまったのです。

 本来、創造理想の中では、愛が所有を決定します。愛の関係を結べば、その愛を中心とした主体と対象は必ずお互いの所有権をもつようになるのが原理です。したがって、このような原理的な基準から察するに、エバが天使長と不倫な愛の因縁によって堕落したことによって、エバの後孫として生まれる人間の所有権は天使長であるサタンがもつようになったのであり、サタンはその所有権を堂々と主張することができたのです。(一九八〇・一一・一八)