不平を言うな。蕩減は従順を通してなされていくのである。
自分が生まれつきもった天性よりも、もっと悔しい立場に下がれば(祭物的な立場)、神様が哀れに思い、またサタンも打つことができない。
「悪いものは私のもの、良いものはあなたのもの」、「悪いものは我々のもの、良いものは民族のもの」、このような精神があってこそ世界を復帰することができる。
蕩減路程は祭物の期間であるため、存在することは存在するが、存在意識をもってはならない期間である。
「私の力でやれることはすべてなしました」という基準を立てるのが一番重要である。
心情的な生活の前に、祭物的な生活の前に、誰よりも清い祭物になった方がイエス様である。
お互いに難しいこと、嫌いなことを奪い合うために争わなければならない。
祭物は事情を聞いてあげては祭物となり得ない。
栄光を受けたければ、心配の包みを責任もって引き受けなさい。
み旨に責任をもった者は、初めから楽をしたいと思うな。神様はサタンよりもっと大きい力で締めつけ、サタンが侵入できないように鍛錬なさる。
苦労とつらさが加われば加わるほど、苦難のむちは短縮される。
祭物となった私は祭物を受け取られる神が喜び、祭物によって恩賜を受けた人たちが喜んだあとに喜ばねばならない。
朝の初めの気持ちが一日を決定する。ゆえに、朝最初の祭物として神様が喜ばれることを見るように努めなさい。
僕と養子と子女の立場で苦痛の過程を歩むことは自分自身の蕩減のため不可欠なことであり、父の仕事を代身した栄光の条件となるのである。
イエス様は純粋な祭物として過ごして他界なさった方である。純粋な祭物は他人が触れることなく、他人に見せることなく、清い初物を意味するもので、精神と心と思いを尽くすにおいて清いものとして捧げることのできる者とならねばならない。使い残した精神、使い残した心、使い残した思いをもって捧げるときには、決して神様の愛は体恤することができないだろう。
神様の胸を感動で締めつけるようにしなさい。神様が同情してくださる立場に立てばいつも解けていく。
皆さんが捧げる生命に未練が残っているか。神様の前に捧げる祭壇の祭物としては、微塵の傷があってもサタンが讒訴することだろう。
無条件に天の前に捧げ、み意のままに任せる心が必要である。神様は私の父であるので私がいなければならない所を一番よく知って、私が一番幸福になり、満足を感じ得る場所に私を導かれる。
死んでいた私を無償で生かしてくださったので、この生命は今、私のものではなく神のもの、すなわちいかに死ねば神が喜ばれるか、という心で栄光ある死に場所を訪ねていこうとしなければならない。
統一勇士は生活意識(生活観)を捨てなさい。ぶち当たるのがすなわち私の生活であると思いなさい。
再臨以後の時代は牝牛の時代である。牝牛は主人のため、生きている間全忠誠を捧げ、そして繁殖を尽くし、のみならず死んでも骨、皮、肉、捧げないところがない。
善なるみ旨を抱いて踏まれるなら、絶対に損害を出さない。いつ、どのようになされたかも知らないうちになされる。
神は個人が祭物となるよりは、全体が祭物となることを願われる。祭物になろうとすれば、全体的な生活、行動、理念統一が必要である。
祭物は従順と屈服の象徴である。ゆえに祭物は、自己という所有観念がなく、死の前においても反抗することを知らないのが祭物である。
神は私一人の個体を立てるために六千年間泣いてこられたがゆえに、み旨を探した我々食口たちは何の報酬もなしに六年以上七年の苦労をし、涙を流しながら奉仕しなければならない。先生が十六歳の時から出発して四十年間を標準としながら死を覚悟して出発した道がこの道である。
統一の理念の前に誰がステパノになれるか。楽な心をもたず栄光に会う前に苦難を探して担当しなさい。そこに神様が働いてくださり、同志が生まれるであろう。
無条件に神様の前に利用される身となってみなさい。利用されるぐらい神の心情の中に入ってこそ恵みを奪ってくることができるのである。
十年で返すものを一年で返し、一生を通して返すものを十年で返すことができるような、むち打ちと暴風の中に押し込んでも「有り難く受けさせていただきます」と言える者を神は尋ねていらっしゃる。
国のために死ねば、国が復活する時、彼も復活することができるし、世界のために死ねば、世界が復活する時、彼も復活する。険しい道であればあるほど神が一番信じる人を送ってくださった。これが神の愛する人がたくさん犠牲になった理由である。
条件的蕩減条件において、人間が小さな価値の蕩減条件をもって蕩減するときには、残りの足りない条件に対しては神が責任をもっているという事実を知らねばならない。そして神はその残りの条件を立てる場合において時間が必要であるから、その条件を神様がすべて準備なさるまではその蕩減は全うされず延長されてきた。
人間的な蕩減は物質的に蕩減することができる。時が成就する前に物質をまいて善なることをすれば良い。
世界のため蕩減を受ける者は、世界が受ける恵みと自分が受ける恵みを合わせたものを受けるようになる。
蕩減はぶつかって戦わずにはなされない。
先生は蕩減復帰の道を行くのであり、皆さんは原理の道を行くのである。
「打たれて奪ってきなさい」。良くやったのにサタンが三度打つようになれば、その時からは神様が手をつけてくださる。
我々は祭物である。まず受け取られる神と贖罪を受けた万民が喜び、その後祭物が喜ぶ。
祭物は平和な立場において捧げるのではなく、常に第一線において捧げるのが原則である。
創建は祭物なくしてはあり得ない。再建は在るものをもってなすが、創造はないところから出発する。
祭物は罪を犯した人の負債を清算するためのものであるために、与える立場なのである。
物質をもって祭物を捧げることが旧約時代を蕩減するのであり、肉身をもって犠牲となることが新約時代を蕩減するのであり、心情をもって涙でみ旨を支えていくことが成約時代を復帰するのである。
統一教会に入ってきたのは福を受けようとするためではなく、全部取り出して麹をつくって世界に分け与えるためである。