一 苦 労
楽な立場においては誰もが歩むことができる。一番困難なときにいかに歩むかという哲学が確立しているか。
苦労することはその地位、位置を確保することである。
苦労して植えておいた我々の根は、それ以上苦労する者でなければ引き出すことができない。
苦労の度合いは、繁栄の度合いに比例する。死なずに、くたびれずに、打たれても七代を掛けておいてその後孫に祝福を与えなさい。
先生は三十歳を過ぎるまでおなかが空かなかった日はない。神に誓った基準がなされていないのにどうして安らかに食べて眠られようか。
歴史上に現れた全預言者、聖賢の苦労より、もっと苦労しなければ神の前に立ち得る自分の位置を失い易い。
我々は楽をするために入ったのではない。神の代理としてむち打たれ、地獄と苦痛を共に引き受け勝利せねばならない。すなわち、神の十字架を相続するために集った群れである。
天国は地獄の苦痛から勝利した者が行く所である。
当然受けるべきことを受けるのではなく、忍び難きことを受ける者は必ず勝利する時が来る。
苦生→固生→高生
萬苦之勝者
榮高之王者
苦労した様子を表すな。そして隠れた宝を多く積みなさい。
神の理念で全体を収拾しようとすれば高い位置ではできない。平均以下に低くならなければならない。
苦痛を克服しながら祝福を受ける地、約束された地を慕いながらその世界に向かって走っていきたいと、はしゃぐ群れとなろう。闘いの中で環境に押され倒れる群れとならずに、前進する心をもって残れる群れとならねばならない。
統一教会は理念の百科事典であるという事実が重大なのではなく、苦労の百科事典であるという事実が重大なのである。
あなたが食べられなくても、食べられない者のために稼いで与えなさい。骨髄までも響くであろう。誠を尽くして築いた塔がたやすく崩れることはない。(注:韓国の諺)それは神も奪うことができず、サタンも奪うことができないだろう。
多く苦労をし、多く涙を流し、悔しいことを多く受ければ受けるほど、天のものとして残されるであろう。
現在あなた方を苦労させるのは永遠なる世界において永遠に残すことのできる財産として与えてくださるためである。
神を迎え入れて涙しなさい。自分のためには、絶対に涙を流すな。
悲惨な事情があったら他人のことと思うな。そしてうれしいことがあっても自分だけのものと思うな。
苦難を受けても落ち着きなさい。窮地におかれても慌ててはいけない。
分かってくれることを望むな。苦労を密室に貯蔵しておきなさい。見えないことを見て喜びなさい。
心の基準がみ旨の基準と異なるとき、苦痛となって、生活基準に理念的な相克が起こるようになる。ゆえに宗教の道を通して犠牲になりながら耐える道を築いてきた。それゆえに善を築いてくるすべての人たちは、耐えることなくして善なる目的を達成した者は一人もいない。
おなかが空いてもみ旨を果たそうとする切ない心で空腹までも忘れて歩みなさい。我々が苦労するのは他人には苦労させないようにするための資料をつくってあげるためである。
堕落人間は、自分の存在目的のために心配せず、存在するために必要な要件のために気を配っている。しかし神様は公的な目的のために衣食住を顧みないで苦労する人に必ず干渉してくださる。
苦労だけが神とサタン、両方を屈服させることができる。
サタン世界で苦労をすれば災いであるが、神の世界で苦労をすれば恵みである。
残れる道は苦労しかない。
我々が苦労した地を見て、万民が痛哭するその日を迎えてから死ぬという信念をもって戦いなさい。苦労しなさい。死なずにくたびれずに。
神が我々に言い表せない苦労をさせるのは、復帰の道が難しいということを痛感させ、再び堕落を繰り返さないようにさせるためである。
イエス様は十字架上で「父よ、我が思いではなく、み意のままになさしめ給え」といった心情をもって苦労なさったし、神はその心情を御覧になって、栄光の座まで導かれたので、イエス様は私と同じ心情をもって動く者はすべて私と同じ立場に立ててくださいと祈っていらっしゃる。
先生は監獄に入っていくとき、苦労をしに行くと思うより、実力を現せるのは今からだという信念をもって入っていった。
天地が共にこの人はみ旨のために苦労したと認め、したがって、同情することのできる基盤を築き上げなければならない。そうしてこそ、初めて神もサタンも、いかなることをやっても讒訴することができなくなるのである。
我々の道は神のため、天宙と全人類のために歩む道であるため、その苦難の期間は人類歴史の全体の期間に匹敵する。
自分が苦労の道にいるときは泣いたり騒いだりするな。生きておられる神様は話を伝えなくとも、私がおかれている立場をあまりにもよく御存じだからである。それなのに私がまた涙したりして悲しく祈れば、神様はより悲しむ。二重の十字架を背負うようになるだろう。神様は今日まで、より大きな歴史的な悲しみと苦痛を知ってくれる者もなく、一人で受けてこられた。その父をまず慰めなさい。このような者は神が抱えて痛哭なさるだろう。
皆さんの苦労は先生がよく知っている。しかし父母が百の孝行をしたとして、子女に五十ぐらいだけ孝行しなさいと言う父母がどこにいようか。父母より百の中の一つでも余計にやってくれることを願うのが父母の心である。
先生が神様の前に百の孝行をしたとすれば、皆さんは九十九までの苦労をしたとしても、神様の前に堂々と自慢することのできない先生であることを皆さんは知らねばならない。
み旨のため既に捧げた者たちが集ったところであるために、一つのみ旨を中心として一つとなって和動できないはずがない。悲しく困難な立場から一つにならなければならない。
おとなしく打たれ、おとなしく踏まれ、おとなしく刺されても、完全に死なずに生き残る者となりなさい。
サタンは昼夜闘っているが、皆さんも昼夜闘っているのか。
我々によって天地の間に新しい涙を流せるようにしよう。
サタンも行けないという道を行かなければならない。サタンを追い払うためである。
神が覚え得る苦労だけをしなさい。苦労することによって重みのある人になる。
讒訴を免れさせようとして苦労をさせるのである。
これからは喜びの涙を流していかなければならない。
宇宙的な堕落によって、心は希望を指向し肉身は現実を指向するゆえ、人間の苦痛の生活は不可避なのである。
統一教会の食口は打たれて大きくなろう。大きくなるには正しくまっすぐに大きくなろう。
仮に皆さんの苦労に対して給料を払うとしよう。その金は誰がくれるのか。そのようにすれば皆さんは神の雇われ者でしかない。
足りない自分を自慢することができないので苦労をさせようとしたのである。サタンが讒訴できない立場におくためである。
苦難を避けていく者とならずに迎えていく者が神の道を行く者である。
血、汗、涙がある限り我々の資本は残っている。統一教会の財産は血と汗と涙しかない。
迫害する人がいなければ、蕩減することができない。
先生は苦労の百科事典である。
苦労こそが神の審判とサタンの讒訴を越えることができる。
勝利者の気持ちは闘ったことのない人は感ずることができない。
宇宙よりもっと大きな悲しみを知って神を呼ぶ人がいるとすれば、神はその人を「私の息子よ、娘よ」と呼ばれるであろう。
負わされている荷と負債を解き放つために、サタンと結ばれている兄弟と父子の因縁を切らなければならない。
犠牲はすなわち闘いである。闘いは統一をさせるための方便であり方法である。
神は「あなたは私のものである」という基準に到達するまで苦労させる。
大きい人であればあるほど、絶えず進むことによってこそ一つの責任をもつ人となる。神の心の中でアブラハムが忠臣と決まっていたのではない。その時に信仰を立てたのは、アブラハム一人だけであったので約束的に祝福をされたが、最終的な祝福をしたのではなかった。
イエスの苦労は三十三年の苦労であり、モーセの苦労は一二〇年の苦労であるが、一人の方の苦労は天と地が屈服するものであり、サタンも痛哭するものであり、したがって世界はその一人の方のものとなるであろう。これが神の苦労なのである。
聖徒たちが苦労をして、霊人たちが泣き人々が泣くようになってこそ人類に光明が戻ってくるのである。
皆様が受ける苦労を材料として、サタンを一言も言わせず屈服させようとするのが先生の作戦である。
現実の苦しみを無視し、未来の幸福のために絶えず進むところに発展は訪れる。
先生が初めて使命を受けていで立つとき、細胞が泣くほどの峠を越えなければと思った。
最低の場においてその環境をすべて忘れても、そこに満足し得る者がいれば幸福な人である。
先生は皆さんを神様の息子、娘にしようとするし、皆さんもまた神様の息子、娘にならなければならないゆえ、そこには必然的に生みの苦しみすなわち苦労をしなければならない。つくろうとする側が勝たなければならない。皆さんは無条件に負けなければならない。そのあとには神様の息子、娘であるといえる。そのあとには神様の孝子孝女となり、烈男烈女となって神様の忠臣として、神様の創造理想の一面を担当しなければならない。
苦労をさせても、もっと苦労をしなければならないという思想の所有者であれば、この国を指導していくことができる。
蕩減解怨は涙から始まるのである。栄光なる場に出ることを遠慮し、恥ずかしい場において神が覚えるようにならなければならない。
忠臣と烈女と孝子は平常時には現れない。難しい立場において現れるのである。苦労した結果がすぐ出ないと言って落胆するな。外的に戻ってくる。どれぐらい精誠を尽くしたかが問題である。
我々は歴史的な苦労を相続しなければならない。範囲が広くなればなるほど、内情的な心情にその歴史性が加担されているゆえにますます難しい。
「私がこのような姿になってしまったのか!」と嘆くな。それが歴史的に認定され保証される道があるかどうかが問題である。
苦労と曲折のない平坦な路程を歩んだ人の生活より、複雑で曲折の路程を歩んだ人の生活が、より深く広い味がある。
神(天)以上に耐えた方もいないし、神以上に苦労した方もいない。
苦い物を食べていて甘い物に対するときは、その甘さがほんの少しであっても実に刺激的である。
川の主流は、戻らずに川の筋から最も近い所を選んで先にぶつかって先に傷を負うものである。
試練と苦痛は私の怨讐ではなく、輝かしい価値を決定してくれる材料である。
み旨を中心として歩んできた険しい過去の道に対して絶対に後悔するな。それは私の財産である。険しい道の中においても険しい道を選ばなければならない。
神様の前の孝子は誰でもなれる。寂しく難しいことに責任もった人の道こそ孝子の行くべき道である。
開拓の道は冒険の道である。たった一つの武器があるとすれば、すなわち努力と闘志である。
開拓者が追求する道は現実を主とするのではなく、常に未来の価値の内容を追求しながら行く道である。ここにおいてのみ発展と希望が永続され得るのである。
苦労をするなと言うのにその人が苦労をするとき、それを制止する法はない。
悲しみの極点を越えたときに最高の喜びが来るのである。
蛇は脱皮しなければ大きくならない。脱皮するためには石垣の間を抜けなければならないのと同じように、罪悪の皮をかぶっている人間は、蕩減の路程を歩まずしては皮を脱ぐことができない。
蕩減は自分の愛する人を通してやってこそ善であるので、神は聖徒たちを中心として蕩減させていくのである。
幸福の国を願うなら、不幸な国において犠牲になることを知らなければならない。
冬を克服することのできる生命力をもたない種は、新しい春と共に新しい希望の出発を見ることができない。
世の中で学ぼうとしても学ぶことのできないことを学ぶ所が監獄である。なぜ? 監獄の中には貴重でないものがないからである。あらゆるものが貴いことが分かる。
み旨がなされたあとに後悔する涙を流さないために、今涙を流し後悔する道を行くのである。深い谷を行かずしては高い山頂が現れない。
苦労のない恵みは流れてしまうのである。