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5)体の地獄趣向性

アダム・エバが誰かというと、神様の体です。コリント人への第一の手紙三章に「あなたがたは神の宮であることを知らないのか」と言われたように、この体は、神様がいらっしゃることができるのです。その家は、今日堕落した人間たちの体ではありません。イエス様を信じて救われるという、故障して修理工場を経てきたそこに、神様がいるというのではありません。青少年時代に、本性的で純粋な、初愛の本来の創造理想的人間にならなければならないのに、そうできなかったのです。それゆえ、神様の愛の圏内から脱した人間なのです。

地獄は何か? 悪魔の愛の圏内を言います。悪魔は、憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻だけを崇拝するのです。それで、悪魔の圏はそのようなものだけが盛んなのです。それが戦争として現れたのです。そのような悪魔は、生命を断たなければなりません。一族を絨毯爆撃で…。何と言っただろうか? 絨毯爆撃と言ったか? 集中的に数十発をいっぺんに吹き出して、根まで、どん底まで爆破してしまわなければなりません。

神様の胸に痛い釘が刺さった事情が、どこから生じたか? 悪魔が生じたためです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたという、この無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のためです。「神様の管理下で千年万年愛して暮らして!」こうすることができる家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が、世界的に広がったのです。今、世界一八〇余か国という国があります。それも、数多くの氏族が互いに戦い、弱者たちが強者に吸収されたので、それでもその程度です。これを全部、神様のみ旨の中で一つにしなければなりません。

では、サタンはどこに根拠地を立てたか? サタンも神様が分かります。神様は、創造的本性を中心とした起源的主人であるために、起源的な側に立っており、悪魔はその起源を通じて創られたために、相対的基準に立っているのです。愛で見るとき、この起源的基準が良心です。良心は、誰に似たか? 神様に似ました。それで、神側だと言います。体は誰に似たか? 悪魔に似たために、サタン側だと言います。分かりますか?(はい)。どうして、神側だと言いますか? どうして、悪魔側だと言いますか? それは文総裁が適当に言うのではありません。はっきりと知らなければなりません。

良心が、体のためにどれほど犠牲になりましたか? 一生の間、蹂躙される良心の事情を、皆さんは分かりますか? 夜も昼も自分を管理するのに、疲れたのが良心です。それでも疲れずに体が悪い行動をしようとすれば、妨げるのです。「それほどしたら今止めるべきではないか? 私の言うことを少し聞くべきではないか?」そう言うでしょう? 自分の前にいちばん近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。お分かりですか? しかし、体には教育が絶対必要です。そうですか、違いますか?

それゆえ、体がしようとするとおりにすれば、地獄と通じるのであり、心がしようとするとおりにすれば、天国と通ずるのです。天国と地獄の分岐線が自分です。南北に三八度線を分け、サタンが乗っています。分けて乗っているのです。ですから、この左足を以南に移しておかなければならないのです。簡単です。それが分かるために、分けておいたのです。これを分けておかずに死ねば、個人的な三八度線、霊界が塞がってしまいます。家庭的三八度線、国家的三八度線が全部塞がってしまいます。世界的三八度線、宇宙史三八度線をどのように越えますか?

皆さんが胸が痛むほど悔しく思うべきことが、まさに自分の体が、悪魔の舞踏場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、千年万年暮らそうという力の勢力圏として、自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。

このようなことを考えるとき、解放神学は…。宗教というものは何か? 罪の根と戦うのが、宗教の本質的闘争歴史です。しかし、自分は全部地獄に行く版図になっていながら、自分自身が悪魔の舞踏場になっていながら、宗教のために旗を掲げて社会を求道すると、大騒ぎするのです。狂ったやつらだ! これは、文総裁がいなければ大変なのです。共産党のような者たち。

皆さん、それを知るべきです。自分を憎まなければならないのです。この体を憎むべきです。「こいつ、怨讐の奴! こいつ! 怨讐の息子娘とくっついて、生まれた私だな。王を殺して、王権を蹂躙して、王権を破綻させ、愛の理想である天宙を蹂躙した、悪魔の血を受けた私だな!」自分の体に怨讐の血が振動するのを刀で断つこともできず、燃やすこともできないこの自分であることを知るべきです。神様が創造した愛の中で保護されえない万物の中に立って、それを消化して、それを消耗する消耗工場になっているという、驚くべき事実を知るべきなのです。(二一四\二八一)

復帰摂理で見て、これが最後のみ旨だと思うなら、瞬間瞬間を深刻に考える自分になったかを反省してみなければなりません。世の中に巻き込まれて回る姿勢ではいけません。

一度も深刻な場に立てず、一瞬も深刻な瞬間を持てなかったなら、彼は神様の前に恥ずかしい人です。そのような瞬間が問題です。自分について世の中が好む比率と、世の中が嫌う比率のうち、どちらがより大きいかを必ず考えなければなりません。

私がどれほど天地の公法をよく守って、天地が公認することができる立場で生きているか? 死に差し迫って、今までどのように生きたかと自問したとき、生涯を通じて善に生きるという心が、六〇パーセントを越えなければ地獄行きです。

体は制限を受けても、心は制限を受けまいとする闘争の歴史を持たなければいけません。天と地、歴史と現実を、そして後孫についても、「私は解放されるのだ。だから、私の伝統を受け継げ」と言うことができなければなりません。そのような瞬間を持てなかったら、彼は容赦なく地獄行きです。(一九\二七)

さあ、今は知らなければなりません。世界も混乱です、混乱。では、霊界はどうか? そのような混乱した人間像が霊界に行って暮らすと、そのような人たちが一つにまとまっているので、混乱しないという、そのような言葉が成立しますか? 泥棒の前科者は、いつも泥棒するようになっています。ですから、地球星で泥棒していた者たちが、天上世界に行って、ただを願ってそうしているのです。それで、処置が困難なので、地獄というものがパッと生まれたでしょう。

地獄は、神様が創ったものではありません。地獄は生まれたのです。ごみ箱を作っておいて、家を建てますか? 家を建ててみたら、ごみ箱が生まれたでしょう。(笑い)同様なのです。既成教会員たちは、根本を皆知りません。彼らは、「根本は分からなくてもいい。我々だけ良ければいい」と言うのです。そのように良くて行ったのに、どこに行くか? 地獄へ行くのです。地獄行きなのです。根本を踏まない人が、どん底でも踏むのであって、どこに行って歓迎されますか? そうではないのです。(一四八\二八)

もし、偽物の包みを持っていたら、いつ清算するでしょうか? 皆さんは、そのような心がありませんか? 片方の目が見えなければ、その目を抜いてしまうとか、治しておかなければなりません。分別しなければなりません。神様がおられるなら、このようなことを是正できる方法を教えてあげなければなりません。それで宗教が出てきたのです。

神様は、ねたみの心や嫉妬が多くて、地獄を創っておいたのではありません。偽物が生じて、偽物を処理することができる処置の倉庫として、地獄を創っておいたのです。誰がごみ箱を先に作って、家を建てるでしょうか? 例えば、キムチを漬けようと、良い白菜を買ってきたのに、漬けてみたら、虫が食ったクズのようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。堕落は、人間の最初の先祖がしました。それゆえ、これを蕩減して罪を清算するためには、真の父母の資格を持ってこそ可能です。皆さんは、これをはっきりと知るべきです。(二〇\一一八)

宇宙の最高のおじいさんが誰かといえば、神様です。その次に、この世界を一つにするのに、全天地を一つにするのに、その終わりの子孫が誰かというと、未来の後孫です。これをつなげなければなりません。何でつなげるかといえば、家庭です。国ではありません。天国に行くのに、アメリカ人だと言って、加減してくれないのです。韓国人だと、行進国の人だと言って、加減してくれないのです。この主流、家庭の組織を中心として、神様のみ旨とともに、過去・現在・未来をつなげうるモデル型だけを認めます。これが公式だということを知るべきです。そのようになった実を持っていって、貯蔵する倉庫が天国です、天国。それでこそ一等品、ナンバーワンなのです。

今まで、人間の世の中に生まれた人たちには、神様が救うことができる条件が一つもなかったために、全部地獄行きでした。虫が食って、ウジがつきましたが、それを豚でも食べさせて、他のものに使うかと言って、しかたなく持っていって貯蔵した所が地獄です。地獄と霊界の楽園だというのです。ですから、統一教会の観点から言えば、天国は空いているというのがスッと分かります。(一三五\一一八)

霊界に行ってみれば、霊界のすべての人たちが、地獄の数多くの段階的部署にとどまっていますが、その人たちが、どのようにしてそのようになったか? 愛の秩序の道理を中心として、孝子、孝女になるべきなのにもかかわらず、孝子、孝女になれなかった人たちであるためです。国を中心として、忠臣、忠女たちになるべきなのに、そのようになれなかった人たちであるためです。さらに、世界を中心として聖人たちになるべきなのに、そこに拍子が合わず、その比例的度数の差に該当する立場にとどまっているのです。

人生がこの地上で行くべき道は、正道です。正道を行かなければなりません。正道が何か? 正道が一体何かというのです。個人の正道がなければならず、家庭の正道がなければならず、氏族の正道がなければならず、民族の正道がなければならず、国家の正道がなければならず、世界の正道がなければならず、宇宙の正道がなければならず、神様自身も正道を行かなければいけないのです。このような、たった一つの道がなければならないのです。その道が何の道か? 本然の愛の道です。(一四七\一八三)

あの世へ行くようになればそうです。愛の理想の力が符合しうる、訓練された素性を備えられないようになるときには、反発的作用が及ぼしてきます。誰かが地獄へ行けと言いません。お分かりですか、何の話か? それゆえ、聖書に言うには「怨讐を愛せ」と言いました。本当の愛は、怨讐にその愛が及ぼして、一次、二次、三次、四次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力を持ったために、イエスも怨讐を愛したのです。

今日、キリスト教の信徒たちが、怨讐は個人の怨讐を言いますが、違います。神様の前にいるとは、その怨讐が誰か? 無限の価値を持った、この愛の法度に背いた者です。神様の前において、サタンが誰か? そのサタンは、神様の前に姦夫だったという事実を知るべきです、姦夫。これは情けない言葉でしょう。

私があの霊界に行って、持ち上げて出してみて知って、このようなことを言って、異端だという声を聞いてですよ。異端の魁首だ、何だ、キリスト教世界を滅ぼすとか、死ぬべきだとかいう、ありとあらゆる悪口を皆聞きました。ですが、死ねと悪口を言った牧師が、死んでいくのを見ても、私はまだ死にませんでした。それは何によって? 天意によって。まだすべきことが残っています。(一二一\一七三)

さあ、皆さん! 自分の子供の中で、殺人強盗になるとか、国家の犯罪を犯して、死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くときに、その父母がついていって「おまえは死ぬ場に行ったからよく死ね。さよなら。グッバイ。」こう言いますか?「さようなら。」そう言いますか? そういう父母がいますか? 死ぬのを見て「ああ、見たくない、見たくない。こいつ、もうお別れだ。」そう言いますか? その息子にしがみついて、死ぬ場にともに同参しようとするのが父母ではないか? そうでしょう?

それが永遠に続くと言うようになるなら、父母がそれを眺めてじっとしているでしょうか? 永遠に免れさせようとじたばたして…。そうでしょうか、違うでしょうか?「おお、気持ちいい。こいつ! それをぎゃあぎゃあそういうのも当然だ」そう言いますか? 愛する父母であるほど、永遠に死んでいくというなら、永遠に免れさせてやろうとするのです。「ああ、もうやめよう、やめよう」と言う父母がいますか? どこか世の中にいるでしょうか? 永遠をかけて死んでいくというなら、永遠をかけて生かしてやりたい心を持つであろうし、自分の苦労を先立たせて動いていくのではないか? このように考えるとき、神様はかわいそうな方です。

地獄の門を閉ざしたとしても、永遠に死んでいくのを見るとき、神様が「ああ、嬉しい」と言うのではなく、永遠に免れさせてやろうと、やきもきするのです。そうすべき父母の立場で、責任を果たすのであって、「えい! 皆掃いてしまおう」という立場に立てはしないのです。それゆえ、地獄まで解放しなければならないという論理が成立するのです。

そんな父母の前に「おい! おい! その子は永遠に死ぬように、じっと放っておいたのはうまくやった。父・母だと…。あなた何ですか、何ですか? みっともないです。それぐらいしたらいいでしょう、見捨てて振り返れ」と言うとき、その言葉が耳に入ってきますか? こんな立場を考えるとき、それがどれほど悲惨か。

もし息子が、そんな情景を見るようになるなら「うちのお母さん、お父さんのためにこうなのだな」と言い、千万回罪を皆悔い改めるようになるのです。分かりますか、何の話か? そんな母がいて、父がいれば、その母、父の前にその子は、骨が溶け、肉がやせ細るほど悔い改めるようになるのです。父母によって、そうすることができる道が生じるのです。

ある父母に対して「あなたの息子が悔い改めたとしても、その罪を犯したことをいつも挙げてきて、子供に抵抗し拒否することができる父母になるべきであって、子供が悔い改めたといって許してやる父母になってはいけない」というそんな法がありますか? ありますか、ないですか? ないのです。それゆえ、サタンも神様が人類を救う、そのような愛の前には、讒訴できないのです。神様の前に讒訴できないのです。分かりますか、何の話か? おまえは、そんな立場に進めない…。サタンには、そう言うことができる心がないのです。完全な立場でに立っている人を、天の前に讒訴できません。その人の前には、サタンが自然に屈服するのです。その父母の愛を通じては、悔い改めるも恩を許せない法がありません。

それで、そのような心情を通じて、統一教会は地獄までも解放しなければなりません。それが真の孝行者として行くべき道ではないか? それで、地獄までも救ってやるということを統一教会で言うのです。なぜか? それは、神様がそのような方であるため。皆さんが歴史的に考えてみれば、どれほど親不孝をしたか? どれほど親不孝をしたかというのです。皆さんが全部、孝行者になることができる歴史を経てきた人かというとき、違うのです。全部親不孝なのです。親不孝、親不孝。親不孝この上ない皆さんなのです。(六二\五一)

今、皆さんの愛する父母兄弟が、統一教会を信じなければ、本当に地獄に行くことが分かりますか、分かりませんか? 間違いなく地獄に行くようになります。お兄さん、お姉さん、弟、お母さん、お父さん、姻戚の八親等といわず、統一教会を信じなければ、本当に地獄に行きます。それを確信しますか? 確信しますか、しませんか?(確信します)。皆さんは、それをはっきりと知らないのです。

地獄という所は、一度引っかかれば、永遠に脱することができない所です。それでも皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚が、地獄に行くということを実感できません。ただ何とかなるだろうと言って、おしまいです。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてみなさい。世の中の監獄にさえ入るとしても、泣き叫びながらありとあらゆることを皆してでも、引き出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹すべてが、永遠に出て来れない監獄に行くということが分かるなら、そのようにしますか?

皆さんは、まだ何も知らないのです。地獄があるのか、ないのか、原理があるにはあるが、どのようなものか知らずにいるのです。皆さん、本当に分かりますか、分かりませんか? ぼんやりとしているでしょう? 間違いなくぼんやりとしているでしょう。しかし、皆さんが死んでみれば分かるのです。死んでみれば、いっぺんに分かりますが、そのときはすでに遅いのです。

それで、今死んだ父母たちが霊的に現れて、伝道をたくさんします。自分たちが統一教会に通う息子娘に反対して死んで、霊界に行ってみたら大変なのです。それで、霊的に現れて、伝道する霊人たちがたくさんいます。そのようにしなければ、三世界で引っかかるためです。分かりますか? 自分の息子娘が統一教会に通うのを反対して、行けないようにしたら、三世界で引っかかるのです。

それゆえ、天情世界であらゆる精誠を皆捧げて、善なる先祖の名前で特使を受けて、自分の子供に現れて教えてやるのです。誰でも現れるようになっているのではありません。そのような世界に行ってこそ、統一教会がとてつもない所だということが分かるようになるとき、どれほどあきれるかというのです。皆さんは、そのようなことが分からないでしょう?

統一教会は、ただこのように集まって分かれる所だと言うでしょうが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引かれるのです。この門を閉めれば、永遠に開ける者がおらず、開けば再び閉める者がいません。地で結ばれたことは、地で解かなければならないために、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえ、皆さんが伝道をするにおいて、今は他の所に行ってするなというのです。(三四\二六六)