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天国はどんな所か? 準備したものを持って誇る所であり、侍る生活をしたのを誇る所です。では、その天国は、どんな者が行く所か? 主を信じて、福を受けるために、福を先立たせていく者が行く所か? 違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して、喜んで行くことができる者が行く所です。そこに復活があるのです。
皆さんの環境をたどって調べてみなさい。生活の内幕は現れていません。どのように生活するのかということが、今我々が侍る生活の中で、考えるべき重大な問題です。(八\三〇四)
天国という所は、心情を通じなくては行くことができないということを、皆さんは知っているでしょう。天国は、全体を主管することができる本然の国であり、本性の国というものです。その国は、ある事情を持っては、所有することができません。深く染み込む心情の因縁を持ってこそ、所有することができる国です。それゆえ、キリスト教は、窮極的に事情に通じる教会ではありません、心情に通ずる教会です。事情の因縁を越えて、心情を歌うことができる基盤を築くのに、地に対して摂理される天の目的があるのです。
堕落が何か? 神様の事情を論ずることができないのではなく、心情を論ずることができないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子娘に対することができる心情は持っていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされますが、それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が救世主であるということを、皆さんははっきりと知るべきです。
我々は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また、神様の心情を願う前に、自分自身はどのように生きていくべきかを考えなければなりません。皆さん自身は、まず侍る心情を持たなければいけません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しがるのが、人間の本性です。我々人間は、堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたがるのが、我々創られた人間の本然の心情です。それゆえに、心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった者は、天国と何らの因縁もないということを、皆さんははっきりと知るべきです。
ところで、侍るためには、侍ることができる準備が必要です。その準備の過程を経た後には、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経た後にこそ行く所が天国です。心情で侍った者が行く所が天国です。侍ることができる準備と、侍る生活を讃え、高くとどろかせる世界が天国です。これを皆さんは、はっきりと知るべきです。我々は、このような目的の世界に向かって行く過程を経るべき運命に置かれているのです。
堕落の血統を受けた生まれたその日から、今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った一日があったかといえば、ありませんでした。堕落しなかったときに、我々の先祖のアダム・エバは、創造理念を通じて育ち、心情の因縁を立てておいて、神様に侍ってみた時間がなかったのです。
神様の恨が何か? 心情を中心として、神様に侍るべき人間が、侍ることができない立場に落ちたのであり、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られることができなかったのです。信じる者がいないのが恨ではなく、神様を知る者がいないのが恨ではありません。心情を通じて神様に侍り、心情を通じて神様に対することができる人がいないのが、天と地の恨であるということを、皆さんははっきりと知るべきです。(八\二九〇)
今日、数多くの宗教人たちは、天国は自分の宗教を通じてのみなされると言います。それは、すべて妄想的な言葉です。数多くの宗教が各々教祖を中心として、その教祖が教える教理を通じて、天国がなされると言います。キリスト教だけ見ても、数十個の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ、異端視し、サタン視する現実において、その教団が神様から公証を受けた立場でそんな言葉を言うなら分かりませんが、ただ自分の宗派を立てて、自分の宗派を残すための欲からそう言うのなら、動機が純粋ではありません。それゆえ、そのような教団は、すべて滅びていくのです。もし、今日、統一教会がそうなら、統一教会から滅びるべきです。
このように見るとき、宗教の先決問題は、天国をなすことではありません。それが一次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継ぐことができる、一つの特定の民族が必要なのです。神様は、そのような民族を創るために、選民を選別し、選ばれたのです。歴史上にこのような選民思想があるという事実は、悪の世の中に善の一派を残すための主導的な思潮が、歴史の背後に残っているということを証すのです。
悪の世界で選民が出てくるようになれば、天国はなされ始めます。しかし、天国の民が出てくるには、まず天国の子孫が出てこなければなりません。また、民と国が出てくる前に、天国をなすことができる家庭がまず出てこなければならないのです。家庭が出てくるには、天が生涯をかけて保障することができる、一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。
では、そのような男性と女性だけ出てくればいいのか? 違います。その男性と女性を通じて、息子娘が出てこなければなりません。そうして、神様が永遠の息子娘だと保障することができる、一つの家庭が出てこなければなりません。このような家庭なしに、氏族と民族をなすことができず、そのような民族なしに、国家と世界をなすことができないということは、極めて当然な事実です。
それゆえ、神様が訪ねてこられる拠点は個人です。個人に囲いを巡らせているのです。それで、今まで宗教は、個人の救いを目的にしてきたのです。しかし、神様が探している救いの目的は、個人ではありません。家庭です、家庭。それゆえ、天国の家庭の基盤を探して立てる前に、天国氏族、天国民族、天国国家、天国世界はありないのです。(四七\二五〇)
天国か、地獄か、どこから分かれるかというと、聖書をよく知って、言葉をよく話すことで天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。(三二\二三一)