P.19

3)イエス様と楽園

イエス様を信じて天国に行こうと言いますが、誰が天国に行くというのですか? 自分個人が行くのですか? 今までお母さん、お父さんに仕えて、家庭がともに天国に行こうという、そのような宗教はありませんでした。今までの宗教は、個人圏を主にしました。しかし、これからは家庭がともに天国に入らなければならないという宗教が出てこなければなりません。家庭が一時に救われうる宗教理念が出てきてこそ、天国の門が開かれるのです。今までの宗教は、一人で綱にぶら下がってぶらりぶらりと上がっていくような、そのような個人の救いの宗教でした。それゆえ、修行の世界では、独身生活を強調したのです。家庭を持っていることが怨讐なのです。イエス様も家の中の家族が怨讐だと言ったでしょう?

皆上がってきては、地の主権をつかまなければならず、独身男女は結婚、祝福行事に入らなければならないのです。天国は、本来の息子娘が結婚して、神様の愛を受けて入る所です。それが、本来人間が堕落しないで完成すべき天国です。

イエス様が霊界に行きましたが、一人で行きましたか、二人で行きましたか?(一人で行かれました)。一人で行ったために、天国に入れず、楽園に行ったのです。楽園は、天国に行くための待合室です。楽園は理想的な天国ではないのです。天国は、夫婦が家族たちを連れて入るべきなのです。それゆえ、イエス様は、再び来て、新郎新婦を編成して、家庭を国を連れて入らなければならないのです。そのようにするために、神様がイエス様を楽園に保留にさせたのです。それゆえ、再び地上に来てその原則的な内的な基盤を築いて、天国に入らなければならないのです。ただ、大ざっぱな計算になっていないのです。道理がそうであるべきではないですか?

それで、これからはお母さん、お父さんが救われるのです。家庭が全部天国に行くことができる宗教、そのような救いの道理を教えてくれる宗教があればいいですか、悪いですか? ここから国が立てられるのです。個人としては、国が立てられないのです。それゆえ、キリスト教は、国がないのです。結婚できなかった独身男女を集めておいたのが、キリスト教なのです。天主教の神父と修道女を皆さんは見たでしょう?

この地上に、キリスト教国家がたくさんありますが、その国家の主権者は、キリスト教指導者、すなわち教区長や牧師ではありません。厳然と違うのです。キリスト教は、霊的な国です。地上には国がありません。地に国がないために、今まで数多くのキリスト教徒が殺されたのです。地上に主権があったなら、キリスト教徒は国家の保護を受けるために、死なないというのです。しかし、国がないために、流離弧客(さすらいの一人旅)をして、群をなして歩き回り、集団で殺されたのです。これから我々は、世界のキリスト教徒を合わせて、その国の主権を持って、自分の家、自分の国、自分の世界を探さなければなりません。それをキリスト教徒はしなければなりません。(四一\三四六)

今まで神様は、一度も霊と肉が完成したという条件を備えた人を抱き締めて、愛してみることがおできにならなかったのです。イエス様も愛してみることがおできになりませんでした。それゆえ、イエス様は今も楽園で祈っておられるのです。

そのようなわけで、我々は我々の霊と肉、全体を抱こうとされる神様の愛を知り、そのような圏内で初めて神様の子女という名分を立て、万物を主管することができなければなりません。そのような世界が、神様が復帰されようとされる主管世界であり、安息の園であることを、皆さんは知るべきです。では、今我々個体の問題に帰って、復帰の運命に置かれた我々は、どのようにすべきかというと、新しい理念を探してさまよわなければならないということです。そうすべき時が来ました。これからは、真の人生観の問題、宇宙観の問題が台頭するでしょう。(五\四九)

イエス様が、どうして天国に入れなかったでしょうか? 天国は、堕落しなかった生きた者が入ることができるように、神様が人間に創ってくれたものです。人間は、本来の原則的な基準に立てられてこそ、天国に入ることができます。それゆえ、イエス様自身も堕落した人間を救って、堕落しなかった人類の父母であるアダム・エバの立場で、息子娘を率いて入らなければならないのです。しかし、イエス様は、一人で生まれて死んだので、イエス様の子孫がいますか? いないために、楽園に行くようになったのです。天国に入れずに、楽園にいるのです。天国に行くための待合室のような所に行っているのです。

それで、イエス様は、再び来て新婦を探さなければならないのです。本来のエデンの園で、アダム・エバが新郎新婦になって、天国に行くようになっています。人類始祖が堕落したといえども、その原則は残っているために、その原則どおりに花咲かせるために、イエス様が来られなければならないのです。一人で行ったので、天国に入れないのです。再び来て、地で解かなければならないという聖書のみ言と同じです。(四一\三〇〇)

堕落がなかったら、天国は一人子、一人娘が、神様の愛を中心として、一つの夫婦をなして、神様の家庭を作って、神様の愛で暮らしてから引っ越していく、その所が天国です。家庭が入るようになっているのです、家庭が。個人は、天国に入れないのです。それで、イエス様は、家庭をなせなかったことによって、天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です、楽園。楽園が何かというと、天国に入る準備をするための、そのような待合室のような所です。それが楽園です。天国は、一人では入れません。そうなのです。

このように見るとき、天国は空いています。これを考えれば、神様の復帰摂理が悲しい復帰摂理の歴史なのです。神様がアダム・エバを失ってしまったのです。しかし、アダム・エバを失えば、その二人で終わるのではありません。アダム・エバを失ってしまったということは、アダム・エバの一族を失ってしまったのです。その一族が拡大して、民族になるであろうし、一つの国家をなしたであろうし、一つの世界に拡大したであろうけれど、失ってしまったのです。ですから、アダム・エバを失ってしまうことによって、天国の王権を中心としたその王国を失ってしまうようになり、一人子、一人娘まで失ってしまったのです。(一四三\二五)