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2)キリスト教と天堂(天国)

さあ、今日ここに来られた皆さん、自分が天国に行くことができるか、できないかを考えてみなさい。教会に何百年通ったとしても、自分を中心とする心を持って通えば、天国に行けません。天国に行けません。救いを受けられません。もし、ここで文なにがしが言うのが間違ったと思うなら、死んでみなさい。そうなのか、違うのか? 天国に行けません。

今日、真なる宗教がどんな宗教かということを、皆さんは知るべきです。真なる人がどんな人かということを、皆さんが知るべきであり、真なる国がどんな国かということを知るべきなのです。(七八\一一八)

地上に天国をなして、愛の理想をなして出発して、霊界とつながらなければならないのに、今日、原理になく、道理に合わない、このような妄想的な、まったくでたらめな立場で…。その雲に乗って来るという言葉がどういう意味ですか? この頃は、飛行機に乗って飛び回るではないですか?(一九一\一一二)

霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中に「私がこのように殉教してこそ、天国に行くことができるだろう」と言った人たちは、天国に行けなかったというのです。反面に「天の父が私に訪ねてくるために、受難の道を歩まれ、血を流し、主に恩返しをするためには、どんな道でも行く」と言いながら、「その恩返しできる立場に、私が同参することができる栄光の一時を迎えたのが、どれほどありがたいか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。そのような人は、誰のために死んだのですか? 自分のために死にましたか、人のために死にましたか? 天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死んでこそ天国に行くだろう。」これは誰のために死んだのですか?(自分です)。自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。(四一\三五五)

既成教会が祈るのを見なさい。長老教なら長老教の神様にしようとし、監理教なら監理教の神様にしようとするのです。世界を内外に飲み込んで、消化しても余りうる神様なのにです。ああ、じれったい! そのような輩が、文なにがしに反対するのを見れば立派でしょう。(笑い)

針の穴ほどにもならない人なのに、こくりともしないで四〇年間悪口を言われても…。神様がユーモアを好みます。あるときには「おい、おまえ、どこかの教会の牧師が、おまえが死ねと祈るのをちょっと聞いてみろ」と言われながら、マイクの音を聞かせてくれます。それを聞いてみれば「悪魔の魁首なんだかんだ…」そう言うのです。誰が滅びるのか見ろというのです。誰が滅びるか見ろというのです。

ここは公式のデーターによって、天道を測定しながら、前進しているのに、ただ信じて天国に行くという盲目的な信仰なのです。悲惨なのです。悲惨です。悲惨なことに私が手を着けることができません。既成教会の秘密を、私が皆知っています。(一四七\一八五)

皆さん、天国に行きたい人は、手を挙げてみなさい。既成教会員たちは、何、天国に行く? 聖書を持って聖日に教会に行って、説教を一度聞いたといって天国に行きますか? とんでもないのです。そのように安っぽいものではありません。聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」と言いました。ここに引っかかる人は、天国に入れません。二番目のいましめが何か?「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と言いました。神様を第一に愛し、隣人を第二に愛する人が、孝行者になるのです。分かりますか?(一九八\二五九)

キリスト教で言うように、イエス様を信じて天国に行くようですか? とんでもない! イエス様自身も、相対理想をなせなければいけないのです。イエス様一人で、真なる人をなすことができますか? 神様もなせなかったのに。ですから、再び来なければなりません。雲に乗って来ていいですか? でたらめです。何と言うか? まったくでたらめで、荒唐無稽な内容をもっては、自分たちが真で、統一教会の文総裁が異端だって? 見ていなさい。あの者たちが滅びるか、私が滅びるか。今は皆、目の中に数えることができ、測ることができる、現実的内容が分かるこの民族は、私についてくるようになっているのであって、自分たちについていくようになっていますか? そうですか、違いますか?(そうです)。(一七六\二一〇)

今日キリスト教を信じる人たちは、イエス様を信じれば救われて、天国に行くと言います。天国に行くのに、全部自分一人で行くと言うでしょう? 自分の母や父を連れて天国に行く、という人は少ないのです。これからは、宗教が、個人の救いだけしてはいけません。神様が立てておいた、真なる世界的宗教なら、宇宙的であり最後まで残りうる宗教にならなければなりません。そのような宗教として、人類が願う最後の宗教があるなら、その宗教は天国に行くのに、個人だけ天国に行かせるのが、み旨ではありません。個人だけに紹介してはいけません。母と父にも紹介しなければなりません。そのように紹介して、族長までその内容の前に屈服するようになれば、いっぺんについて入るようになるのです。(四一\三四一)