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1.天国に対する理解

1)天国の所在

聖書に「天国はあなたがたの心にある」と言いました。天国は、自分が願う世界の果てにあるのではなく、自分の心にあります。その心の立場は、どんな立場か? 死亡が波打つこの世界のすべての要因とともに、一体となっている立場ではなく、それを克服して一つの生命の恩賜の波が波及しうる立場です。

天国は、体の世界では探すことはできません。この世界の中にはないのです。ですから、天国の起点というものは、自分の心の中から確かめて、心の中に描くことを実践躬行して、そこに一致しうるある所です。そのある所を探すことによって、天国を迎えることができるのです。

それゆえ、天国はこれから現れる、ある終末世界を経て来るのではなく、自分の心で一つの起点を描いて、その起点とともに来るのです。その起点を中心として、測るとき、はかりを水平にすることができる一つの支持点になるのではないか? その支持点と同じものです。支持するその点が、水平にだけなっていてはいけません。はかりは、水平になるのが目的ですが、これは水平から右に傾かなければなりません。重さが左に傾いてはいけません。右に傾かなければなりません。右に傾くそれが出発です。

それで、天国はどこから来るか? 心から始まって来るのです。心のどこからか? 世の中に勝った心から始まるのです。このようになるのです。いくら環境的に天国が来て至ったとしても、自分の心が悪で、自分の心がそれを描くことができず、自分の心がそこに動ずることができない立場にいるなら、天国が来てもその天国は、役に立たないものです。それゆえ、天国を迎えることができる基盤になるのは、環境ではなく、自分自身です。自分自身が問題です。天国を維持することができる支柱、支持するその支持点がどこかというと、環境であることに先だって、自分の心です。(四六\二三)

天国はどこにあるか? イエス様に従っていた弟子たちが、現実を清算できない立場で、これから天国を中心として、幸福の基盤を備えて、世界的な権威と出世意識を持っているのを見て、イエス様はその根本を撃破してしまい、「天国はあなたがたの心にある」と言ったのです。心の天国を描けない人は、天国の環境になっても、その天国を動かすことができないのです。心が決心できなくては、完全な行動をすることができないのです。完全な決心から、完全な行動が生じるのです。

それゆえ、自分の心が善にどれほど憧れるか? その憧れることが、歴史的善とともに一つになる、いくら血涙が出る環境にいるとしても、善と同行するために、それを克服する、いくら寂しい歴史的終末の環境の中に、闘争の路程があるとしても、それを避けていくのではなく、撃破していくという、そのような心が変わらない一路を開拓して、その心に一体となりうる体の生活環境を決意して誓うところから、天国が始まるのであって、心と体が別に行動するところに天国があるのではありません。心と体が一体となったところから、天国の方向に向かった前進が繰り広げられるのであって、心と体の行動が分かれるところには、天国は生じません。

そのような観点で見るとき、イエス様が説き明かしたのは、心と体が一致しうる内容を中心として、左右に傾くのではなく、その傾く環境を除去して、前進の加重した歩みを備えることができる主体性を備えてこそ、天国を迎えうるということを教えてくれたことを、我々ははっきりと知るべきです。

天国は人から、他人によって、来るのではありません。自分から来るのです。堕落した人間であるために、我々は自分を否定しなければなりません。自分自ら行けず、自分がこれを提示できないようになるときには、誰かをして提示するでしょう。その誰かが提示したというときは、自分が天国に行くには、彼と一つにならなければなりません。ついていかなければなりません。絶対的に歩調を合わせなければなりません。彼が東に行けば、自分も東に行かなければならないのです。彼が東に行くのに、自分は西に行く、彼がこのようにしたのに、このようにすればいけないという心を持って行ってはいけません。そこに批判があってはいけないのです。(四六\二四)

天国は、自分の心にあると言いましたが、その天国というものはどのような所か? 神様の愛が中心になっている所です。神様の愛が中心となって因縁を結んで、不変妥当な環境圏を設定した所が天国です。では、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないか? 神様の愛の本質と和合しうる人でなければなりません。そのような人以外には、行けないのです。

神様の愛の本質と和合しうる本質が何か? 自分を主にして出ていく人は、価値がないのです。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてを投入し、与えようとした人だけが、神様の愛の圏内に存続しうるのです。歴史上の偉人もそうしたし、聖人もそうしました。(四六\三六)