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9)出生の基準と生涯の基準

@ 過った出生の基準

今日、世の中の人は、自分自身が高貴な位置になっても、いくら博士だといっても、自分の出生が間違ったということを知らないでいるのです。神様の怨讐であるサタンの愛と、サタンの生命と、サタンの血筋を持って生まれたということを知らなかったのです。重要な問題です。

堕落世界が人間たちにつながって、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきたのです。生命、血統がサタンの不倫な愛を中心として一つになって、母の生命、父の生命にその血が流れており、その血が今日、自分に混ざって、自分を信じているのです。そのような三種類の結実がまさに自分です。分かりますか? 自分は最高の愛の結実体です。しかし、サタンの愛を中心として、サタンの生命、サタンの血筋につながっているのです。

今までは、そのようなことを知りませんでした。その背後に何があるのか、想像もできなかったのです。真の御父母様が、この時代に来て初めてそれを確実に宣布するのです。それを否定することができません。誰も讒訴する者がいないのです。それを確実に知るべきなのです。先生は、その立場で出発したのです。

この血、すべての五官がサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統に属したのです。それは、いわばサタン世界が皆さんの血管に乗って流れるのと同じなのです。自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、神様は、そのような男女を本然の純粋な完成人間として救われようとするのです。

皆さんはどこから出発しましたか? サタンからです。サタンの愛から出発したのです。それを見ましたか? 皆さんは知らないのです。見ることもできませんでした。サタンの生命を見ましたか? 皆さんは、サタンの血統を持って生まれたのです。それを皆知らないのです。いつそうしましたか? 長い時間が経ったのです。この家が文書契約してから、長い時間が経ったのです。新しい人が来ても、六千年が過ぎても文書を持ったその人が家の主人になるのです。分かりますか?

同様です。それを知るべきです。出発が過ったということを知るべきなのです。皆さんもそのようなことを考えてみましたか? 今まで、アメリカ、こいつらは、堕落を知りません。堕落した六千年の復帰歴史が、我々とどのように関連しているか分からないのです。本然の根本の根がそこにあるのです。中心の根が、中心の種につながっているのです。すべてが皆中心の根につながるのです。

皆さんの出発が間違ったのです。それゆえ、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのに、どこに行くのか? 原点に帰らなければならないのです。偽りの父母として始まったので、帰って真の父母として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか? 自分が神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再びつながなければなりません。

それで、皆さんが出発するとき、血統転換式をしたでしょう? それを自分の生命よりもっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ愛の前に回生する注射の薬と同じです。解毒注射です、解毒注射。

そうして、その偽りの愛を、祝福されて…。他の考えをすることができません。我々の先祖が過ったのです。これのために、どれほど歴史を犠牲にしたかを知る私が、再びその道を行くことができません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を人間に使用することで、歴史を通じてその代価がどれほど深刻か考えてみましたか? 個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼしたその影響が、どれほど莫大なものか、はっきりとその内容を知るべきです。

出生が過ったのです。いつも鏡を見なさい。これが自分の出生です。不倫な愛、ペッ! この鼻も、この口も、いくらよくできた顔も、ペッペッ! 自分に唾を吐くのです。この体がセンターになっているのです。体を打つべきなのです。

出発が過ったのです。あきれたことです。出生が過ったとは! ああ、私が育ってみたら、養子も乞食の群の中から、孤児院から乞食の子をもってきて育てたというのです。これは乞食の子よりももっとひどいのです。幼いときは、自分のお母さん、お父さんだと思ったのに、育ってみたら自分が乞食の息子なのです。乞食の出身だということを知るようになるときに、その家でどうなりますか? ひっくり返さなければならないのです。慟哭をして、ひっくり返さなければならないのです。(二一六\一〇九)

A 生涯の基準

ここで、生涯は、永遠の生涯を言うのです。霊界だけ言うのではないのです。それは生きている永遠の暮らしです。このような人生をどのように迎えるか?

「私」という存在は、神様の愛の対象として創られました。分かりますか? 絶対的な神様の、主体的な神様の対象の立場が、まさに自分というものです。神様の愛の相対というものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心であり、その神様の理想は、もっと永遠なものであり、その理想の中心が、まさに真の愛の理想です。その愛の相対が自分です。

そのような永遠な場にどのように出ていくか? 永遠のパートナーの立場が、どれほど貴い立場ですか! 皆さんの愛の属性が、どのようなものなのか分かりますか? それは主体と対象が一つになることです。それは、国家を一つにするのです。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこに行ってもついていくことができます。全財産を皆相続することができます。神様の永生の場、その心情までも皆相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物に共にするその心、神様がすべての者の心にとどまりたい心まで、皆相続するのです。ですから、どれほど貴いですか? その高貴な価値を発見したので…。私がその悲惨な過程を経て発見することによって、その基盤の上に立つようになったのです。どれほど嬉しいことですか? 何とも換えられない崇高で厳かで高貴な立場です。驚くべき恩賜なのです。

今や、神様と同じ場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。外の世界のどこへ行っても、韓国のどこへ行っても、この永生の概念はないのです。これが問題です。自分は永遠な生命として生まれたから、死んで霊界に行ってみなさい。一瞬に飛躍するのです。この制限された地球上とは次元が違います。制限された所では、自由に動くことができませんが、あの世界は、次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつどこでも皆得ることができるのです。無窮無尽なのです。

我々が永生体として創られたということを、我々は知るべきです。永生体の真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。そのような概念です、分かりますか? 今、霊界に行きさえすれば、我々は自由なのです。また、他の世界と完全に一つになるのです。ずるずるっと容易く通過するのです。

そうするために、この地上でどのように訓練するかが問題です。分かりますか? 皆さんは、準備ができ上がっていません。そのような使命を果たせなかったために、霊界に行けば来れないのです。真の愛を完成すれば、いつも来ることができるのです。

さあ、そうなら、あの世に行ってみたくないですか? み旨のために自分が山の中で虎に噛まれて死んだらどのようになりますか? その日の夜に霊界に行くのです。私はそのようにしてでも行きたいのです。冒険ができるのです。首をかけてするのです。

さあ、それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準! 皆さん、それを知るべきなのです。善悪の基準。第二が、本然の出発点! 三番目は? 永生です。私はそれをよく知っているのです。誰もが恐ろしい概念を持つのではありません。いくら私に戦線が強力でも、そこで銃を撃っても恐ろしくありません。皆さんもそうでしょう? 最も強い統一教会ではないですか? そうでしょう?(はい)。どうですか? あなたは本当に勇敢な人か?(努力しています)。努力していてはいけないのです。それは、到達できず、中途半端な立場ではないか? それは神様が相手をされないのです。

終着地を確保すべきです。それが神様が使われる立場です。それがその程度になるべきです。永生、私は永生する。神様を中心とした真の愛が出てきてつながり、神様を中心とした真の生命が出てきてつながり、神様を中心とした真の血統が出てきてつながるのです。結論が確実です。私は永生する、神様のように真の愛を中心として。神様がこのように創造されたのです。皆さんもそれを皆完成したのですか? そこに成功しましたか、できませんでしたか? その責任分担を果たすようになれば、皆さんは成功したのです。

さあ、その次には、この根本問題、皆さんが、今まで事業というものを、どのようにすべきかをよく分かりませんでした。再教育するのです。今、根本問題を言うのです。その次に、教会と社会に対する観。観です、観。その観が何の観か? 教会は教会を中心とした家庭だというのです。

その前においては、家庭を中心とした個人です。個人を中心とした家庭ではありません。その前のものは、取り除いたのです。その前には何かというと、家庭を中心とした個人です。それを取り除いて、教会を中心とした家庭だというのです。家族! 分かりますか? これがなっていないために、世の中の万事が皆騒乱が起こるのです。何の話か分かりますか? それが公的な道です。同様です。それを否定できません。

また、国を中心とした教会だというのです。教会を中心とした国ではありません。国を中心として、国を救うための教会だというのです。ですから、統一思想を知るようになるときは、自動的に教会によって国を救うようになっています。我々統一教会の人たちは、国を救わなければなりません。(二一六\一一五)