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二)真の父母の道

今、世界は戦いが起こっています。これを誰が手を着けるかというのです。誰がすべきですか? 我々がすべきでしょう。共産党と戦ってですよ、倫理破綻も防御しなければならずですよ、宗教が崩れるのも防御しなければなりません。

先生が、世界の学者と神学者たちを集めて会議をし、このような問題を深刻に討議しています。アメリカの国が夢にも見ないことをしているというのです。皆さんが活動するといいますが、皆さんが難しいでしょうか、先生が難しいでしょうか?

父母は、子供よりもと苦労しなければならないという原則があるので、先生はそれを実践しています。何かお金があれば、私がそのお金で食べて暮らすのではありません。未来の後孫のために、未来の後孫に良い道を開いてあげるのです。未来の後孫を愛する心を持って、お金を稼ぐのです。

レバレンド・ムーン、真の父母は何かというと、父と同じ位置で家庭を通じ、氏族を通じ、民族を通じ、国家を通じ、世界を通じ、宇宙を通じて行くべきなのです。これをつなげなければならないというのです。それをカバーするのです。そこで、夫を愛するように人類を愛さなければならず、息子娘を愛するように人類を愛さなければならないのです。自分の父母を愛するように、人類を愛さなければならないのです。いつも、それが即座につながらなければなりません。皆さんはそれを知るべきです。(一一八\二四二)

神様の願いが何かというと、神様とともに暮らしたがる人を探すことです。神様と永遠無窮にともに暮らしたい人、愛する息子娘と額を一度付き合わせれば、千年、万年経っても目を離したくない人、そのような人を探すことです。分かりますか? 神様が愛する息子に指先で一度触れたら、千年、万年経っても離したくない、そのような愛を持って暮らしたいというのです。

統一教会は、そのような原則による父子の関係を教えようとします。そのような原則による夫婦関係を教えようとします。また、そのような原則による家庭を論じ、そのような原則による兄弟を論じようとするのです。兄弟でも、一度会って別れるのではなく、千年、万年ともにいても嫌でない、そのような兄弟のことです。

それが、五色人種を通じて実践されてこそ、神様の愛の圏が成され、神様が暮らすことができると思うのです。それが易しいですか? 自分がご飯を食べることがあるなら、全部彼らに食べさせてから、その次に皆食べるまで待って、待ってから皿洗いまでして、寝ることまで皆みてあげなければならない、そのようなことをする父母がいなければなりません。

今日、真の父母は、そのような道を行こうとするのです。それが、真の父母が行くべき道であると思うのです。ある時には、お母様も先生を理解できないときがあります。毎日人に会うようになると、昼の時も忘れてしまい、話そうとしてですね、夕食の時も過ぎたのにもかかわらず話をして、ご飯がすっかり冷めて、固いご飯になったのですから。また、台所では先生と何人かがご飯を食べなければならいのに、何人かが待っているので大変なのです。ご飯を食べる時間になったと、何度も通告を受けても、ただ話を続けるのです、「そう、そう」と言いながら。

先生の哲学はそうです。ご飯が問題ではありません。千年、万年、あなたと私が暮らしても嫌になりえない、そのようなあなたを発見しようとして、探そうとするのです。一二時になり、夜明けの二時になり、明け方に鶏が鳴き、空が白んできても、夜を明かしながら愛さざるをえない息子を恋しがる人です。また、娘を恋しがる人です。兄弟を探している人なのです。(一二七\二八四)

もし、真なる人間がいたら、その真なる人間は、今日歴史を代表して「人類よ! あなたたちが行くべき真の標準はまさにこれである」と教えてあげることができる道を模索するでしょう。真なる人がいるなら、その人は、そのような道を模索するために、人類に代わってむごい犠牲となっても、その道を訪ねて立ち上がるまで叫び、教えてあげ、その道を開拓してあげるのではないかというのです。もし、その道を知っているのにもかかわらず、自分だけ行ったとする人なら、彼は真なる人ではありません。(一六三\八九)

歴史路程に真の父母という言葉を与えることができるたらどうか、考えてごらんなさい。これが嘘か、事実か、考えてごらんなさい。真の父母まで行くには、何級まで経なければならないでしょうか?

そこには、トゥルー・サーヴァント(true servant;真なる僕)がいるべきなのではないか? サーヴァントのサーヴァント(僕の僕)のことです。そこから始まるべきではありませんか? そして、トゥルー・ベガー(true beggar;真なる乞食)もいなければならないでしょう。トゥルー・レイバー(true labor;真なる労働者)もいなければならないでしょう。皆いなければなりません。トゥルー・パーセキュター(true persecutor;真なる迫害者)も、十字架についた人もいなければなりません。そのようなことを嫌だと思えば、トゥルー・ペアレンツというのは、絶対出てくることができません。罪人の中にもトゥルー・クリミナル(true criminal;真なる罪人)がいなければなりません。皆いなければなりません。

その道を行くべきであり、橋を置くべきです。世の中でいちばん悲惨な位置から始まって、これを越えることができる愛の代表者がいなければなりません。そうするためには、愛の十字架の道を行くべきであるということを知らなければならないのです。それが橋です。その言葉は合うようですか? 一級、一級を真の僕から上がっていき、真の養子から上がっていき、真の息子として上がっていき、真のカインとして上がっていき、真のアベルとして上がっていかなければなりません。

皆さんが統一教会の原理を習うときに、僕の僕とか、養子とか何とかいう道を誰が行くのか? その道は、先生が行く道です。先生は、その道を行き、戦い、生き残って、迫害するのに対して勝利したために、その橋を置いてやるのです。

それゆえ、皆さんが通りでかわいそうな人を見れば、先生がそのような立場だということを知りなさい。私が、共産党の前にそのような立場で踏まれ、拷問を受けひったくられたりするときに、腹が立ったでしょうか、腹が立たなかったでしょうか? そうだと言って「神様、私の怨讐たちに雷を落として全部殺してしまう!」と言うと思いますか? 違います。体から血が流れる立場で、福を願ってやったのです。その人たちまでも。レバレンド・ムーンを捕まえて行こうとしました。(一一六\一一四)