P.144

五 み旨の道を行く二世たちの執るべき姿勢

ク 生の目的を成就するには

 質問(お父様が今まで過ごされた中で、うれしかったことや悲しかったこと、大変だったことを少しお話ししてください)。

 悲しかったことと、うれしかったことと、そして何のことだって? (大変だったことです)。大変だったことが何かあったかな。人は、自分の目的を定めて仕事をすれば大変なことも大変ではなく、悲しいことも悲しみではなくなるのです。自分の目的を持って進めば、難しいこともありえないし、悲しいこともありえないのです。悲しんでいたら、その目的をどうやって成せますか?

 統一教会のみ旨の道がそうなのです。目的を定めたならば、いかに大変であっても行かなければならないし、涙が出ても耐えなければならないのです。目的をはっきりと定めることによって、大変であれば大変なだけ、その目的がだんだん近づいてくるし、また、涙を流す心情があればあるほど、その目的のために涙を流すようになるというのです。そういうことを考えた時、皆、良いこととして考え、良いこととして消化して喜ばなければなりません。そのように考えればいいのです。

 人が、何かの目的を定めたとすれば、その目的を成し遂げるためには、時間を投入しなければなりません。一年、二年、時間を投入しなければならないのです。その次に、努力をしなければなりません。いかに多くの努力をするかということなのです。その次に、精誠を尽くさなければなりません。ですから、時間と何ですか? (努力です)。努力をするといっても、普通の努力ではだめなのです。必ず体と心が一つになって、天に覚えられるように、精誠を尽くした努力をしなければなりません。そして、その量が多くなればなるほど、その目的は近づいてくるのです。

 初めに何ですか? 時間を消耗しなければなりません。その次は? (努力です)。その次は精誠です。その目的を成し遂げるために十年かかることを、三年のうちに成そうとすれば、三倍以上時間を投入しなければならないのです。その次に、三倍以上努力しなければならず、三倍以上精誠を尽くさなければならないのです。これは簡単なことですか? (難しいことです)。ですから、できないのですね。しかし、これは科学的なのです。

 結局、どれだけの量を投入するかということなのです。目的のためには、その目的が願う量よりも、時間であるとか、精誠であるとか、努力する量とかが大きければ、その目的は成し遂げられるのです。しかし、目的の基準よりも、少なくなる時、それは成し遂げられないというのです。

 皆さんは、どういう人間になりたいと思いますか? 「私は指導者になりたい、私は文学者になりたい、私は科学者になりたい」など、いろいろあるでしょう? 皆さんが、そのような目的をしっかりと定めたならば、その目的が大きければ大きいほど、そのために時間を投入しなければならず、努力をしなければならず、精誠を尽くさなければなりません。西洋の人たちは、精誠ということがよく分かりません。

 皆さんは時間を投入して、努力をして、精誠を尽くさなければなりません。そして、その目的は自分のための目的ではなく、全体のための目的でなければなりません。ですから、時間をたくさん投入しなければならないのです。寝る時間がきても寝ることができず、他の人たちが遊んでいても、遊ぶことができないのです。皆さんは、そのように時間をすべて投入しなければならないのです。

 また、他の人が皆、友達と遊び回ったりしていても、皆さんは、一人寂しい生活をしなければならないのです。皆さん、そうでしょう? 精誠を尽くすということは、人に対して精誠を尽くすことではないのです。神様であるとか、高い人に対して「助けてください」と言って、精誠を尽くすのです。ですから、そのためには、極めて孤独な立場を経なければならないのです。いろいろと難しいことがあるでしょうし、悲しいことが続くでしょう。しかし、それを消化しなければならないのです。それを苦痛に思ってはなりません。それを通過することによって、自分の願う目的も早く成し遂げられるのです。

 統一教会もそうです。今まで統一教会の経てきた道も、大韓民国すべてが反対し、世界全体が反対する道でした。実際、そのことは悲しいことでも苦痛でもありません。しかし、そのようなことがあればあるほどに、私たちの目的が結果的によくなるので、世界のすべての人々が関心を持つようになるのです。目的を中心として見ると、悲しいこと、難しいことが悪いことではないのです。そのことが分かるようになれば、悲しいとか、つらいとは思わなくなり消化することができるようになるのです。

 この世では、自分の目的も持たずに、ただ泣く人は泣いて流されてしまうのです。また、悲しんだり、つらかったりすることがあっても皆、それは流れてしまうのです。しかし、目的を中心として行く道には、悲しみがあり、苦痛があっても、それは必ず残るようになるのです。必ず、後代や私の一生において、その代価を得ることができるのです。ですから、それは、つらくてもつらいことではなく、悲しくても悲しいことではないのです。(一九七八・一○・九)