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ク 真なる人生の行く道
皆さんは、この五十億人類の中の一人ですか、それともそれを否定しますか? (人類の中の一人です)。それでは、この五十億人類は、すべて自己中心に生きられますか、生きられませんか? それに答えてみてください。(生きられません)。ですから、皆さんはお互いのために生きることのできる立場の五十億人類の一人ひとりであるという結論になるのです。
個人を合わせて家庭になるのですが、家庭にもさまざまな家庭があります。数多くの家庭があるのです。家庭を合わせた氏族にも数多くの氏族があり、氏族を合わせた国家にも数多くの国家があるのです。そのように制限された環境に住んでいるのです。そして、それぞれが文化的背景の違う環境で暮らしているのです。ですから、食べて、飲んで、消化することと同じく、共通的真理を中心として一つに連結できる基準を立てなければ、関係を結べないという結論が出るのです。
それでは、ここで個人から出発して、どこへでも行き、事故も衝突もなく、昼でも夜でも、二十四時間どこにでも通じる門を開けることのできる内容は何かということが結論として出てくるのです。いつでも無難に通過できる要素は何でしょうか? そこで、どんな立場の態度を執らなければならないのでしょうか? 降りて行かないといけないのか、昇って行かないといけないのか、横に行かないといけないのか、回って行かないといけないのかという問題が出てくるのです。行きながら戦って、ノックダウンされて、踏まれても行くのですか、歓迎を受けながら行くのですか? (歓迎を受けながら行きます)。どうしてですか? 戦う時には、消耗が伴うし破壊が起きるけれど、歓迎する所には、そのもの自体の発展がなされるからなのです。
ですから、ここで知らなければならないことは、自分を中心にして作用しようとすれば悪をもたらすのですが、全体のために作用しようとすれば発展をもたらすということです。これが分からなければなりません。全体のために行く時には、あらゆるものが門を開くというのです。個人も門を開き、家庭も門を開き、氏族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、天国も門を開き、愛の道など、あらゆる道が門を開き歓迎するのです。
それでは、そのような道は何でしょうか? それを私たちは考えなければなりません。ですから、統一教会では、このような観点から「為に生きる道を執りなさい。為に生きなさい。人は為に生きるように生まれたのである」という、天理を教えているのです。
では、真なる人生の行く道は何でしょうか? 一つの公理として立てられたことは、「為に生きなさい」ということです。それは、どこにでも通じる原則なので、永久不変なのです。「過去も現在も未来も、為に生きなさい」ということなのです。
そして、孔子やイエス様や釈迦牟尼やマホメットのように聖者といわれている人々の前に、神様が現れて「あなたたちはどう思いますか?」と言われる時、「それは正しいです」と言うでしょうか、「それは間違ってます」と言うでしょうか? (正しいと言います)。それが、宇宙の法則なのです。それは人生において、人間が真なる姿で生きることのできる一つの法則だということを知らなければなりません。このような真なる道があるのです。
ですから、家の中に息子がいるとすれば、その息子が家のためになればなるほど主体になるのであり、為に生きれば生きるほど、センターに入っていくのであり、為に生きれば生きるほど責任者になるのです。皆さんの家のお父さんとお母さんのうち、どちらが家の主体であり、中心であり、責任者になっているかという問題は、お父さんはお母さんよりも息子娘のために、家庭のために、全体のために生きる位置にいるからです。それを知らなければなりません。
愛国者も同様です。愛国者とは、誰よりもその国とその国の民のために生きる人です。それでは、聖人とはどんな人でしょうか? 聖人とは、あらゆる世界万民のために生き、昼も夜も永遠に為に生きようとする人です。また人だけではなく、大自然などのあらゆる宇宙すべてのために生きようとする人です。そのような人が聖人なのです。それに異議がありますか? ここで定義を下しても、否定することはできません。
それでは、このような宇宙をつくられ、法度を立てられた神様はどんな方なのでしょうか? それは、この全宇宙を通して誰よりも為に生きる代表的な位置に立つ方なのです。その方が神様だというのです。ですから、その方に会おうとすれば、為に生きなければなりません。
その方は、また知識の大王なのですが、知識をもって神様の前に来なさいとは言われません。さらに能力の大王なのですが、能力を持って来なさいとも言いません。その次に、権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり大王なのですが、それらを持って来なさいとも言われないのです。「為に生きれば、すべてが私のそばに来ることができる」と言われるのです。 (一九八四・七・一)