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三 勉強するのが骨が折れる

1 勉強するのが好きな人はいない

皆さんの中で勉強するのが好きな人はいますか?(はい)。勉強するのが好きですか? 私はそう考えません。勉強は嫌です。遊ぶのが好きでしょう? 自分の思うままにただ…。皆さん、幼稚園の子どもたちに幼稚園に行けと言えば、ああ…。また、小学校の児童たちに学校に行けというとき「ああ、お母さん私は学校に行きます」と嬉しいことのように跳ねるのを見ましたか? 「ああ、私は学校に行くのが嫌だ」こんなことを見ましたか? どちらをたくさん見ましたか?

幼稚園に行く子どもたちをじっと考えれば、幼稚園の子どもたちは幼稚園それだけが分かるでしょう。その幼稚園から小学校、中学校、高等学校、大学、学士博士までみんな知った立場で幼稚園からそれを始めろと言えばできません。できないことです。するようですか? 勉強しても皆逃げていきます。そう思いませんか?

それと同じように、皆さんも何かと言えば復帰の小学校に入ったのです。復帰の学校である小学校に入るのを同じだというのです。何も分からないので「しよう」というので「しよう! しよう!」こうですが全部皆分かれば…。分からないのが幸いで、分からないのが福だというのです。(笑い)それでも知りたいですか?(はい)。(笑い)分からず行くのです。

これを見なさい。ある深い山中の峠を越えるのに、その峠にはいつも虎が群れで出てくるとしましょう。それを父親母親は知っていますが、背負った子どもはその群れの虎でも何でも母親に負ぶさっているので天下が皆安心です。しかし背に負ぶさった子どもがもしその峠で群れの虎が出てくることを知ったらどうなりますか? どうなのか考えてみなさい。捕まって食われるときに、父親母親より自分が先に食われると考えればその峠を越えていこうとしますか? それゆえに知らないのが幸せなときが多いのを知らなくてはなりません。ただ熱心にだけすれば過ぎていくのです。(七九\一一九)

普通の幼稚園から普通の小学校、中学校、高等学校、大学まで行かなければならないとすれば「ああ、それをどうやって…」となるでしょう。幼稚園に入るときにそれを知れば「ああ、大学に行って博士になるのがこうこう骨が折れる」となれば幼稚園に行こうとする子どもは一人もいないだろうと私は考えます。(九七\九八)

学校で勉強する時間が好きか、修学旅行に行く時間が好きかというとき、修学旅行に行くのが好きだと行きたがりますが、修学旅行に行くことは難しいのです。外地に行って消化するべき環境ができるのに、その環境を消化できなくては脱落者になり落後者になるのです。(一一五\九九)

皆さん勉強するのは大変でしょう? そうかといって、しないでいられますか? それはなぜですか? 勉強して何をするのかといえば、社会という体制に合わせられる自分を作るためです。社会が私に合わせてくれるのではありません。同じく皆さんが築いてきた統一教会のこの道が、皆さん自体を訪ねて合わせてくれるのではありません。皆さんが合わせなければなりません。(一三九\七九)

学校に行って勉強するのが好きな人がいますか? だれが勉強するのが好きですか? それではなぜしなければなりませんか? しなくてはだめです。死にながらでもしなければならないのです。そうでなければ落後者になるのです。(一三七\一五七)

2「勉強しろ」の本当の意味

さて、子どもに悪いことを教える父母はいません。悪い父母はいません。悪い先生でも弟子たちには正しい講義をするのです。「イエス、イエス」という人はよくするのです。事実ですか?(はい)。(一一七\三一四)

学校に行く子どもに対して、勉強する子どもに対して「勉強をよくしろ、勉強をよくしろ、勉強をよくしろ」毎日毎日そう言ったらどれだけ聞きたくないですか? しかし、勉強ができず落第生になり世の中に出ていくときは「ああ、私たちのお父さんお母さんがそのように話したとき、言うことを聞いていたら…」こうだというのです。父母に讒訴できません。讒訴できないのです。

皆さんが好きだと休んでいる間に、天と地を失ってしまっているのです。盗まれているというのです。人が勉強している時間に勉強しないで、全部皆怠けて事故に遭うのと同じなのです。それで何になりますか? 落第生になるでしょう? (九一\三一三)

いくら強力に主管しても、彼をより立派にさせ、より輝かせるために、彼のために自分が加担して苦労させればさせるほど自分が苦労するという条件になるのです。

例を挙げて話せば、愛する父母が子女を身動きできないようにして、朝に夕にすべての生活を干渉しながら、勉強しなければ勉強しろとむちをもって強制的にさせても、それは父母の道のためではないのです。子女の将来のために、父母自身が困難に耐えて犠牲になりながらそんなことをするという事実を、子女はそのときは分からないけれど、後でみればみるほどそれが自分のための栄光の位置になり、祝福の起源になるということを知るようになるのです。自分が成功したとき「ああ、私たちのお父さんお母さんは独裁者だった」そうですか? 「ああ、私のために実にありがたくよくしてくださった!」こうだというのです。それが理解できますか?(はい)。

それでは悪いことは何ですか? 善と悪がどこで分かれますか? 行動は同じようでも内容が違うときは天地が変わるのです。むちをもって打っても、だれのために打ちましたか? 彼らのため、彼らの将来と彼らの祝福のため打つときは善になりますが、私のために「私の利益のためにおまえしろ」と打ったときには悪になるのです。

それゆえ、皆さんはこのような観点から、善悪の基準を確実に知らなくてはなりません。善悪の基準を分からないでは、これが混沌となっては、私たちがどんなことが神様の責任なのか、どんなことが私たちの責任分担なのか分からないというのです。分かりましたか?(はい)。(八七\一二三)

皆さん、学校に通う学生にとって、「勉強を熱心にしろ、熱心にしろ」というのが先生の毎日の訓示になるのです。先生はいつもなぜそうなのですか? 学校に備えてあるすべての学びの贈り物をそのままに 一〇〇パーセント相続してあげようという話です。「あなたがそのように努力して、この学校にあるすべての宝物を根こそぎ奪っていけ!」というのです。奪っていくには条件があるというのです。人よりもより血と汗を流し、すべての精誠を尽くせばこそそれを奪っていっても嬉しいけれど、精誠を尽くさずには、カンニングしてだましては…。そんな人は学校から追放されるのです。

それでは、相続を受けようという人は、必ず主人からよい言葉だけを聞くようにはなっていないのです。分かりますか?(はい)。先生が言うには「あなたたち、勉強を熱心にして、品行を端正にして、すべての学生たちと違いなさい。すべての学生が行く道を行かずに他の道を行きなさい」これです。全部皆反対の道に、一人ぼっちの道に追い出すのです。それはなぜですか? いちばん尊いものを相続してあげるためにです。そんなとき気分がいいですか、悪いですか?(いいです)。気分がいいでしょう?(はい)。(一〇一\一七〇)