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学校の授業科目の中に道徳の時間がありますね? この道徳を最近は何といいますか?(正しい生活です)。「正しい生活」ですか? この正しい生活の時間に先生が、悪い人には悪で報い、善い人には善で報いろと教育するのではなく、悪い人に対するときは耐えろと教育します。悪いことをする人を見て、自信がなければ接するなと言います。悪から離れろと言います。分立しろと言うのです。(三九\三〇八)
今日、大韓民国に大学や中学、高校、何らかの教育機関がたくさんありますが、その定義も知らずにいます。韓国の人口は四千万、このごろでは六千万とも言われていますが、五千万以上にもなる韓国の国民は、善・悪という言葉は知っていても、一体それは何を基準としていう言葉か、第一の基準は何か、これを知らずにいるのです。これが問題なのです。
言葉もそうです。自分と少しでも違ったことを口にすれば、悪いと言います。「私はこうだと言っているのに、あいつはああだと言うのだからとても悪いやつだ」というように、全部そんな調子です。行動を見ても、「あの悪いやつ」といいます。基準がありません。変わるものを基準にしたものは破壊に至るのです。あらゆる測定器、メーターならメーター、はかりならはかりのその基準は変わるものではありません。変わらないものが単位になるのです。絶対に変わらない単位は何が中心になっているか、これが問題なのです。(一三六\一一〇)
私たち人間は、どのように生きるにせよ、この世に生を受けたなら、一つの時代を生きていかなくてはなりません。一つの時代を生きるにおいて、人類の生活はいろいろな形で展開しています。
とりわけ、悪いことはしやすい世の中です。悪いことにはすぐかかわってしまいがちですが、善いことは難しいのです。悪いことをしやすいのです。ですから、これを制裁し防ぐための法律はたくさんあります。
いろいろな人々に「君は善い道に行くのか、悪い道に行くのか?」と尋ねるなら、だれもが「私は善い道に行く」と答えます。だれでも幼いときからそのように言うのです。子供のときから、小学校、中学校、高校、大学に至るまで、教育を受ければ受けるほど、どこに行っても一生の間ずっと、善い道を行け、という教えを受けるわけです。そのような世界に私たちが生きているということを皆さんは知らなければなりません。そのような世界に私たちは生きています。(九八\二三二)
今日、私たちは歴史上に二つの道があることを知っています。善なる人がいれば、そこには反対の人がいます。善いことをしようとするとき、必ず反対の副作用が現れるのです。本来の善を立てるための社会ではなく、善に反対する歴史的な社会であったことを私たちは知っています。
ですから、善いことをするのは難しくとも、悪いことをするのは簡単です。十の悪よりも一つの善を行うほうが難しい社会的な実情の中に自分が置かれていることを忘れてはなりません。このような悪が基盤を固め、悪の思潮が再び歴史的背景から現実的な舞台に現れ、私たちの求める未来世界を征服しようとするとき、私たちがこれを傍観したり逃避する立場に立つなら、善なる世界を完成することはできないのです。そうなれば、善なる個体を完成することができず、善なる個体を完成できなければ、善なる家庭を完成することも不可能になり、善なる国、善なる世界も完成不可能になるのです。(五四\一二)