P.121

四 青少年に必要なこと

成功するにおいても、人それぞれの素質によって違います。一年で成功する人もあれば、三年かかって成功する人もいます。人によっては、素質があって一年で成功する人がいるかと思えば、素質が無くて他の人の二倍、三倍の努力をしてはじめて成功する人もいます。それゆえ、残された十年間にやり遂げるべき仕事を、三十年かかったとしてもやり遂げるという信念を持たなければなりません。

ですから、統一教会員においても、信念を強固にする必要があります。先生は、そのために十八歳から冒険を始めて今日までやってきました。信念が最も重要な問題だということです。分かりますか? これを強化するためには、時によっては高い山にも登ったり、谷間へも訪ねて行かなければなりません。また、伝道をしに行きたいですか、行きたくないですか? 行きたければ行き、嫌ならやめなさい。

その次に、若い人には何が必要でしょうか? 意欲です。意欲も必要です。ところで、やってみたいという心にも、四百余段の階段があります。しかしながら、本当にやりたいというときには何段階かというと、一段階なのです。皆さん、本当にやりたいですか?(はい)。どれくらいやりたいですか? 腕が片方切られても、脚がばきっと切られてもやりますか? その次に左手、左足が切られても、右手、右足が皆切られても問題ないと言いつつ、それを忘れて喜ぶことができますか? 首を切られてもできる仕事があるならば、やりますか、やらないですか?(やります)。皆さんは、今、ビクビクしながらもやると言っているのでしょう?(笑い)

言うのはやさしいです。口では「やります」と直ちに言いますが、行動は万事に引っかかるのです。それゆえ、いちばん問題となるのは、自分の手足を投入して、後には生命まで投入することのできる姿勢ができているかということです。

私は昔、友達につき合って山に行くときも、朝早くからご飯を食べるやいなや、「おい! きょう山に登ろう」と言いました。そして行ってもびりにはなるまいと思いました。先生はそうなのです。昔、学生のときから山に行くというときには、おなかが痛くて体に支障があるとしても、完全武装して行きます。行って登れそうもないときは、祈祷しつつ登ります。「神様! 登ります」こうした条件を立てて登って行くのです。ただ人について登っていくのは大嫌いです。自分のなせる努力のすべてを尽くしておいて、神様に祈祷するべきです。「私はこんな決意をして、こんな意欲を持った誰だれです」と言いながらです。先頭に立てないときは、こうした条件でも立てなければなりません。このような意欲が必要だというのです。もしも百雲台に登るとしたら、頂上まで猪でもぶら下げて登るくらいの意欲がなければなりません。

意欲の中にはあらゆる探求欲が介在しています。「漢江にはどんな鳥が住んでいるのか? ああ、夏になって暑いけれども、あの山のてっぺんはどれほど涼しいだろうか? どれほど涼しいか登って行って一度風に当たってみよう。やあ、そこからソウルの都を見たらどうだろうか?」このような意欲、こういう心にしみる意欲が豊富であればあるほど、与えられるすべての環境を克服するのは問題ではありません。

先生は、幼いころから山を見れば、あの山の名前は何だろう? あの山には何があるのだろう?」と考えて、そう考えれば必ず行ってみました。また、洞内班内の内外二十里くらいのことには精通していました。池があれば、その池のどこに穴があって、どこに何があるということまで、皆知っていました。大きなライギョを捕まえようとして逃がしたときには、大変でしたが池の水をすべて汲み出すまでして捕まえてしまいました。

また、ある池に大きなフナが一匹だけいましたが、そいつを捕まえようと釣り糸を垂らしておきました。ところが、肝心なやつは捕まらず、雑魚ばかりがとても多くて、しょっちゅう食いついてきます。それで、小さなやつが捕まれば「お前は行け、こいつめ」と逃がしては再び大きいやつを捕まえようとしました。そうして、とうとうそのフナを捕らえたときの気持ちというのは、実感してみなければ分かりません。実際、そいつを捕まえるまで、苦労はしましたが、捕まえたときの気分は、そんなことのすべてを忘れさせてくれます。皆さんもそういう快感を感じようとすれば、それなりの何かがなければなりません。

ところで、最近の若者たちを見れば、人の顔色を読むことにだけは長けており、だれかが「一緒に行くか?」と言えば、本当は嫌なのに「うん、行こう」と言うのです。男たるものがこれでは、小心者の役目しかできません。ひたすら人の後にくっつき回りながら、やっかい者になるのです。どうしようもありません。それゆえ、意欲は人間の生命です。

意欲を成し遂げるためには、冒険が必要です。短期間に成功しようとすれば、それだけ大きな冒険をしなければなりません。それは平面的で一方的な冒険ではなく、立体的な冒険です。それゆえ、試練を最後まで克服できる粘り強い性格が必要だとういことを知らなければなりません。それを学ぶためには、神経質が鈍経質にならなければなりません。ヒキガエルのように鈍くなければなりません。ヒキガエルに学ぶことは多いのです。ヒキガエルが朝目覚めて日ざしを浴びつつ目をぱちくりさせてふんばっている姿を見て学ばなければなりません。また、牡牛が反すうしながらどれほど瞑想にふけっているでしょうか? そのように瞑想するのも学ばなければなりません。必要なのです。

人間には根気がなければなりません。どんなに理念がよいといっても、根気がなければなりません。どんなに理念がよいといっても根気がなければだめです。粘り強くてこそできるのです。十年を変わりない姿で過ごさなければなりません。先生はこのように話をよくしますが、話さないとなったら一か月くらいの間何も話さないでも平気です。監獄に入ったときも、何か月もの間口をききませんでした。先生が口を開けば、どんな話でも上手にしますが、しないとなれば、一言も口をきかないのです。

それゆえ、意欲を持って、倍加される冒険をしなければなりません。これ無しには、いくら夢が大きくても、その夢を実現するにおいて、他人の食べ残ししか自分のものにできません。これでは、びりになってしまうのです。

意欲を持って冒険するにおいては、断固たる勇気が必要です。勇気、勇気が必要なのです。あることに直面したときは、どんなことも恐れずに前進しなければなりません。国が反対するなら反対し、世界が反対するなら反対しろというのです。時が来たことを鑑定して判別した後には、勇気を持って進まなければならないのです。監獄をも恐れることはありません。私たちにはこうした勇気が必要だということです。

しかし、どんなに勇気があっても、それが無謀なこととなってはいけないので、判断をしっかりなさなければなりません。物事の道理をしっかり見極めた上で、正しいとするなら、いくら困難があるとしても克服すべきです。私が今日まで、数十年間準備してきたことが、ここで破綻するならば、あまりに惜しいと思えるようでなければなりません。ですから、今から準備しなさいというのです。今まで準備して、ここで後退せざるをえない敗者の悲痛な立場に立つということは、あってはなりません。それゆえ、そうしたあらゆる立場を克服しえる勇気が必要です。勇気百倍で、生命をも意に介さずに前進しなければなりません。こうした過程を踏まなければ勝利は来ないのです。

勝利の基盤は、こうした過程を経てこそ成し遂げられるものなのです。こうした過程を経ずして勝利したのは、人の世話になった人です。今日、統一教会の文先生という人は、誰の世話にもなりませんでした。先生は道義的な仕事に信念を持って、誰よりも力を注いで、勇気百倍で歩んできたのです。

それでは、勝利をどこに帰すべきでしょうか? 天運によって勝利したのであるから、天倫に従って、主体的な存在に帰すべきです。独自的立場では、勝利を収めることができません。歴史が流れ、時代が過ぎ去り、勝利の基盤が広がるようになるとき、世界は新しい栄光の世界へと移り変わっていくのです。こうした内容が宿っているということを知らなくてはなりません。何が必要ですって?(意欲です)。それから何が必要ですか?(勇気です)。それでこそ勝利するのです。

統一教会は、今日まで歩んできましたが、いまだに世界的舞台に向かって行くべき道が残っています。それで、先生は世界へと向かって行くのです。行くにおいては、誰にもへつらわず、負けないのです。また、問題を解決するための勇猛さは、誰にも負けず闘うにおいても、誰にも負けません。このような心を持って前進しなければ、世界的勝利は期待できません。現在いくら民族的に勝利したとしても、世界的な勝利の道は遠いのです。

統一教会が発展してきた段階を考えつつ、皆さん自身がどんな立場で若い時代を送るかを考えなければなりません。神様のみ旨を統一の理念圏内で生きてはいますが、常に先生が指向し、神様が指向する勝利の世界に向かうために自らの立場を批判することができなければなりません。そして批判することによって、自ら悲しみを感じる小心者となるのでなく、それを土台として発展することのできる大きな器とならなければなりません。

では、皆さんは今からどのようにするべきでしょうか? 天上世界が認める天の王子となり、王妃となり、栄光の天国を成すために、若い時代に十分な準備をしなくてはなりません。そうできる皆さんとならなければならないのです。分かりましたね?(二四\八四、三三\二七八)

皆さんは今、青少年です。ここで話をしている人間も、皆さんと同じくらいの年代には、どちらにしろ歴史の車輪を一度ひっくり返して越えるためには、歴史的なあらゆる苦痛だとか、悲しみだとか、悲哀の屈折を避けては通れないということを悟ったのです。民族を救うためには、民族的な患難、世界を救うためには世界的な患難が必ずあります。なぜならば、今の世界は善の世界ではなく、悪に始まり悪の目的世界を営んでいく歴史発展途上にあるからです。

多くの若者たちは、その胸の内に希望と抱負を抱いて走っています。また、同時に、新しいものや、よりよいものを自分のものにしようとする欲望は、誰もが持っています。新しくて、よりよいものを得るためには、人ができないよりよい面のことに反対となる与件を打破しなければなりません。そうぜずしては、新しいものやよいものが自分と関係を結びえないということを、歴史的事実において、あるいは現実の生活時点において見て、私たちはよくよく知ることができます。

それゆえ、こうした出発の道に立っている皆さん自身を立てておいて、もう一度誓う時が来ました。今、私はどこへ行くのか? どうしなければならないのか? 何のために、どうやって、どんな内容に向かって行くのか? こうした問題について考えるとき、いろいろな多くの問題があるでしょう。(一五四\一二)

人間のすべての運命は、一八`二四歳の間における姿勢(信念と方向)いかんによって左右されます。信念を持って生きる人の結果は、長い歳月を経てはじめて現れてくるでしょう。

信念のない人は、どんなにその人の現実が華やかであったとしても、途中で挫折するおそれが強いですが、信念がしっかりしている人は、進む路程が微々たるもので、困難であるとしても、最後まで貫くことができるのが特徴です。

知識を持った人も、信念を持った人にはかないません。それゆえ、聖書にも、心と思いと性稟を尽くせと書いてあるのであって、知識を尽くせとは書いてありません。

信念が立っている人は、多くの屈折や困難があるとしても、へこたれず、克服していきます。そうして、その結果は、より輝かしく現れるのです。

信念には、人間の信念のみならず、天宙的信念もあり、さらには神様の信念もあります。神様の信念と人間の信念が一つとなることを目標として、歴史を摂理してこられたのが、神様の役事なのですが、その方便として宗教が現れたのです。

神様の信念とは、必ず創造目的を達成しようとする信念であり、その内容は何よりも天を愛し、人間を愛し、全宇宙を愛せというものです。すなわち、天地人が愛を中心とした一つの世界を成すというのが、神様の創造の目的なのです。(一〇\一五)