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四 人間の特性

1 人間は貴い

万物世界のどこを見ても、必ず起源があります。起源がなくてはならないのです。では、その起源において人間が中心であったかという問題、そして私たちが見ている鉱物世界と植物世界のうちどちらが先かという問題も重要な問題です。「萬物之衆 唯人最貴」といわれますが、人間が最も貴いとはだれが言ったのでしょうか。万物のうちでただ人間だけが貴いという決定をだれがしたのでしょうか。それなら植物界を見るとき、個々の植物は貴くないということでしょうか。もちろん貴いですが、万物の中で最高の価値の内容を持っているのが人間なのです。では、その貴いというのは一人の人生についていうのでしょうか。それとも、私たちは先祖から血族を通して続いてきたその一人ですが、私たちの先祖たちも皆含まれるのでしょうか。また、これから生まれてくる子孫たちも含まれるのでしょうか。それをだれが決めたのでしょうか。だれが決めたのかという問題を考えるとき、その決めたこと自体を本当に信用できるのでしょうか。これが問題です。

それでは、「人間は貴い」「あの人は貴い人だ」というとき、それをだれが決めるのかというのです。この問題について考えるとき、私たち自身がそのように決めるのよりも、動機となるに足る、根源となるに足る中心者、ある主人がいて、その主人が決めたのなら認めることができます。しかし、自分が決めた、私たちが決めたと考えるなら、私たちというもの自体が今日自分の生活を中心に行くべき方向も知らない者ですし、今世の中に生きる人もそうではないですか? ただ動物のように生まれて生きて死ぬのが人生のすべてだ、このような立場の人間として自分自身が万物の中でいちばん貴い存在だと決めたとしたら、それ自体信じるに足りません。自分を信じられない、こんな立場に立っている自分を中心としてその自分が貴い立場にあるという決定をしたところで、それが全宇宙から認められた事実として普遍化できないということです。

それでは、だれが決めなければならないでしょうか。すべてを存在せしめる、ある原因的な存在が…。鉱物世界を見ると、無限な元素が互いに結ばれています。その鉱物世界の神秘的なすべての構造と形態というものは、でたらめに出来ているのではありません。必ずある方向性を中心としてその目的と価値を持っているのです。植物も同じですし、人間も同じです。すべてを存在せしめる一人の主人がいて、その主人から「お前は私がつくった万物の中でいちばん貴い」と言われれば、それは全体が認めることができます。そうなるには、自分自身が貴いと認めることのできる根本的な存在と関係がなくてはなりません。

では、「貴い」というとき、現在の立場をもって貴いというのか、自分が生まれて生きていく中で人生の目的を完成させる内容全体を中心として貴いというのでしょうか。いくら考えても、自分が生きている現在の立場、生活圏自体を中心として貴いと見ることはできないのです。「人間には、責任と目的完成の内容を中心とする貴い価値が与えられている」ということを考えないわけにはいきません。

そのような立場から見るとき、自分は何でしょうか。自分は何なのでしょうか。人間が貴いことを願う自分は何なのでしょうか。そう願うことが一つの根源となって、ある過程を経て目的地まで行った後でなければ、貴いという価値の決定は不可能なのです。その目的を達成する過程で「自分は貴い」というのですが、実際には、まだその位置に到達できずにいることを考えなくてはならないのです。だから「人間は完成しなければならない」というでしょう?(一三八\七一)

人間は何が貴いのですか? 立って歩くことですか? 熊の子でも立って歩くことはできます。人間の勝っているものは何ですか? 人間が勝っているのは、神様と愛し合う資格があることです。(一二七\二三)

人間が最も絶対的に知らなくてはならないのは何かというと、根源です。神様をはっきりと知り、自分の親をはっきりと知り、自分の夫をはっきりと知り、自分の子をはっきりと知り、自分の兄弟をはっきりと知ればよいのです。その次に、兄弟がこれから生きていける国をはっきりと知ったらすべて終わるのです。それが第一です。

どこかの大学を出て大学院に進んで博士になったと言いますが、博士など何になりますか? お母さんや妻・兄弟と換えることができますか? 親と換えることができますか? 最も貴いものを持っていながら、その貴さに気づかずにいる人のことを何といいますか? 愚か者、人でなしといいます。(一四七\二三一)

2 人間の本性

人間の本性は何を求めていますか? 貴いものを求めています。貴いものはどこで探さなければなりませんか? 変わる所から貴いものを見つけることはできません。変わるものは貴いものと関係がありません。従って貴いものというのは、変わらない所にあるもので、変わることのないものです。なぜそうなるのでしょうか。私たち人間の本性自体が変わることのないものだからです。

私たち人間の本性は絶対的に変わらない性質を持っており、その性質の指向する通りに絶対的に変わらない価値を求めていこうとするのです。ですから、人間はきょうよりも明日、明日よりもあさってにより価値あるよいものがあるという希望を持って生きています。「若いころは苦労しても、中年になったらきっと幸せになれるだろう」という希望を持って生きる人であればこそ生きがいを無理矢理にでもつくり出せるのであって、それすらなかったとしたらどうなりますか? それではいけないのです。(一四一\一三二)

神様を作家に、人間を作品に例えてみましょう。自分が何かを真心込めて作ったにもかかわらず思い通りにならなかったときは、気分が悪いものです。しかし、作ってみたところ、自分が考えていた以上のものになったとき、それを見て「おい、こいつ、なんで思ったよりいいものになったんだ?」と気分を悪くする人がいますか? そのようにうまく作られたものは、寝るときにも、また戦争で避難するときにも懐に入れて持ち歩き、どこに行こうと愛したいのが人間の本性です。(五三\二二六)

3 人間の精神力

人間の精神力がいかに偉大なものかを知らなければなりません。「ああ疲れた。八時間寝ないときつくてもう…」という思いをだれがさせているのですか? 取り去ってしまわなければなりません。人間は二十四時間働いても平気でいられるのです。ご飯は三食食べるものとだれが決めましたか? 一日一食でもいいでしょう。一食ずつ食べながら約四百日修練会をやれば、一食だけでも十分に普通の人の二倍働いてもびくともしない、むしろ前より健康な人をつくることができます。そう思いますか、思いませんか?

人は決意してこそ強い行動ができるのではないですか? 正しい思想的骨組みさえ入れてやれば、体は走っていくのです。(六五\三〇八)

4 人間の求めるもの

今、この地上に生きている人間たちを見ると、何か、より高いものを追い求めています。きょうもあしたも、自分の置かれている環境を超えて、より広範囲な環境で価値ある存在になることを望んでいます。(三八\七三)

現時点を中心として見るとき、人間や神様が望み、待ちこがれるものは何でしょうか? 何を追求するのかといえば、現実よりよくなることを望むという事実を私たちは否定することができません。これまでの時間よりもこれから訪れる時間がよりよくなることを願い、今の立場よりも今後の立場がよりよくなることを願っているのです。ここで信仰という問題が登場するわけです。(二七\九三)

人間が生まれたばかりのときは母乳しか知らなかったのが、成長するにつれて父母を知るようになり、次に自分を知るようになります。人間の心はいつも最高の基準まで上ろうとします。いったいどこまで行ったら「これ以上は必要ない」と言うのでしょうか?(一三\八六)

人がよい人と出会いたいと思うのは、よりよい人を通して神様と出会うためであり、よりよいものを求めるのも、結局、神様と出会うためです。ですから、神様の前に進み出ることのできる道を見つけることは喜びなのです。(一三\九五)

人間にいちばん問題になるのは、人間が追求する最高の中心、すなわち絶対者と一つになることです。絶対と相対という言葉を追求していくのにおいて、人間は相対的基準を越えて絶対者と一つにならなければならないのです。そうしてはじめて上下関係が成立するのです。人間は、このように上下関係の立場まで進まなければならないのです。(二九\一二七)

人間たちはどこに行きたがるかというと、よい所へ行きたがります。学生なら学校へ行きたがるでしょう? なぜ学校へ行こうとするのですか? 高くなりたいからです。高くなって何をしようというのですか? よりよくなるためです。

ではよくなったらどうなりますか? つまり、どんどん広くなって高くなったら、どこまで上って行きますか? 人間世界を越えて天の頂上、神様がおられる所まで上って行くのです。ずっと上って行けたらいいでしょう? 人の欲望は限界がありません。こういうことが問題になるのです。

人の欲望の限界点はどこですか? その目的地はどこですか? これが問題です。すべてを所有したいし、どんどん上って行きたいし、よいものは全部自分のものにしたいと思うのです。世界までも自分のものにしたいと思うのです。そうでしょう?(四一\二六八)

人間はだれでも尊敬されることを望んでいます。また、多くの人の中で自分が中心になることを望んでいます。つまり、中心的な立場で指導したいと思う心をだれもが持っているということです。(二四\二九〇)

5 人間が好きなもの

人はだれが見ても分かるものを好みますか、見ても分からないものを好みますか? 人は神秘的なものを好みます。皆さん、そういうものが好きではないですか? 神秘的なものは表に現れません。功名に隠されたいちばん重要な本宮に入って行き、その中の部屋まで錠でがっちり閉ざされた所にある宝物、そういうものがあればもっと神秘的です。人はより神秘的なものを欲しがります。外的にはより大きなものを求める反面、内的にはより神秘的なものを求めるのです。(一三八\一五八)

それでは、ここで高いものが中心ですか、低いものが中心ですか? どちらですか? 人は高いものを好むでしょう? 深い所があって高い所が始まりますか、高い所があって深い所、低い所が始まりますか? 人は深い谷が好きですか、高い山の頂上が好きですか? どちらが好きですか?(高いほうです)。

なぜ深い所は嫌いなのですか? どうして? 高い所に上れば上るほど多様な世界と関係を結ぶことができます。高い所に上れば、すべてが目に見えるのですべてを相手にできます。しかし深い所に行くと、たくさんあったものがだんだんなくなってしまうのです。皆さん、分かりますか? 見えていたものがだんだん切り取られていくのです。だれもが高い所を好むのはなぜですか? 高い所では多様な世界と関係を結んで、自分が主体的な立場で全体を観察できるからです。深い所ではその反対になるわけです。

人はなぜ高い所が好きなのですか? 多様なものと因縁を結ぶことができるので高い所が好きなのです。なぜ低い所は嫌いなのですか? 単純になるからです。多様な関係から遠ざかるということです。最も貴い人は、高い理想、高い考え方、高いものと関係を結ぼうとする人です。そういう人が貴い人だという概念をここから導き出すことができます。

そのような観点から見るとき、精神的姿勢の高い人が貴い人だということです。体は同じでも精神的姿勢の低い人は卑しい人です。霊的な基準で生活する人が高い人で、肉的基準で生活する人が低い人です。このように分けることができます。(一二九\三〇八)

皆さん、木を見るとき、「われわれは緑のほうがいいけれども、その木自体は毎日のように緑色をしているのだから飽き飽きするだろうに」と考えたことがありますか? 黄色い色、赤い色に一度なってみたいと思うでしょうか? ですから生きること自体が自分のためではなく、あらゆる自然のために生きるものなのです。

では、緑色なのはなぜでしょうか。皆さん、このように暑いときに、緑色でなく赤い色だったらどうでしょうか。しかもそれがまだら模様だと考えてみてください。どんなに刺激が強くてうっとうしいでしょうか。

空、海、草は皆青いのですが、どうでしょうか。うんざりするでしょうか。私の好きな黄色だとしたらどうですか? また、ほかの色だったらすぐに飽きてしまうでしょう。ところが、青や緑は慰労の色なのです、慰労の色。

では人はなぜ緑が好きなのでしょうか? なぜ人は緑が好きですか? この存在世界はグリーン(緑)と調和するようになっています。ですから土にはグリーンの色素が多いと見るのです。土は主にグリーンの色素なはずです。だからその土からつくられた私たち自身はグリーンを好む、そのように理論的なのです。そう考えることができます。神様もそれを知っておられたので、空も海も青や緑に…。すべて人間を中心にこのグリーンと調和するようにつくったのです。なんと素晴らしいことでしょうか。(一一九\一六九)

6 人間の特徴

人間は考える動物なので、考えてみて自分が損をすることは絶対にしません。よく比べてみて、自分に利益にならなければ絶対に行動しません。利益になれば行動するのです。皆さんもそうではないですか?(一九\三四)

皆さん、成功することを願う人、手を挙げてみてください。では失敗することを願う人、手を挙げてください。そんな人は罰が当たります。どんなにしとやかな娘でも、聞くまでもありません。本当に成功する道があるものなら、手だけでなく足まで挙げたくなるはずです。だれであれ、滅びたいと思う人はいません。皆さん、優秀な男になりたいでしょう? では、何からうまくいくことを願いますか? 自分の友達の間でまずうまくいくことを願うのです。(三二\二五八)

人は現実の中で生きていますが、未来への夢を持っています。ほかの動物と違って人間は未来に対する夢を持たなければならないことを知っています。夢というのはどんなものですか? 夢というのはただただ高く、ひたすら高いものであり、ただただよく、ひたすらよいものです。これが夢というものです。夢を持っているというとき、あしたに向かって、あるいは未来に向かってただひたすら悪い夢を抱いている人はいません。そんなものは夢ではありません。ですから一般的にいうと、夢というものはただひたすらよく、ただひたすらうれしいものです。それはどういうことかというと、発展を意味し、栄えることを意味します。(一七一\四一)

人間をよく見ていると、実におかしな存在です。一度悪くなりだしたら限りなく悪くなり、一度よくなりだしたら限りなくよくなるのを見かけます。また、極から極に連絡することができ、極から極に飛び越えることのできる存在がまさしく人間です。(一八\三一七)