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一 時の区分と時の意味
1 年代区分と解説
きょう七月七日の七・七数は第二次七年路程に匹敵します。
皆さんは原理で習いましたが、二十一数がなければなりません。万物でいえば二十一年です。
アダムから二千年、アブラハムから二千年を過ぎて、イエス様によって完成的基盤を収めようとしました。
その後二千年が延長された歴史でした。その後の二千年は、歴史を経て再度整備しなければならない意義があります。
韓国は二千年になれば大きな変動が起こります。この二千年を中心にして六十年、四十年、二十年の歴史を置いて蕩減してきています。
一九六〇年という年は、二千年のまとめをして四十年を出発する年でした。先生を中心にして見ると、二十年間ずつ復帰してきたのです。
一九二〇年から一九八〇年まで六十年。
一九四〇年から一九八〇年まで四十年。
一九六〇年から一九八〇年まで二十年。
一九四〇年から二〇〇〇年まで六十年。
これは歴史を見るとき、再蕩減期間です。
この二十年間に二千年、二千年、二千年、都合六千年間を蕩減しなければなりません。
一次七年路程はアブラハムの蕩減。
二次七年路程はイエス様の蕩減。
三次七年路程は完成蕩減を意味する。
私たち統一教会で見ると三段階に分けることができます。
アブラハム以前の時代は摂理以前の時代で、それと同じく、私たち統一教会にも準備時代がありました。その次に総蕩減時代がありました。摂理完成時代にイエス様が来て摂理するのと同じく、統一教会もそうでした。
それが旧約時代、新約時代、成約時代に匹敵します。これはまた一次、二次、三次路程に各々匹敵するのです。皆さんが知っているとおり、第二次時代はキリスト教蕩減時代でした。これが歴史的な蕩減路程です。
ユダヤ教はキリスト教を宗教として認めませんでした。それでキリスト教は傍系民族を中心にして発展しながら、キリスト教の信徒は異邦人としての扱いを受けました。イスラエルの歴史は排撃を受けながら神様の圏を拡大させてきました。その時はイスラエルの人が一番だったのです。しかし実際はイスラエルの人が一番なのではなく、彼らが対している神様のみ旨が第一でした。同様にキリスト教でも神様のみ旨が第一でした。そういう伝統的思想を知らずにいてはいけません。
イスラエル民族が自分たちを愛して神様のみ旨を忘れ、キリスト教がキリスト教の文化を打ち出して神様のみ旨を忘れました。
これから私たち統一教会にあっても、新しい文化と向かい合うのではなく、この文化を起こした神様と向かい合わなければなりません。
文化の基盤や国家の基盤は変わっても、神様は変わりません。
キリスト教が神様のみ旨を忘れたため、キリスト教が衰えているのです。
統一教会の運動は、蘇生旧約、長成新約、こうして完成時代は成約時代に匹敵します。それが六千年歴史をもっています。それを六十年間に短縮しなければなりません。
それを先生を中心にして見て、一九四〇年を起点と見るとき、二〇〇〇年まで六十年間、一九二〇年から一九八〇年まで見ると、ここで二十年の差がでます。一九二〇年から一九八〇年まで六十年間は蕩減期間に該当します。
最後の三段階が全体の歴史を総蕩減します。これが一次、二次、三次にわたる七年路程です。
一九八〇年から二〇〇〇年は、歴史時代のすべてのものを総蕩減するエデン復帰時代に入ります。すなわち神様のみ旨を成すようになります。一つの国をもって出発しなければなりません。その時になれば、共産党も私たちを慕わなければなりません。民主世界も解体段階に入ってきて、私たちだけが残るようになるのです。
一九八〇年まで世界的なすべてのものを蕩減しておかなければなりません。
一九六〇年から一九八〇年までの二十年間、なぜこのように急変するのか知らなければなりません。それが誰のゆえですか? それは私たちのゆえです。私たちは地の底から天まで、道を築かなければなりません。それは地獄から天国まで、道を築かなければならないということを意味します。それは、これまでの歴史にないことでした。
この二十年間に再び復活させなければなりません。ですから霊的世界の解放運動、地上世界の現在を解放しなければなりません。過去を解放し、現在を解放しなければなりません。解放して新しい世界運動をするのです。一九八〇年から二〇〇〇年まで、二十年間に世界的文化圏を形成しなければなりません。
一九二〇年から二〇〇〇年までの八十年間に、この世界を新しい世界につくらなければなりません。
モーセの八十年と同様に、この八十年を通して地上楽園をつくらなければなりません。七数を越えて八数の世界に入ります。(一九七四・七・七、ベルベディア修練所、「会報」六九―二)
2 先生の在世時の価値
幸福は他の場所にあるのではありません。未来にはないのです。幸福は父母を交えて兄弟と一緒に国を探し、世界を探すことのできる時が最大の幸福点です。幸福の極致です。父母を失い、親戚を失い、氏族を失ってどれほど成功したとしても、それは幸福ではありません。私が愛する父母と一緒に、愛する子女と一緒に、愛する妻子と一緒に、氏族と人類と天と一緒にいるのが個人の幸福ではないでしょうか。その幸福の極致というものがこの時しかないのです。先生が行ったのちには永久にないのです。(一九七一・一一・二六)
先生の一生というものは、一番貴いのです。皆さんの前にあっては二度とない時なのです。それで、先生に会う時にはみ旨を中心にして大騒ぎしていたのに、何年もしないうちに「何がみ旨だ、私が楽をしなければ」。これは、約婚者が他の人を中心にして結婚するというのと同じです。皆さんが死んだのちには、その死体が讒訴するのです。「こいつの肉の塊が何になるか」というのです。
若い人たちはもっと活動しなければなりません! 三千万民族を代表する若い人たちが今腐っていくのに、もっと活動しなければなりません! 皆さんがみ旨を通して感じたその心情を……。皆さん、そうではありませんか? 学校に通う学生たちも、統一教会に入れば家より教会に先に寄りたいと……。それはすべて皆さんが体験したことです。なぜそうなのかというと、六千年目にして初めて春の陽気を迎えることのできる一時、数千年の運勢圏の中に巻き込まれて入ってくるからです。何年そこそこの運勢ではありません。数千年の運勢です。数千年の運勢に乗れる一時ですからそうなるのです。その心情は至極貴重なものです。この時を蹂躙するようになる時、歴史を蹂躙するのです。天倫を蹂躙するのです。(一九七一・一一・二六)
何千年にもなれば運に乗ってそういうことがあるのです。そういうことはしっかりと保管しなければなりません。いつ先生が自分を教えてくれることがあるか、考えてみなさい。自分の先祖たちにそういうことがあり得ますか? この時代に、この短い私たちのような生活圏内で接触できたという事実は奇跡です。皆さんの氏族を中心にして大きい奇跡を起こして奇跡の恩徳を迎え入れる人が誰かというと、統一教会に加入した最近の人たちです。これは前にもなかったし、のちにもないのです。他のものは滅びてもこれだけは残るのです。(一九七一・一一・二六)
皆さんの一家が、一族が、あるいは一国民がどれほど多いとしても、個人的に成就できる時は、歴史上に他の時はないのです。統一教会が教えてくれた教理が事実ならば、この時しかないのです。(一九七一・一一・二六)
ですから先生がこの地に生きている間、在世の時に世界的な政治的機構だとか国家的な機構だとか国家的な伝統だとか、すべてのものをつくっておかなければならない大変な内容をもっています。これを皆さんができないならば、大韓民国の国民たちはとても苦労するのです。そういうことを位置を決定して、そういう行いをわきまえておくために、今まで働いていることに皆さんが歩調を合わせたという事実は、その歴史が称賛できることだというのです。(一九七一・一一・二六)
真の父母に侍ることができる幸福な一日をもったという事実、それ以外には何もないではないですか。これは事実だというのです。言葉のとおり事実がそうだとするなら、どれほど手を挙げて称賛しなければならないでしょうか。考えてみなさい! 霊界で、事実それが確実にそうだと知るようになるとき、霊界の霊人たちがそれを眺めれば、どれほど喜びを表現するか考えてみなさい。最高のものが結実された場です。最高のものが復活できる核心です。(一九七一・一一・二六)
み旨と先生というものは、いつでもあるものではないのです。(一九七一・一一・二六)
こういう問題を見るとき、この時がどれほど恐ろしく、どれほど貴重な時間なのかということを皆さんは知らなければなりません。(一九七一・一一・二六)
皆さんのこの場というものは、世界に一つしかない場です。(一九七一・一一・二六)
こういう意味で、統一教会では事実踊らなければならないのです。(一九七一・一一・二六)
先生を中心にして見るとき、生涯は長くありません。しかし天宙的なみ旨を抱いた内縁があるので貴重なのです。その一人の生涯を中心にして歴史が帰結されたのです。その一つが分水嶺になって、それを中心にして踏んで越えていくことができればいいけれども、越えられなければ永遠に行く道がないのです。未来の望みの実体として追求していく時代になる驚くべき一時、その無限な願いがわき出る所、永遠なる神様が保障してくれるその位置、その時が一番重要な時期なのです。(一九七一・一一・二六)
その時代がどの時ですか? 今日私たちが生きているこの時だけがそういう時だということを考えるとき、一年が過ぎることがどれほど惜しく悲痛であるか、私自ら決意できて、死をかけて決意することができる生活をしなければならないのが現在統一教団に立っている集団ではないかと思います。もしこの時を取り逃がすようになると、皆さんの一族、一派に再びあり得ない時であるのです。(一九七一・一〇・九)
この時こそ、一番重要な事項を決定できる時であるということを知らなければなりません。それこそ私たちは、神様の前にあっての相対的な解決点を提示しなければならない時が来ました。神様の願いを成就し解決できる重要な時、私たちが現在立っているこの時こそ、歴史始まって以来一番息詰まる時です。(一九七二・一一・九)
現在私たちが処しているこの位置と、私たちが当面しているこの時は、偉大で歴史的な時点に処しているということを知らなければなりません。(一九七四・九・八)
もし時を逃せば何千倍の力をかけてもできないのです。時を逃してしまえば仕方がないのです。この時が過ぎれば一つの国がすることを十国、百国がするといっても仕方がないのです。もし皆さんができないならば、皆さんの後孫が何倍もの難しい代価を払わなければならないということを知らなければなりません。この時が、どれほど迎え難い時なのかを知らなければなりません。(一九七八・四・二)
私たちはその時間を、その時を逃してはいけません。それで私たちは深刻なのです。この時を合わせる日には、神様の愛が私たちに探し出されるのです。
この時が、どれほど迎えることが難しい時なのかを知らなければなりません。ある計画があって、あの千里の道からねらいをつけて合わせてきています。ボタンを押すために数多くの国が犠牲になり、数多くの宗教が犠牲になりました。大変な代価を払いました。
しかし今までそのボタンを押せませんでした。今日統一教会の時代に来て、皆さんの精誠のこもったか弱い手を通してこの時代を編んでいるという事実を知らなければなりません。ですから霊界にいるすべての霊人たちはどれほど深刻であり、神様はどれほど深刻でしょうか? (一九七八・四・二)
皆さんは運勢が良いからなのか、あるいは良い星のもとに生まれたからなのか、時代的な恵沢を受けて良い時代に生まれました。鞭を受けても直接受け、賞を受けても直接受け、言葉を聞いても直接聞き、叱りを直接受けることのできる時に生まれました。(一九六〇・一二・一一)
昔、預言者、聖人たちは数千年、数万年、いつこういうことがあるか分からなくても信じて死の道を行ったけれども、今日私たちが、目の前に可能な事実を置いても行けないならば……。(一九七六・一・一)
3 今日の時の意味
責任者は今の時がどういう時なのかということを知らなければなりません。その次には、この時に私たちが何をどのようにしなければならないのかという、その使命を知らなければなりません。皆さんの責任を果たすにあたって、盲目的にするのではありません。目的意識が徹底していなければなりません。また、目的意識がどれほど徹底しているといっても、先生が「こちらに行こう」と言えば、それに対して皆さんは反対をしてはいけません。(二四―二二七)
さあ、今の時はどういう時なのかというと、世界的に外的なことと内的なことが完全に分けられる時であり、内的なことと外的なことが完全にぶつかって生死を決定する時であり、民主世界と共産世界、唯物思想と唯心思想が闘争する時だというのです。それで世の中に従っていけば、サタン世界にしきりに引っ張られて入っていくのです。世の中を否定し、宗教に深く入っていけば、天の側へしきりに入っていくのです。(一〇二―二三一)
イエス時代は縦的時代なのです。今、先生の時は横的時代です。この新しい時代を迎えることは易しいですか? ですから横的に七年以上祈らなければならないのです。今までは二十年以上努力して初めて霊界のイエス様に会って祈りましたが、それは不可避的なことです。最近は原理のみ言を聞いて、みな「ああ、真の父母様のために……」このように直ちに、一週間以内に心情圏に入っていくというのです。原理のみ言を聞いて、自分が真の父母の真の子女にならなければならないということを知るようになれば、直ちに入るのです。それがどれほど近いですか? 真の父母がどれほど近いのかを知らなければなりません。(一三一―一五八)
時はだんだん最後の解決点に向かって流れています。歴史も流れているし、宗教も流れているし、主義も流れています。こういう問題を解決しようとするので、ここも戦いであり、あそこも戦いであり、ここでも嘆き、あそこでも嘆いています。
こういう混乱期に、信じようとしても信じられないし、収拾しようとしても収拾できない時にエリヤが現れて、新しい心情の一端を吐露したのと同様に、歴史で探し出すことができなかった天の心情を吐露する新しい声はないのか? 皆さんはそういう考えをしなければならないのです。(六―三五)
今の時はどういう時か? 最後の時です。そうであるほどに、すべてが渾沌状態にあって自分を収拾できない断末魔的な時代に臨んでいます。ここに神様がいるならば、神様が対処できるものは、これをどうやって再び救ってあげるのかということです。(一二六―一一二)
今や私たちの時は来ました。神様が願った一時を迎えたというのです。歴史時代の数多い人類が、あるいは数多くの預言者たちが血の道を選んで行きながら築いてきた望みの一時代、願ってきたその時代が私たちの目前に到達したのです。それが私たちの時代にかかっているのです。
それが今どのようになっているのかというと、大きな魚の前に餌になって、おいしいにおいを漂わせて、しっぽを振りながらぐるぐる回っている気分だというのです。その餌を先生が握って座っていて、魚が食いついたら引っ張るのです。そういう気分です。(笑い) ですからいつ「疲れた」と言うことができ、ぐずぐずして何のつまらない考えをする時間があるのですか? 「ああ、私は一週間断食をしたので魚よ、食いつくなら食いつき、そうでないなら食いつくな」、そう言いますか? そういうことが起これば、精神がぱっと気づくのです。骨が溶ける恨みがあるとしても、これはおもしろいのです。(四〇―二二)
無限の動力を中心にした物質文明時代が来ています。一番最初人間には生食時代があり、その次には火食時代を経、次には水食時代、すなわち水の栄養を取る時が来るというのです。これからは科学的食糧で私たちの健康を十分に保持できる時代がやって来るのです。私たち人間の努力が必要な時代は乗り越えるというのです。(四―二〇)
み旨の道を行こうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか? み旨の道を行こうとするなら、摂理の道を行くのに……。(黒板に書きながら話される)み旨の道を見るならば、物権が取り扱われる物権時代があります。その次にここは人権時代、その次には神権時代、その次には愛権時代、このような時代があります。
さあ、それでこの摂理の過去、復帰の道をずっと見るならば、今まで聖書の歴史を見ると、物権時代は何の時代ですか? 祭物時代です。オファリング(offering)というものは摂理的なものです。復帰というそういう過程で必要なものであって、み旨の世界では必要ないというのです。
物権時代は何かというと、祭物時代です。人権時代は何かというと、犠牲奉仕時代です。神権時代は許しの時代です。その次は何かというと、愛権理想時代です。この理想を願うのです。ここで、最初のこれは何の時代かというと旧約時代です。これは新約時代、これは成約時代です。皆さんがみ旨の道を成就するためのこの歴史的過程を全部このように集約させることができると見るのです。(一一八―一六七)
今、誰が、地区長がどうで、地域長がどうで、勝共連合の誰がどうで、誰がどうでという、そういうことを言っている時ではありません。私たちは一貫的に団結して、国家が要求する方向と目標をもって、これから韓民族が主導権をもてる、思想的基礎を立てることができる、この挙国的な責任を果たさなければなりません。今後は皆さんがこのような活動をしなければならない時が来たことを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。(六七―三〇三)
時を逃さないで、時を失わないで、事を奪われるなというのです。それを失わない方法は、今先生が話した二つしかないのです。うとましい人間にならないで人を愛する人になり……。その二つだけするなら、それを絶対失わないのです。それだけパスすればいいのです。それしかないのです。私が調べたから、それしかないのです。(九四―一四三)
目的地に近くなるとそれだけ「ハア、ハア、ハア」といって死ぬくらい苦しくなるのです。神様が皆さんならば、一番苦しい道、サタンもついてこれず悪い人も誰もついてこれない谷間に行くのです。これだけは間違いないのです。それで自分が英雄になるのだと欲心をもった人は、みな落ちるのです。欲心をもった人は落ちるのです。分かりますか? (九四―二四)