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三 講師が備えるべき姿勢

1 原理を活用する講義法と講義する者の姿勢

 皆さんは今度帰ったならば、時間を最大限度に活用して、計画を立てて、部落なら部落、面なら面の重要な所から活動することをお願いします。十個の面に行ったとしても同じ話をしてはなりません。原理講義を創造原理、二性性相から始めたならば、次には逆に二性性相が結果になるように講義しなければなりません。

 授受作用を中心としても、二性性相を引っ張り出して講義することができます。また、三対象目的を中心としても、主体と対象を中心として二性性相を講義することができます。このように多角的な面で講義できなくてはなりません。創造原理ならば創造原理の一タイトルをもってしても、全体を活用することができなければなりません。このような訓練が必要です。そのようにすることによって、講義を聞く人には新しいことを与えることができ、自分自身にはそれだけ多角的な面から原理講義を応用することができる活用力が得られるのです。

 そのようにすることによって、自分の前後、左右、上下関係が高く、深く、広くなる時に、満足感を感じるようになります。原理講義を一度より二度、二度より十度、十度より百度すれば、講義する回数に比例して痛快さを感じるようになります。また、原理のどんな部分をもってしても、どんな誰とでも対決することができる実力を備えるようになることを知るようになれば、誰でも喜ばざるを得ないのです。このような活動の結果を通して自分の実力が増進する喜びを感ずることができないので、活動したい意欲を失ってしまうのです。それゆえに、郡ならば郡と、ある対象地を選んで、計画を立てて実践するにあたって、自分の実力を増進させ、養うという立場から努力するならば、皆さんは無限に発展するのです。(二九―一八九)

 復帰歴史は再創造歴史であり、再創造するためのものが原理なのですが、原理だけをもって創造ができるのでしょうか? できますか、できませんか? (できません)。原理だけをもってできますか、できませんか? (できません)。できないのです。再創造しようとするならば、どのようにしなければならないのでしょうか? 神様のみ言を通して、相手方へ及ぼすことのできる動機や過程の因縁を結ばずしては、実体的な再創造は不可能です。何の話か分かるでしょう? 神様が天地創造をする時、原理を中心として神様が心情の主体になって、原理と一つになり、対象を造っておいた、ということではないでしょうか? そうでしょう? ですから、私自身が余裕がなくてはなりません。講義する時、原理全体の骨子を考えることにすべての神経を傾け、頭を使ってするのはいけません。自分の心に神様をお迎えして、神様が臨在し、自分と一つになることのできる心的余裕の底辺がなくてはなりません。

 それがなくなれば、神様がどうやって活動するのでしょうか? そうしないで講義の骨子が頭にしっかりととらえられるでしょうか? そうしてはいけないのです。ですから、講義をするときは、必ずそのことを自動的にすべて知っているという立場から心の余裕をもって、「神様が何を願っていらっしゃるか? こんなみ言を中心として考えてみるとき、神様がどんなに御苦労されたか?」ということを感じて、心情が誘発され得るように相対の立場に立って、心で神様と授け受けすることができる相対的な基準をつくらなければなりません。分かりますか?

 それだけでなく、神様と一つになると同時に、相対が神様のみ言と、主体的な神様の能力と、私と一つになり、再創造されることを感じなければなりません。必ず、新しく改造されなければなりません。改造を原理がしますか? 神様が改造してくれるのです。そうでしょう? 皆さんが神様の前に心情的相対になるならば、神様の力がそこに共にあり、対象を動かすことができるのです。原理がそうです。主体と対象が授け受けするならば、繁殖が起こるでしょう?

 そうすれば必ず、ばったりと倒れるようになっているのです。これが原理を活用する講義法なのですが、そんな講義法を活用した人は手を挙げてみなさい。いませんね、いません! そこに発展があれば偽物です。統一教会の原理が偽物です。何を言っているか、分かりますか? (はい)。

 再創造歴史ですから、神様が主体になり、私が協助的な足場になり、授け受けする力があってこそ、繁殖的な第三対象が復帰されるのではないのですか。再創造がそれです。それが原理観なのです。そしてそれが原理講義をする人として、備えなければならない姿勢です。ですから、原理を完全に知らずしては、そのように相対的な影響を及ぼすことができる自分の心的基盤を断定することはできません。それをはっきりと知らなくてはならないのです。分かりますか? (はい)。それゆえに、祈祷をしなければなりません。祈祷をしなければならないのです。「父よ、きょうはこんな題目で講義をします」と言うのです。祈祷の中で講義をしながら、神様がこのような心情をもったということを感じなければなりません。

 神様と相談しながら講義をするのです。「あなたがこのみ言を中心として、あなたが必要とする相対としてきょう復活させる人は誰ですか? あなたが願い、あなたが待ち焦がれる人がいるならば、私がもっている力を尽くしてその人を逃しはしません」。このように祈祷しなければなりません。分かりますか? (はい)。これはただ、「私がするやり方のとおりに、いつでも講義をするでしょう?」と思うのですが、それは伝えることはできますが、人の生命を復活させることはできません。絶対生命を蘇生させることはできません。分かりますか? (はい)。

 それゆえに、先生もそうです。講義をする時必ず神様を中心として、影響を及ぼすことのできる立場からするのです。必ず神様を通して……。そういった環境的な心情の根の基準が……。それが原理観でしょう? このように見ても正しいし、あのように見ても正しい、それが創造原理なのです。再創造歴史として復帰をするのではないのですか。神様を除いて再創造ができますか? (録音がしばし切れる)

 今、先生が話したように、神様を動機として講義するようになれば、難しいことはないのです。講義をする時間ほどおもしろいものはありません。死んでいた生命が一瞬に復活するのです。分かりますか? 間違いなく復活します。ですから講義以上におもしろいものはありません。環境が擁護し、神様が歓迎する中で、神様が保護する席で生命が育つのです。ところが、あなた方は大概みないろいろ……。神様の前に悔い改めなければなりません。「私の力が足りないのは、準備が足りないからです。準備が足りないのは、努力が足りないことだと哀惜します」と言わなければなりません。涙を流しながら、「父よ、この罪人がいで立ちました」と言い、さっと出かけていき、最初の言葉で口を開くようになれば、神様は共に働かれるのです。

 さあ、それでは皆さん、今までどんな意識的なことをしましたか? 原理に立脚した立場で講義しましたか? どんなことをしたのか、考えてみなさい。原理に立脚したことをしましたか、立脚しないことをしましたか? 原理に立脚したことは神様が共になされるのです。皆さんもそうなのです。公判廷に出ていく気分なのです。何の話か分かりますか。先生もそうなのです。今でもそうなのです。その時間というのは……。もちろんみんな分かっていますね。どんな話をすることもみな知っていて、どこへ出かけていっても、何時間でも話すことができるでしょう? しかしながらこの時間、神様が一番必要としている言葉を話すようにしてくださいと、祈祷するのです。そのようにして講義するならば、初めて来てみ言を聞いた人は、どうすればあのように私が願っていた言葉を話してくれるのだろうかと思うのです。み意がある人には、夢の中でみな見せてくれるのです。そうすれば、どうして夢と全く同じ話をするのかということが起こります。そんなことばかりを体験するならば、一度に完全に生命をささげ、この道を行くことを決定するのです。そんなことが起こるのです。分かりますか?

 今、霊界を動員できなければ、皆さんから発展を期待することはできません。明き盲になって、がりがりにやせこけて、砂漠のようなのに、伝道するならば、できるのですか? 原理が創造することができますか? 創造しますか、皆さん、原理に従わなければなりません。先ほども話しましたが、神様が皆さんに従っていくことはできないのです。神様があなた方に従っていけるとするならば、復帰は既に終わっているのです。分かりますか。神様が救済摂理をするにあたっては、神様に従っていける道を教えてあげて、皆さんが神様に従っていくようになっているのであって、神様が皆さんに従っていかないようになっています、そうでしょう?

 イエス様が皆さんに従っていかないようになっているのです。皆さんがイエス様に従っていかなければなりません。先生が皆さんに従っていかないようになっているのです。皆さんが先生に従っていかなければなりません。先生は皆さんの前で相談もしないのです。相談をしないようになっているのです。「私たちが討論して民主主義式に挙手制度で、みんなやりましょう」としてはいけないのです。そのようにして、それが天国に通じるのですか? とんでもありません。それならば民主主義式に神様を除かなければなりませんか? そのようにするようになってはいないのです。

 原理に従わなければならず、神様に従わなければならず、先生に従わなければなりません。そうでなければ、みんな異端者です。講義する者の姿勢について、分かりましたか? (はい)。皆さんのひざにたこが(めり込むほど)できなくてはならないのです。先生が教会を始める時、そうだったのです。今もここを見れば、たこがあるのです。祈祷をしないでできると思いますか? ひざすべてに、たこがめり込むほどできたのです。このみ旨を責任もって出て立つようになる時は、事実忙しくて祈祷する時間がないのです。今も時間をとって祈祷しますけれども、昔のような祈祷はしません。最初は時間がないので……。イエス様も夜を徹して祈祷したでしょう? そうでしょう? 霊界を動員しなければ駄目なのです。皆さんがそんな心情に徹していれば、神様が役事するのです。一言言うなら、言ったとおりになるのです。このような驚くべき基盤が一皮だけむけば開くのに、それを知らずに皆さんが今まで……。それを知ったならば、太陽の光が来れないようにしますか? これをはっきりと知らなければなりません。分かりますか? (はい)。講師、講義する者の姿勢が分かりましたか? (はい)。(六八―九七)

2 神様が共になされるという信念をもちなさい

 皆さんは、壇上に出るようになる時、一人でいると考えてはいけないのです。鉄の柱のようなものが私に刺さったと考えなければなりません。天からこのように刺されたものがあったというのです。誰か、四方から押しても押し尽くすことができない信念をもたなければなりません。そうではありませんか。戦いは、力が強ければ勝つのです。それと同じです。霊的なので、霊的な力の母体がなくしては、勝つことはできないのです。(六六―二一六)

 皆さんも、そのように知って壇上に立つ時は、「私が壇上に立つのは、神様と一緒だ」という生活哲学がなくてはなりません。神様と共に、神様が一緒に生きたいという場所で、聖人を代表する、王様を代表する、国民を代表するという立場に立って、宣言する教育をしなければなりません。

 私を模範としなさい。何をですか? 知識ではありません。国と共に、聖人の道理と天理と共に、一緒に生きたいという情緒的基盤の上で……。そこでは、いろいろな方向性が必要なのです。経済、哲学、科学のような専門分野が必要です。安息の場の基盤にならないのなら……。砂漠のような所では水があるはずがなく、水がない所では草木が育つことができません。(一四八―二七七)

 皆さんが初めて壇上に立つ時、その壇上に立つまでには気を揉むような気持ちを感じたことでしょう? またある時は、じっと耐え忍ぶこともすることでしょう? それゆえ、その立場が公的な立場である時は、その背後にいらっしゃる神様はどんなに心を揉んでいらっしゃることかを考えなければなりません。神様はどんなに心を揉んでいらっしゃるかを考え、自分の不足さを感じるようになればなるほど、神様のもどかしがっていらっしゃる心情に触れるようにしなければなりません。そのようにして、悲惨でかわいそうな立場にいらっしゃる神様を感じるようになるときに、その立場にいる聴衆をとらえることができます。その立場がどれだけ大きいとしても、神様に同情し、神様を中心として、悲しんだり感激したりする心を爆発させる内容を説教するならば、聴衆の心をとらえることができるのです。(四二―七八)

3 相対の関心を呼び起こしなさい

 講義する時は、参加している人たちがキリスト教徒であるならば、その人たちが聖書に対してどんな疑いをもっているかを、すべて知らなければならないのです。伝統主義のキリスト教徒たちについては、「私はイエス様が神様だということをいくら信じようとしても、信じられなかった」と言いながらです……。「そして聖書にイエス様が十字架で亡くなられようとした時、『ああ、父よ、できるならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』と言ったのですが、イエス様が神様ならば、どうしてそんなことがあり得るだろうか。そしてイエス様が三日間死んだのですが、神様ならばどうしてこんなことをするのだろうか。そのような問題を考えても、信じられなくて悩み、悩んできました。ところで、ここ、この統一教会のみ言を聞いて、すべてのことをはっきり知るようになった」と言って、とても痛快な話をするのです。

 そのようにして、関心を、好奇心を呼び起こさせるのです。それゆえに、とても理解が難しいならば、見捨てようとするまでしたと言うことができるのです。そのように話してみると、何のことだか分からなくて、こんなことを言っているのかと、ただ目をこのように開けて見るのです。

 入っていけばいくほど、すべてのことがみんな自分たちの現在の心理状態と全く同じ立場を経てきたので、彼らが疑っていることを既に、みな解いてあげながら、証を兼ねてこのように講義をしていかなければなりません。原理を講義する時、結局はどんなことかと言ってみれば、「これこれによってこのようになり、このような観点から見る時、堕落はこんな愛の問題でなければ駄目である」。このように帰納的な方法を通して、演繹的な結果を出すことが必要なのです。牧師たちが悩むこととは何かというのです。もし牧師が来たなら、牧師の立場から話をするのです。信者たちを伝道しようとするならば、これこれの難問題があるので、これを壊してあげなければならなく……。そんな話をずーっとしていくのです。もちろん、自分たちの悩みにぴったり合っています。

 ですから、その人たちの心理、今現在感じている気分を「禿鷲のひなたち」のように感じるのではなく、その人の立場がどんなであるかを感じなさい。私もずっとそんな体験をしたと話すのです。そのようにしても駄目なので、新しい何かを探してみてここに来たのですが、まず最初には私も驚いたと、そう言うのです。そんなことがあり得るのか、と言いながら……。(六七―二七)