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第一節 手本となる講師の事例
一 手本を見せてくださったお父様
先生は大衆の前に出る時も、まず天がその前に現れなければ絶対出ないのです。数多い群衆の前に出て話そうとすれば、話す内容がどうしてないことがあるでしょうか? 統一教会を宣伝するためにも出ることができるでしょう。しかし、天がまずその場に出てこそ、私が出るのです。(三三―一四)
人は、主管しようとするのであり、干渉されることを嫌うのです。自分勝手にしようとするのです。間違って行動するならば、全部滅びてしまいます。
皆さんがどうやって生活しているのか知りませんが、この壇上に出る時はいつも先生自身が一人の弁護士だと考えます。私一代だけではなく歴史に残り得る一人の弁護人になって、どういう人が愛国者になるのか、あるいは逆賊になるのかを決定するのです。言葉一つにより、逆賊と愛国者の分かれ道ができるということを考える時、間違って批判したならば私が人類の前に怨讐になるのです。うまく弁護する時は、新しい復帰の天国を探し立てる師になり、そのような立場の愛国者になり、歴史の道が輝くことができるのです。あるいは法哲学ならば法哲学の思想的基準を中心として見るとき、今この場は、責任を完遂することのできる一つの起源をつくる場ではないのでしょうか? このようなことを感じる時が多いのです。
私がこの場に出てくる時、自信をもって出てくるのではありません。自信ありげに出てくる人たちは既に失敗に接近している人です。「この身に神様が共にあってくださいますように。ある有名な個人が共にあるのではなく、天が共にあってくださいますように。人間が主管するのではなく、あなたが主管してくださいますように」という心をもって出てくるのです。人間が主管することを願ったのが堕落の動機になったため、天が主管できる絶対的な版図になるまで引っ張っていくことが、統一教会を指導する責任者がしなければならない仕事なのです。これを先生が明らかにしたのです。
壇上に出るときは、いつもそのような心で出ていきます。あるいは皆さんに、ある指示をするときもそうです。先生はできるなら独断的立場で指示はしたくありません。皆さんに先生が、何かああだこうだという話はしません。主管は神様がしなければなりません。(四六―九〇)
原理講義をするとき、口がはれなければなりません。先生もそうなのです。先生は正月一日の夜も話をしたでしょう? また、きのうも話したでしょう? 集まりのような所に行けば、みな顔を上げているので話さないわけにはいきません。皆さんが見るとき、「先生だから、なに大丈夫だろう」と思うでしょうが、支障があるのです。舌がばりばりに乾くのを感じます。つばが乾いてです。つばだけがかれると思いますか? 唇が突っ張るのです。それをみな感じなければなりません。他人のためにそうするのは聖なることです。聖なることだということを知らなければなりません。
皆さん、柿を知っているでしょう。熟していない柿を食べれば舌がこんなふうに……。話せばそのようなことが起こります。血は通らなければならないし、感覚はないし、舌が正にそんなふうになります。口が裂けるのです。こうしながら話すのです。柿を食べてみましたか? ある時にはけいれんが起こるのです。舌がけいれんを起こすのです。ある時は舌をかんで血を出さなければなりません。そんなことが分かりますか? そういうふうにやるのです。分かりますか、何のことか。そうしてこそこの舌が、神様の前に行っても語るのです。
こうやって立って十二時間以上話すというのです。九時間、十時間身じろぎもせず……。ここから飛行機に乗ってイースト・ガーデンまで二回行ったり来たりしても余りある時間を立って話しているのです。私に仕事をさせれば、このように努力するのです。
頭が割れるほど話しても、そんなことは誰も知らないのです。ある時は頭が痛くて割れてしまいそうです。そうしながらも話すのです。そうしながらもみなするのです。何のことか分かりますか? (はい)。その十分の一でもしなければならないのではありませんか。良心があれば十分の一でもしなければならないのではありませんか。それは私のためにするのではなく、皆さんの国のためにするのです。皆さんの子供と皆さんの後孫のために、皆さんの氏族と皆さんの親戚のためにしなさいというのです。
ですから歯を磨けばいつも血が出ます。そういうことをするのです。いつも疲れているのです。ですから、神様がレバレンド・ムーンを大切にしないわけにはいかないのです。私はこのように見ます。大切にしなければなりませんね? 私たちのお母様も、子供をたくさん生んで、とても疲れて、きょうはどこかへちょっと行っていますが。お母様自身も私を、鉄のような人だと思っています。ある時には寝る時間になれば座ってテレビをちょっと見て、そこで眠る時も多いのです。それほど疲れた人、それくらい疲れきった人なのです。ところでお母様も事情を訴える人がいないので私に「ああ! 私の体がこうなのであんまをちょっとしてください」と言えば、私があんまもしてあげるのです。(九六―一六五)
先生は外国を巡りながら、あらゆる精誠を尽くします。日本に行って七、八時間話をしますが、そのころになると足がひどくしびれてきます。足がしびれてくるのです。立っているので足がしびれるのです。皆さんは分からないと思います。「立っているのにしびれるとは何だろう」と思うでしょう? 血が通わなければ足がしびれるのでしょう?
立っていれば血が全部足に集まるのでしびれるのです。しかし足がしびれるのが問題ではないのです。私は、集った聴衆を天国と地獄の三十八度線を越えさせなければならない責任が、私の足にあると考えたのです。その線を越えたのに再び越えてくることには、先生は責任を負いません。来たことにより、良くならなければなりません。どんなことと同じかといえば、ターザンが綱渡りをして越えていくのと同じです。さっと渡って向こう側の木の枝に立たねばならないのに、越えられなければどうなるのですか? ここにも到達できなければ、向こうにも到達できずに落ちてしまうのですが、どこに落ちるのかといえば、この穴に落ちるのです。すとん、そういうようにです。そんなことを感じるのです。(六〇―三〇九)
説教する人がどこかへ行ってみ言を語って、終えようとするころに、「み言をもっと語ってくれ」と言うのに「アイゴー、あしたにしましょう?」と言ってはいけないのです。先生の一生でも、そうしたことはありません。二十四時間話しても、夜が明けてもその人が「やめてください」と言えばやめるのです。今も三十六家庭の婦人を連れていれば、十二時になれば、みな自分たちが眠くて、「先生が行けばいいのに」と思うのです。今もそうなのです。(一〇七―二五五)
私が講義を長い間すれば、ある人は小便を催してどれほど忙しいことやら、ずっと動いているのです。十二時間、あるいは二十時間講義を聞いて、貴いみ言を語るので先生はそこにいなければならないので、それでその人は講義を抜けようとして「あ、先生、ちょっとだけ待ってください」と便所へ走って行ってくるのです。そんなことまで起こるのです。
私は今まで反対を受ける道で残ってきました。また神様がそのように導いてくださったのです。分かりますか? 統一教会はこの世とは違うのです。この世の人が首を切って殺しても、この道を裏切ることはできません。体験的信仰! 体恤的信仰! 分かりますか? 体験的信仰者です、体恤的信仰者が……。讃美歌にも出てきます。「イエス、イエスを信じることは受ける恵みが多い……」。受けた恵みが多くなければなりません。受けた恵みが多いですか? 受ける恵みが多いですか、多くないですか? 祈ってみなさい。イエス様のために祈ってみなさい。(六八―一一二)
京畿道と江原道では九時間四十分も話しました。蒸しもちを作るときに、だんだん蒸し上がるにつれ、かぐわしいにおいがするように、話も同じです。(二六―七三)
先生は昔、講義をすれば一人を前に置いてもしました。ひそひそと話しては、立ってぐるぐる回りながら話すのです。それは風(注:大げさ)なのです。一晩で回って霊通してしまうのです。我知らず立ってぐるぐる回りながら話すのです。そうしてみなさい。一晩で霊通すれば、罪の包みでもサタンでも何でも逃げるようになっているのであって、どうしてそこにくっついているようになっていますか? この世に雷が落ちる所なのに、サタンがそこに入るでしょうか? (一六七―三三一)
天は始めと終わりが一つでなければならないといわれました。ニューヨーク、カーネギー・ホールの壇上に出たその時の心情を、どうやって忘れられようかというのです。それ以上の心情をどうやって体恤するのかということは、闘いの中の闘いだというのです。何のことか分かりますか? (はい)。講演したのは五十州で百回以上、百六十回余りでしたが、やればやるほどだんだん難しくなるのです。なぜですか? 心情が習慣化するためです。どんどん習慣化するというのです。「ああ、それみな知っている!」このように無責任に、天だけを信じて出ていっては駄目だというのです。(七一―一四二)
先生はあす(一九七五・六・七・救国世界大会)講演があるので、精神集中もしなければならないので……。元来、きょう皆さんが来なければ、ここには現れなかったでしょうに、皆さんが来たので一度会って話をしてあげれば歴史的な意味がある集会だということを知って、皆さんの心の姿勢ができそうなので、私が話したのです。今すぐ清平に行くとかどこかへ行って、あすのための心の準備をしなければならない立場にあるのです。ではそう知って、じゃあ……。(七八―二四五)
私がリンカーン・センターで講義する時もですね……。この国に来て私が悪口を言われながら、ただ考えもなくそのように生きていたようですか? 騒いだり闘ったりしながら原理講義をするのです。先生は時間さえあればずっと一人で祈祷し、いつもそうしました。神様は死んではいないので、今日このようなことをしたのです。皆さんもみな同じです。しなさい。(一〇七―二五五)
これから講演のようなことは、先生がしたことを皆さんがみな継承してする準備をしなければなりません。これをするのに男性ももちろん必要ですが、これからは女性講師をたくさんつくらなければならないのです。皆さんが修練を受けるときは講義式の修練ももちろん必要ですが、これからは復興会式の修練もいつも念頭に置かなければなりません。(七〇―二九三)