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第七節 成約時代と侍る生活

一 成約時代とは

1 成約時代とは何か

 神様は六千年の歴史の中で、三段階にわたり救いの摂理をしてこられたのです。僕の時代の旧約時代と、養子の時代の新約時代を経て、成約時代を迎えたのです。成約時代には、子女が現れて、父母の位置を準備し、父母に侍らなければなりません。今まで神様は、このような復帰摂理をしてこられました。(一六―一七八)

 成約時代とは何でしょうか? 地上において家庭を中心とし、父母の愛を中心として理想世界に行く、サタンの讒訴し得ない新しい世界に前進する過程が、成約時代です。成約時代は、原理的に見て、責任分担を完成した父母圏をいうのです。約束とは何かというと、責任分担です。責任分担の約束が未完成なのが、堕落なのです。旧約というのは、昔の約束です。新約は新しい約束で、今、成約は、約束を成すという時なのです。成すということは、世界の万民が責任分担を完遂することです。責任分担を完了するのです。(一三一―九八)

 完成時代、成約時代とは何でしょうか。父母の愛を中心としてアベルと一つとなって、アベルと兄弟が一つとなって、カインを屈伏させることです。カインが屈伏しなかったのは、父母がいなかったからです。それで、そのような惨事が起こったのです。アベルを憎んだのも、父母がいないから憎んだのであり、父母を中心としてアベルと一つになるようになれば、カインが順応するというのです。(一三一―七五)

 歴史を見れば、旧約時代は、神様の人を探すための時代であり、新約時代は、成約時代の父母を迎えるための犠牲の時代であり、今成約時代は、真の父母を中心として、神様に侍るため、神様を解放するための犠牲の時代なのです。ですから、今日統一教会は、白十字架を見せるのです。父母様が十字架を負っていくのです。人間が長成期完成級で堕落したため、三段階の一段階を残した完成級というこの圏内で、先生は二十年間蕩減の道を、再び上っていかなければならないのです。(一三六―三〇七)

 私は、旧約時代のすべての祭物の復活体と共におり、新約時代のイエス様の体の復活体と共におり、成約時代のレバレンド・ムーンの心情の復活体になったといって行く時に、天地はすべて私にぞろぞろついて回り、みな注目するのです。「あー私を気に入ってくれて気持ちがいい、私は幸福だ。悪口を言うなら言え、しゃべるならしゃべれ、どこにでも行く」、というのです。難しい道も行き、迫害の道も行く、私の幸福のために行くというのです。ですから、勝利者になればどんなにいいでしょうか。(一〇七―二一六)

2 成約時代は愛の時代

 今日、私たちは、神様を希望の主人公として眺めており、信仰の主人公として眺めています。また愛の主人公として眺めています。この希望と信仰と愛の主人公としておられる神様は、人間をして歴史過程で希望を身代わりした旧約時代、信仰を身代わりした新約時代を経るようにされたのですから、これからは愛を身代わりした成約時代を経なければならないのです。

 それでは、そのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変な一つの中心要素として残れるものとは何でしょうか。それは、神様の愛なのです。それは、全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなるのです。(一―九〇)

 旧約時代は民を探す時であり、新約時代は子女を探す時であり、成約時代は父母を探す時です。それで新約時代から家庭を探す時代だったので、イエス様は愛を紹介されたのであり、愛の道理を立てておかれたのです。(五―一二一)

 神様が最後に願われるのは何でしょうか。まずは、神様の愛を中心として、個体と個体同士が合わさった一つの家庭を探すことです。さらに、神様が愛することのできるその家庭を中心として、展開される氏族を探し、民族と世界を探そうというのです。これが、神様の全体的み旨なのです。

 そのため、今日私たちは、私たち自身の希望の時、あるいは、信仰の時が過ぎる前に、希望と信仰をすべて探し立てなければならないのです。私たちの一つの個体が、六千年の間、神様が摂理された全体を結実した姿、すなわち、完全なアダム・エバの一つの姿を装えなければならないのです。それで神様の愛を中心とした新しい家庭を形成しなければならないという事実を、皆さんも知らなければなりません。

 イエス様も、神の国を約束され、この地に来られましたが、そのみ旨を、すべては成せずに行かれました。過去に来て行った多くの預言者、先烈たちも天を証しましたが、そのみ旨をすべては成就できずに行きました。したがって、そのすべての歴史的希望と信仰で探してきた天国、すなわち、勝利の園を探さなければならない今日の私たちなのです。それでは今日、皆さんは何をしなければならないのでしょうか。神様が喜ぶ個体を探して、神様が喜ぶ家庭を探さなければなりません。ところで、その家庭を探そうとすれば、真の父母を探さなければならず、真の夫婦、真の兄弟を探さなければなりません。

 これを探すための、神様の復帰摂理歴史なのです。そのため、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約時代です。これからは愛を象徴する時代が来ますが、その時代を「成約時代」と言うことができます。それで、そのような因縁が天上から地上世界にまで広がっているのです。(五―一一〇)

 成約時代は、愛の時代です。そのため、結婚できるのです。今まで宗教に対し、愛の時代を許さなかったので……。高次的な宗教は結婚を許さなかったということを知らなければなりません。(九六―一一七)

3 侍ることにより救われる時代

 堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは考えだけではなく、事実です。今日の環境的な事実が、霊的に見ればそのようになっているというのです。なぜ信じなければならないのでしょうか? アダムが堕落したのは信じることができなかったからです。信じることができず、行うことができなかったので、天に侍ることができなかったのです。これが三大条件です。行義の時代・旧約時代、信義の時代・新約時代、侍義の時代・成約時代というのはアダム自身、行けなかった道です。アダム自身が堕落することによって、サタンの支配圏の中に入ったために、アダムが本来いなければならないその位置を、歴史的に探していかなければならないことは、不可避的なことなのです。ですから、蕩減条件を私たちが再現させて、勝利的条件を立てなければ、本来のアダムの位置に戻ることはできません。

 行いの義や、信仰の義や、侍る義を追求するのはなぜでしょうか。義がなければ、善悪を分別することができないのです。悪なる世界と善なる世界が分かれないのです。そのライチャスネス・スタンダード・ポイント(righteousness standard point:善の中心点)とは何かというのです。それが何かといえば、神様なのです。神様が信じるように、神様が行うように、神様が侍るように、いつも神様が中心にならなければならないのです。

 それは、なぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは、神様のように義なる人には、讒訴することができないというのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する、侍る環境に処していれば、サタンが干渉することはできません。いつも、サタン圏内にいたとしても、それと同じような環境ができれば、その環境に神様と共にいることのできる義なる基準ができれば、サタンはそこから後退するのです。

 だからといって、行いの旧約時代が過ぎ、信仰の新約時代が過ぎて、侍る成約時代だけがあるのではありません。旧約時代にも信仰が必要であり、新約時代にも行いが必要であり、侍る生活もすべて必要であるというのです。成約時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、みな必要です。それは、蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じことなのです。それは、離そうとしても離すことのできないものです。

 今、特別に侍義というのは、生活化、天国時代をいうゆえなのです。それで侍義を持ち出してきたのです。復帰歴史とは何かといえば、神様の創造理想を再現することなのです。(一六一―二一八)

 主がこの地に来られた目的は何でしょうか。地上に天国を成すためです。天国はどのようなところでしょうか。侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行くところなので、侍るための準備と、侍る生活を、万宇宙に永遠に誇ることのできる世界が天国なのです。(八―三〇七)

 今日、私たちは、「侍ることによって救いを得る」と言っています。そうであるならば皆さんは、実際に父母に侍らなければなりません。どんな悲しみと苦痛がついて回るとしても、神様が記憶なさることのできる条件をつくらなければなりません。小さい条件であっても、神様がお喜びになることのできる条件をつくらなければなりません。(一三―三一〇)

4 成約時代とは聖徒たちの祭物時代だ

 この恨みのこもった六千年の歴史過程は、どうやって続いてきたのでしょうか。

 神様とサタンと人間を中心として、どういう条件を立ててきたのかということですが、これが正に祭物の峠なのです。六千年の摂理を回顧してみるとき、旧約時代は万物を通して祭物の峠を越え、新約時代には、イエス・キリストの実体を通して祭物の峠を越えてきました。

 それでは来るべき成約時代は、何を基準として祭物の峠を越えるのでしょうか。聖徒たち、つまり皆さん自体を通して越えていくようになるのです。

 このように、全体的な摂理歴史が祭物を中心として成就するのを見ると、旧約時代は万物を通して祭物の峠を越えなければならなかったし、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神様の息子を中心として祭物の峠を越えなければならなかったことを知ることができます。ところで、成約時代である今は、新郎新婦の名を身代わりすることのできる皆さん自身を条件として、祭物の峠を越えなければなりません。皆さんが祭物の峠を越える以前には、この地上に真なる平和と自由と理想の世界は成されないのです。(二―一一一)

 旧約時代は万物を条件として祭物の峠を越えましたし、新約時代はイエス様を信ずることによって祭物の峠を越えましたが、成約時代は、個人が祭物の峠を越えなければならないので、皆さん自身が六千年祭物歴史を身代わりすることができなければならないのです。すなわち、皆さんが父の前に立つことを願うならば、皆さん自身が所有している物質と、愛する息子、娘と、妻とあなた方自身までも合わせて、一つの祭物としてささげなければなりません。このような道を経てこそ、皆さんは歴史的祭物の峠を越えることができ、そうしたあとでこそ初めて神様との関係を結ぶことができるということを、確実に知らなければなりません。(二―一一八)