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四 牧会者がもつべき慕わしさ

1 人を慕わしく思ってこそ

 真のものがある時は必ず……。完全なプラスがあれば、完全なマイナスが現れます。それがうそなら神様が天地創造できないし、何もできませんでした。この宇宙に男性、女性が混ざっていますが、比例的に見れば同じだというのです。ほとんど同じなのです。何人かの差しかないというのです。すべてそうなったのです。

 皆さんが教会聖殿があいているのを見ながら、その村の多くの生命が統一の恩賜に包まれなければならないし、復活圏において地上の解放国として天下に号令して生きるべき民なのです。にもかかわらず、みすぼらしい所で絶望の中で生きるのを見ながら、その絶望をかき分けて、希望の中に生きるようにしなければならないという任務に燃えて、夜も昼も走り回って足が曲がり、腰が曲がり、のそのそはいながら「これ以上することがない」、と言える時まであえぎ苦しんでみましたか?

 そのようにして人が生じなければ先生も偽者です。先生についていく必要もありません。そうやって一度やってみましたか、やってみませんでしたか? 皆さん、食口が来て帰れば、帰ったその人を考え、夜を明かして祈祷し、油皿の灯をともしておいて、あす話してあげることを準備しながら、朝まで、日が昇る時までその人が来るのをどれほど待ってみましたか? そうやって待ってみなさい。その人が来るのです。来ます。間違いなく来るのです。それは実現可能です。それでは、「やあ、精誠がこういうものだなあ! これが極に至れば神様を動かせるなあ!」ということを実感するのです。「誰かが来なければならない」と、精神統一し、三時間だけ祈祷すればその人がそこでそわそわし、自分も知らずに心が動くようになるのです。「教会に行ってみよう」と、こうして心が命ずるのです。そういうことが可能なのです。(七五―一七九)

 皆さんが真心から人を慕わなければ、その人も絶対自分を慕いません。ですから教役者はいつも早く起きて門を開けて、四時を越えるまで人を待ち、一番鶏が鳴く声を聞かなければなりません。鶏が先に鳴けば、「私より鶏が先に起きて鳴くのだな、この鶏が」と言って嘆いてもみなければならないのです。皆さんがそのようにしなければ食口たちが明け方に起きもしないし、皆さんを先生として、または自分の指導者として慕いもしないし、祈祷もしないというのです。動機がないのに結果が現れる法がどこにあるのでしょうか?

 功を積んだ塔は崩れないというのです。問題はここにあります。先生が人をどれほど慕わしく思ったでしょうか? 望みの家庭をどれほど慕い、それは説明しても皆さんは理解できないのです。皆さんはどれぐらい慕いましたか? 神様の息子、娘をどれぐらい慕いましたか? 望みの民族をどれほど慕いましたか? 望みの国家、望みの世界をどれほど慕いましたか? 皆さんはそれを知りません。そのためにはお金が問題ではありません。こじきの業をしても、人を慕えばそれが栄光だというのです。世間の栄華を忘れ、天の道を整えようというのは栄光です。それはすてきなことです。(三〇―一四九)

 教会員(食口)を慕うのを、初恋の心でしなさい。(一九八一・一一・一九)

 皆さんの責任が重要だということを知らなければなりません。ところが、時代的責任だけでなく、歴史的責任を背負ったという事実を、皆さんは感じられずに生きているというのです。「私の祖先が私にかかっているし、この時代の自分の一族が私にかかっているし、今後後孫が私にかかっている」ということを感じなければなりません。ですから自由な心をもてないのが、この霊的指導者の責務です。

 四面楚歌のような、そういう立場で一つだけ、一つの道だけもって生きるしかないのがこの霊的指導者の責務です。一つの道とは何ですか? 心情の道、孝行の道……。孝の道理を教える道以外には、行く道がないのだというのです。御飯を食べても寝ても、その心情に徹しなければならないのです。そうしてみなさい。そうすれば発展するのです。皆さんが先生に会いたくて泣いてみましたか? 鼻水や涙を流しながら泣いてみましたか? 先生は食口たちが慕わしくて泣いた時がどれほどあったことでしょうか。鼻水、涙がごちゃまぜになって……。神様が今まで真実の息子、娘を探すために、そうして涙をいくらでも流したのです。皆さんも涙を流してみましたか?

 人がさっと現れるともう、「ああ、あいつはどのくらいやるか?」と言ってお金を……。そういう考えをするのではありません。それはパリサイ人が見る目なのです。絶対その人は発展できないというのです。絶対できないというのです。お金よりも人を愛さないといけないというのです。それは既に見方を誤ったというのです。人を愛するようになればお金はついてくるのです。ところが逆さまに考えやすいのです。(七〇―一五〇)

 昔は新しい食口が一名でも入ってくるようになると、お互いに慕わしく思い、その人を訪問し、一時間でももっと話をしようとしました。そういう心情と、今日、食口たちが少し多くなって互いにあいさつもしたりしなかったりする心情と比較してみるとき、昔のその心情の土台がどこへ行ったのかというのです。それをできないでいます。皆さんはグループ活動をできる囲いの中にいなければなりません。それにもかかわらず、そうできない皆さんの心情を眺めたときに、残念でなりません。これはすべてサタンが思いのままに主管するのでそうなのです。(一九―四九)

2 人を接待することを好んでこそ

 人をどれぐらい好きになるのか? いろいろな模様を中心にして、人を研究するのです。皆さん、そうなのです。そうして約百名のためにずっと精誠をささげる人がいれば、その人々の性稟をすべて知るのです。声がどうで……。全部知るのです。人をちらっと見ると、人は似ているのです。見ると、「こうなっているだろう」と全部自然と解答が出るのです。そのように研究をしなければならないのです。何のことか分かりますか? (はい)。

 人は豚ではありません。村の小犬が来てもワンワン、猫が来てもニャオニャオ、こうしながら、そーっとなでて好きになってこそ、ぐうぐうと眠るのです。ところが人間なのに無愛想に「来たか? カインのあんたが来たか?」。(笑い) そうして「こっち、中に入りなさい」と言えば、どうなることでしょうか。(七五―一七八)

 皆さんも皆さんを考えてくれる人を訪ねていくでしょう? そうでしょう? 考えてくれる人を訪ねていくのです。神様も同じです。アメリカを神様が願ったなら、その神様を占領できるのは、どこの誰よりも神様を思い、神様のために奉献しようというその人を中心にして神様は訪ねていくのです。そうなのです。(一二八―一七二)

 家に来たお客を冷遇するのは人間の道理においてはマイナスです。そういう人は、どこへ行っても自分の威信を立てられないのです。家に来たお客に対する時には、必ずその人の基準を知って、その基準を中心にしてそこに自分の精誠を尽くしてその人に対するようになれば、その人が精誠を尽くしたことをもって、神様は自分が立てるべき条件としてつくってくださるというのです。

 例を挙げると、ある人に対して自分が持っている貴い物をあげるとか、自分はたとえ難しい立場に立ったとしても、自分もできないことをしてあげるとかして、自分がすべき責任を一〇〇パーセント以上したという時は、反対に提示できるのです。(四〇―八四)

 自分の門前に来て出ていく人は、村の犬がほえれば止めてあげないといけないのが、世間に一家を率いている、村の模範となるその大きな家の使命ではないですか。ですから自分を訪ねてきた人がいれば、何か一つでも助けてあげようとし、昼食でも食べさせて送ろうとするし、何か一つでもあげて送ろうという心をもってこそ、大きな家になれるのです。先生が統一教会に入って、御飯をくれといえば絶対に御飯を食べさせてあげ、食堂で十五年くらいの間、誰でも来て御飯を食べていけ、こうしたのです。こじきが来ても、「御飯を食べていけ」と言ったのです。先祖からの教訓がそれなのです。「八道江山(韓半島)の人に御飯を食べさせてあげれば、八道江山の祝福が集まってくるのだ」。それが私たち曽祖父の時からの遺言なのですが……。ですから私たちは八道江山の人々に御飯を本当にたくさん食べさせたのです。満州へ移民に行く人々が全部家に来て……。居間一つにいつも七、八名は入ってきて、ざわざわしているのです。慶尚道の人、全羅道の人……。

 それを見る時、全羅道と慶尚道に統一教会が栄えるだろう、と見るのが先生の見方なのです。なぜですか? 私の家の御飯をたくさん食べた人たちだから……。(笑い) 私はそう思うのです。その八道江山の福を受けるには、事実そうなのです。ですからその後孫は滅びないというのです。先生もそういう伝統のもとで生まれたのではないのでしょうか。(七〇―一六六)

 人に軽率に対するなというのです。ですから一九七〇年まで教会本部では、「誰でも通り過ぎる時、腹のすいた人は御飯を食べていけ」と言ったのです。腹のすいた人に御飯をあげるのは人間の道理です。もらってきた御飯でも分けて食べるのが人間の道理です。米びつに米を置いていながらも、通りすがりの腹のすいた人が来て御飯をもらって食べたとして、その人を打つような家は長く続きません。

 御飯だけたくさん食べさせてはいけません。御飯を食べさせると同時に、公的な心をたくさん使わなければならないのです。それが福を受ける業です。何のことか分かりますか? 御飯をたくさん食べさせるのと同時に、公的な心をたくさん使った人、そういう人は誰も嫌いません。そうでしょう? (五六―三七)

 教会に新しく入ってきた人を一番初めに迎えてあげる人が福を受けるのです。その人が自ら信仰生活のできる時まで待ってあげながら、完全に定着できるようにしてあげれば、その人と共に栄光の場所へ参与するようになるのです。こういう関係を十人以上結んだ人が、もしも死地に入るようになった時には、その人と関係した人々を通して解放される特権をもつようになるのです。福はここから受けられるのです。

 ですから来るお客さんたちをよく接待しなさいというのです。統一教会に反対する人が教会で御飯を食べていっても、笑いながら送り出せというのです。絶対食べる物でけち臭く対するなというのです。また、統一教会員でないのに来て御飯を食べるからといって、「何で御飯を食べるのか」と言うなというのです。先生がこういうことを言うのは、今まで八道江山(韓半島)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員でないどこの誰もが、ここで御飯を食べていかなかったのか、と考えるからです。今はその限界点に到達したというのです。

 皆さんも教会を訪ねて入ってくる人々を、皆さんの兄弟として受け入れなければなりません。遠い他国へ行って帰ってくる兄弟のごとく迎えてあげなさいというのです。そういう人は福を受けるのです。教会長もこうできなければ教会長としての資格がないのです。霊界へ行って引っかかるようになるのです。各部長たちもそうできなければ霊界へ行って引っかかるようになるのです。

 本部でそういうことについて統一教会の理論を適用するのは、そういうことで神様に言葉で言えない恨めしい事実があるからです。ですから皆さんが一九七一年度にはそういう行動をしてはいけないというのです。統一教会を訪ねてくるお客があれば、互いに迎えるために競争をして、アベルの立場に立ってカイン復帰の生活圏を四方に備えられるよう努力しなければならないのです。そうしてこそ、天国の中心的な祝福を受けられるのです。これが原理の教えであることを皆さんが確実に知って、今からでも教会を訪ねてくる人々を絶対無視して送るなというのです。

 また、教会の責任者は、訪ねてくる人たちをそのまま送り返さないで、梨一切れでも、水一杯でも接待して送るのが主人の責任だということを確実に知らなければなりません。分かりますか? 地区長たち、分かりますか? (はい)。訪ねてくるお客さんたちに驕慢に対しては駄目なのです。

 私たちが今後彼らの所に出掛けた時に、彼らが私たちに対して祝福を受けさせてほしいと言うようでないといけないのです。怨讐の子たちがそうやるようになれば、サタンも讒訴できないのです。もし讒訴をしようとすると、自分の息子、娘を打ち殺してから讒訴しなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。もう一度言うと、サタンの子供たちまでも来て、福を祈ってくれる人をサタンが讒訴して殺そうとすれば、その人の福を祈ってあげたサタン自身の息子、娘から殺さないといけないのです。これが何のことか分かりますか? (はい)。ですからサタンはその人を打てないのです。

 ですから、お客さんの接待をたくさんして、外部の人々にたくさん世話をしてあげた人がいる場所は、サタンが越えてこられないというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(三七―三二九)

3 夜が明けるまで話をしてあげてこそ

 先生が一九五七年度に第一次伝道に送り出す時、七年の間皆さんと夜を明かし、歌を歌いもし、村でありとあらゆる悪口を言われ、ありとあらゆることを全部やりました。先生が食口を育てるために千辛万苦したことを、皆さんもせよというのです。夜来るお客があれば膝をついて天の福を祈ってあげ、昼来たお客に対しては中の部屋へ招待して、誰よりも、自分の親戚よりもっと懐かしいお客さんとして対してあげ、「私たちの家はこういう家だ」という家風を立てよというのです。そういう家風を立てておけば、その人たちは誰のためにしようとしますか? 他の人々を接待する伝統をもった人々が、教役者の御飯を飢えさせるでしょうか? 教役者を飢えさせて福を受けようという連中の口には砂粒が入らなければなりません。

 きのうも話しましたが、一九五七年、その時に先生が七年の間精誠をささげた、それがいつも懐かしいのです。皆さんもそのとおりにせよというのです。皆さんはそれが懐かしくなくてはなりません。その場所が懐かしくなければなりません。その場所を今つくろうというのです。それが正に生きることであり、それが正に火がつくことであり、それがまっすぐに行く道なのです。皆さんはたった一人に対してでも夜を明かして話さなければなりません。(六〇―三〇八)

 私は今もそうなのです。どこかへ行って十二時になっても、三人が座っていると……。彼らは子供たちなのに、愛する子供たちが父母に孝行しようと来たのに、父母が必要なその子供たちが、父母が好きで父母に会いたくて来たのに、それをけとばしてくる父母は父母ではありません。

 ですからいつでも座れば二時になり、三時になっても立ち上がりません。彼らが身を引いて、自分一人残ったなら上に上がったものです。今までそうやってきました。ですから、「えい、先生は鋳鉄の先生だ」と言うが、先生が何か鋳鉄の固まりのようですか? そこに一つの生命、一つの孝行の道理、一つの天の道理が残るということを知るときに、何よりも、どんなものよりも心情的因縁を篤くしてあげ、父母が正しく主管してあげ、慰労してあげる責任があるのにそれをできずに行けば、それより大きなことがない限り、それをすべてできなければ父母の責任を果たせなかったと見るのです。

 ですから二時、四時……。昔はみんなそうやって育てたのです。分かりますか? 夜を徹しながら眠らないで……。

 ですから彼らがそういう恩徳を返さなければならないし、彼らもそうしなければならないし、皆さんもすべてそうしなければならないのです。「時間になった。急いで行け!」。先生はそうではありません。絶対そうではありません。訪ねてくれば、門を開けて外に出て迎え……。その人が服がなければ自分が着たものをあげ、もっぱら自分は寒くて体が縮こまって震えました。これが愛です。愛! どこかへ行く時、食口たちがスカートもはけずに出てくると、私は絶対に見られないのです。子供たちがそうだとすると父母もそうでないといけません。父母の前に現れた子供がそういう服を着てくる時は、どうしようもなくて着てきた、その心を私は知っているのです。(七五―一七四)

 きのうの夕方も、巡回師たちに会って十二時半まで、ずっと報告を受けました。おそらく彼らは一言一言自分の話をしようと、みんなそうするでしょう。そうすると、私がいくら疲れても彼らの話を聞いてあげる責任があるのです。一カ月間、血の汗を流しながら、あるいは涙の道を選んで歩んできた荒々しい歴史を愛することを知らなければなりません。これが統一教会の文先生の姿勢です。

 夜を徹してでも聞いてあげることを知らなければならないのです。人の話をよく聞いてあげないといけないのです。聞きたくとも、聞きたくなくても聞かないといけないのです。そうしてこそその人たちには、力が生まれ、生き甲斐を感じるから……。それを疲れるとは言えません。疲れます。疲れたとしても休めない道、寂しいとしても行かずには済まない道、息が詰まるとしても責任を負わないでは済まない道、これが神様の事情ではないのでしょうか。このすべてのことを、するすると脱ぎ捨てて自由人になったならどれほどいいか、というのです。自由人になったら……。(六二―一三八)

 皆さんも同じです。教会で食口たちを育てるにあたって、夜を徹しながら話をすれば、食口たちは離れるのが嫌になるのです。私が原理講義をする時、教会長が便所へ行ってくるのに五分もかかりません。五分だけ待ってほしいと話をしておいては、飛んでいって飛んでくるのです。終わりまで全部しないで拭き取ってくるのです。そうなるのです。(笑い)私が深刻になれば、相対もそのように深刻になるのです。道理がそうなのです。完全な主体がいれば完全な相対が生まれるのです。

 その場所を離れられなくて当然です。そうなりさえすれば座ってすべて通じるのです。そういう役事をしたのです。皆さんがそれをしないといけません。夜を徹しながら話をしても、おもしろくしないといけません。夜十二時が過ぎ、夜明け前二時、三時になったところで、「帰ってくれればいいな。少し眠らないといけないのに……」こういう心があればみんな逃げていくのです。三時、四時になっても、「帰らなければいい。時計が止まったらいい」という心がなければなりません。そういう場所で因縁を結んでいくと、霊は知っています。霊は申し訳なくて、御飯を食べるや否やお尻が立ち上がろうとするのです。先生がそういうことをしました。(五六―五一)

 接待されるのがよいことではないという事実を、皆さんは知らなければなりません。ですから十二時間でも話をし、夜遅くまで話をし、自分たちが申し訳なくて「どうかやめましょう」と言う時まで……。疲れますが、夜を徹する覚悟をして話をするのです。そういうことを経たのちには、必ず残るものがあります。それは間違いなく事実です。

 それと同じように、皆さんが地方に行って、二十四時間すべての精誠を尽くして食口たちとやってみろというのです。彼らが落ちるか……。ですから特別な道理がないのです。それ以外の道がないということを知らなければなりません。サタン世界の心情よりももっと高い心情の因縁を結んで、自分と共に生死を決するためにはその難しい道の中で、互いが克服し、互いが勝ち抜くことができる場所に立たなくては、すべてが駄目なのです。

 皆さんも教会でそうしなければなりません。うわさぐらいは立つでしょう。しかし夜十二時を過ぎても教会員たちが全部集まって座り、教会長を中心にして夜遅くまで話ができる運動をしなければなりません。こういう運動が新生運動です。分かりますか? 新しく生まれる運動なのです。朝起きる時間に起きて、夜寝る時間に寝るのではありません。新生運動というのは別の運動です。寝る時間に寝ないで、食べる時間に食べないでするのが新生運動です。そういう運動を起こさなければなりません。

 皆さんがそういうことを知って、いつどこへ行っても自分は自分自身の基盤を整えて、どんな問題でも誰にも世話をかけずに自力でこういうことができるという、最小限の自分の領域と、最大限の自分の領域を知っておかなければなりません。(五六―五五)

 まず自分自身がみ旨に酔ってこそ、それが相手方にも伝達されるのです。(二三―二四九)

 食口たちに対するにあたっては、夜遅くとも恩恵を高めるための貴重な契機を逃さないで、時間の観念を離れて最善を尽くしなさい。そうでなく、時間に気を遣って、ひときわ恩恵が高潮したところでみ言をやめると、次の日には、初めからもう一度始めなければなりません。(二三―二四九)

 核心要員は夜を徹してでも精誠をささげて育てなさい。そのように三日間だけ精誠をささげれば、その人は一生の間忘れられない恩恵の因縁を結びます。

 時間が遅くなり、伝道対象者が帰るようになっても、伝道する人がかえって惜しみ、残念がれば、霊界で協助してくれます。(二三―二四九)

4 人を無視しないで尊重視してこそ

 統一教会、この先生を訪ねてくる人は本当に多かったです。修道していて来た人だとか……。それで先生は、できるだけ私たちが飢えても、その人たちによくしてあげようとしました。彼らが一〇〇パーセントの基準の道を修めたなら、その一〇〇パーセントの基準以下をしてあげたなら私たちが詰まってしまうのです。審判されるのです。そういう時は、倍以上、二倍、五倍、十倍以上してあげるのです。そうやってしてあげたといっても、滅びはしません。何のことか分かりますか? そうすると天は感服するのです。「あれは天より優れているな!」。そう思うのです。

 世間でも主人が誰かの家にお使いを送ったところ、その家で厚遇してあげる時、子供なら子供、あるいは小使いなら小使い、お使いに行った人が帰ってきて話をするのです。「誰それの家へ行ったところ、こうしてこうしてやってくれた」と言う時、厚遇してあげて送ったことが、主人が考えた何十倍になる時は、「ああ、その方は福を受ける方だな」と思うのです。福を受ける人が福を取るというのです。分かりますか? そうなるのです。ですから皆さんを訪ねてくる人に冷遇するなというのです。願いが行き詰まります。皆さんの未来の運命の道が短くなるのです。

 ところが見てみると、部落で何でもないおばあさんが訪ねてきて、「ここに教会長いるかね?」と言う時、眺めながら「いませんよ、いません」と言ったなら罰を受けるのです。「教会長はどこかへ行きました。どうしてですかおばあさん? 年取ったおばあさんは必要ありません」。こうしてみなさい。神様が見る時に「こいつ、お前はどこから出てきたのか?」。こうして引っかかるのです。年取ったおばあさん、おじいさんを否定するのは、お母さん、お父さんを否定することになります。ですから年取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんをよく養ってこそ孝行する子供です。そうでしょう?

 貧しいからと冷遇する人は長続きしません。その村で貧しい人を冷遇してみよというのです。私は皆さんを冷遇しません。同情するのです。世間で一番貧しい輩が統一教会の輩です。この一番貧しい統一教会の輩を私が同情するから、福を受けられる因縁ももっと長くなると見ています。分かりますか? 「この群れが滅べばいい。やあ、早く片づけてしまえばいい」と思うのではなく、もっと苦労するのを願うのです。もっと苦労するのを願うというのは、もっと同情してあげようということです。もっと同情してあげることによって、皆さんも福を受け、私も福を受けるのです。

 ですから人を無視するな、というのです。分かりますか? 「みみずも踏めばうごめく」と言ったでしょう? それは必ずそういうものです。死ぬ時に恨みを抱き、恨むその恨みを受ける人は長く続かないのです。ですから共産党は長く続かないのです。絶対長く続きません。

 こういうことを皆さんが知って、心の世界において負債を負う者になってはいけません。指導者は実に恐ろしい場所に立っていることを知らなければなりません。そういうことを皆さんが知って、過去を清算できなければ悔い改めなければなりません。(五六―三九)

 若い人々は横的に伸びていく欲望の荷をぶら下げていますが、六十歳以上になった老人たちは一年一年白髪が多くなればなるほど、ただ一つの所、今や行く所のために準備することしかありません。これが彼らの身の上です。ですから彼らはみ旨を成すために誰よりもみ旨を愛し、そのみ旨を成したその前に、誰よりも甲斐ある自分を立てるために、夜昼の区別なく一つの目的に向かって前進する場所に立ちますが、若い人々はそうできないのです。むしろ若い人々には空想と妄想しかありません。こういう立場から見るとき、若い世代の人々より、年取った老人層にいる人々が神様に期待を残せるし、神様が期待をかけられるということを、若い人々は知らなければなりません。

 若い人々は年取った人々を無視してはいけません。ここに鄭石温老婆が来ましたが、顔を見ればしわくちゃで見たくありません。それに歯まで抜けて金歯をきちっとはめてあるのですが、その口さえ見ればやたらと気分が悪いです。その顔を見ると、しわくちゃになっており、どの部分を取っても張りのある所がなく、体つきもほっそりしていて、ふっと吹けば飛んでいくように不安ですが、皆さんはこういうおばあさんを恐れないといけません。このおばあさんの一言の言葉は、個人が考えて言うのではなく、霊界を通してみ旨的な話をするのです。これは自分の先祖から関係しており、あるいはキリスト教歴史の重要な殉教烈士たちの生命の因縁を支える、重要な一つの旗手になるという事実を知らなければなりません。(四三―七四)

 皆さんが地方に帰れば、人を尊重視しながら立体的な活動を展開しなくてはなりません。皆さんの手が擦れ、足が擦れるほどその部落のために働けというのです。そうしておいて、あとで自分の息子、娘を連れて……。それを考えませんか? 息子、娘が今はかわいそうな場所にいますが、年が二十になり、三十になれば、自分が働いた部落へ連れていって、「私が二十年前にここへ来て、こうしてこうして働いたんだ。あれは私が手ずからしたし、あの道も私が整えた」という生きた教育ができるのです。息子、娘にそういう精神を吹き込む考えをしませんか?(五六―五三)

 愛を中心にして見る時、神様が高いと思ったところ、神様だけが高いのではなく誰が高いのですか? 神様の高さだけを考えたので、人間の根源は知らなかったというのです。これが事故だというのです。神様が高いように、人間も高まらないといけないにもかかわらず、神様だけが高いものと思って、人間たちは低いものと思ったというのです。

 では、人間が高まることができる秘訣はどこにあるのですか? この秘訣を探し出して、高まることのできる道が統一教会にあるなら、統一教会に来るなと、鉄の門を何十個、何百個ずつつけても、特攻隊を編成してでも入ってこようとするのです。「来るな」と言っても、梯子をかけて来るのです。上ってくるためにありとあらゆる手段をすべてつかうのです。そういう可能性があるでしょうか、ないでしょうか? (あります)。なければ偽物です。(四一―二七四)

5 すべての人を愛せなければならない

 じっと見てみると、いい家には犬がふんをしても、その家の庭の隅へ行ってします。ところが主人が、「やあ、この犬ども、この村の犬どもはなぜ全部この家の庭の中に来てふんをするのか?」。こう言って不平を言う人は福を追い出すのです。「どうぞ来てしなさい、早く来い」。そうしないといけないのです。(笑い)そうなのです。もう山水もそうだし、自然もそうだし、すべての動物たちもそうなのです。動物も好きなものがあるのではないですか。人のために造られたなら、天に近い人、天性、本性に近い素性をもった人の前に引かれていきたいし、その人と共に和動したいし、これは原理の中にある創造理想の原則です。だからそうしなければならないのです。(六〇―一五八)

 皆さん、私たち統一教会において教役者が責任を果たしたか、果たせないか、ということを知るには、その教会の庭を中心にして、その村の人何人が往来するかということを見れば、一遍に分かるのです。先生がどこへ行こうと、先生が行く所はいつも宴会です。どこへ行っても宴会なのです。寂しい村へ行っても、三日さえたてばもう、その村のおじいさんが来て座り、「どこから来たのか?」、そう言うのです。知りたくて、知りたい病が出るのです。それが、なぜそうかというのです。なぜそうなのですか? それはそうならざるを得ないのです。すべての昆虫が、暗い夜中に光のある明るい所に向かって集まる道理と同じように、万物の霊長という人間がそれを知らぬはずはありません。知らぬわけがないというのです。電波のごときものが必ずあるというのです。そういうものがあるので、心の電波が主体と対象を中心にして一つになる刺激を感ずるというのです。その刺激が自分を滅ぼすのではなく、自分の希望を充足させてくれるし、成功を期待させてくれる道案内となる方向なので、自然と引かれていくようになっているのです。

 ですから教会が発展できる道は、まずその村の子供たちが好きになるようにすることです。「嫌いだ」と言えば駄目なのです。鼻水をちゅるちゅる流す子供たちを中心にして、「やあ、我々の先生!」と言われるように子供たちと友達にならなければならないのです。その次におばあさん、おじいさん。子供たちの友達、おばあさん、おじいさんの友達にさえなったあかつきには、その村の人々がそっくり自分の友達になるのです。道理がそうです。

 人が一番好きなものは何かといえば、赤ん坊で、一番嫌いなものは何かといえば、ほとんど死にかかっているおばあさん、おじいさんです。極と極なのです。そうではないですか? 天の運動とは何かというと、極と極を包摂するための運動ではないか、というのです。それが原理的なのです。そうでしょう? ですから子供たちと一つになろうとするし、おばあさん、おじいさんが杖をついてきて、遊んでは御飯を食べていき、こうしておけばそこは栄える所となるのです。皆さんがおばあさん、おじいさんの友達になり、おばあさん、おじいさんが皆さんに狂って夜も眠らず、自分の良い庭、縁側、広い家を残しておいて、教会の板の間に来て寝ようというようになれば、その団体、その人がいる所は賑やかに栄えるのが原則だというのです。分かりますか? (はい)。

 そうするには、それがそのままでなるものではありません。灯を明るくともしておかなければなりません。灯を明るくです。子供たちはいたずらが第一です。そうでしょう? 子供たちは、いたずらが第一なのに、いたずらを捨ててそこに来て、何かを望むことができるようにするには、いたずらよりももっとおもしろいものがなければならないというのです。また、老人たち、年取った人々はそれこそ食べる研究しかしないのです。「やあ、おいしく食べたらいいな」。こうなのです。その食べることを忘れ、そこへ来るには、それ以上のものが何かなければならないというのです。

 この世間にそれ以上のものが何かあるのでしょうか? 世間にはないのです。年取った人々がこの世間で八年風塵をすべて経ながら、やってみたことのないものが何かありますか? 全部やってみたのです。その人々に興味津々たるものが何かあるでしょうか? それは他のものをもってしては駄目です。神様のみ旨のほかありません。子供たちもそうなのです。子供たちは天真爛漫で感受性が敏感です。特に善なることに対する感受性が最も敏感なのです。しきりに好むのです。こうなってこそ、その教会も発展するのです。(六〇―一六〇)

 また、顔が良くて若い人でこそ伝道する、とんでもありません。教会というのは家庭の延長です。家庭の延長だということを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさん、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないし……。統一教会が全部若い人ならこれは病弊です。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えなのです。上の人に侍ることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんは神様の代身であり、お母さん、お父さんは父母です。自分と息子、娘まで四段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こうなれば、段階で見ると三段階なのです。そうでしょう? 線を四つ引いてこそ三段階が出るでしょう? (はい)。ですから七数基準なので、これを私たちの人生として経ずしては、これをまとめなくては三段階が出てこないというのです。これをまとめなければ全部好き勝手に絡まるので……。三段階が出るにはこれをまとめないといけません。

 ですから、おばあさん、おじいさんを愛する心も、天の法度に一致しなければならないし、お母さん、お父さんを愛する心も、天の法度に一致しなければならないし、また自分たち夫婦同士愛するにも、天の法度に一致しなければならないし、子供を愛するのも天の法度に一致しなければならないし、きちっと基準が合わなければならないのです。これは、全部おばあさん、おじいさんが父母を愛することも、父母が息子、娘を愛することも、一致しなければならない、というのです。おじいさんは曽祖父時代には息子の位置ですから、結局はそれです。息子の位置であれ、夫婦の位置であれ、父母の位置であれ、おじいさん、おばあさんの位置であれ、どの時代も等しくぴったり合わなければならないのです。それがまとまらなければなりません。何を通してまとまらなければならないのですか? 神様の心情を通してまとまらなければなりません。こういう家庭は千年、万年発展するというのです。そういう家庭は栄えて当然です。この若い連中だけ集まって座っていて、何ができるかというのです。

 ですからこれを横的にしなければなりません。なぜ横的にしなければならないのですか? 横的にして、これを普遍化させないと……。全体を代表したものが縦的基準なので、横的に、全体に普遍化させてこそ……。中心は一つなのです。中心点は一つなので、普遍化され得る心情基準を私たちが四方に連結させて一元化させるようになれば、ここに縦的なこの心情の役事が初めて一つの中心に決定されるのです。縦的中心が二つありますか? 二つはないでしょう? (黒板に書かれて)これが傾いて三角形を成せば、ここが中心ですか? ここが中心でしょう。ですから四方を備えなければならないのです。

 ですから人間は自分の父母を愛するように隣村の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣村のおじいさんを愛さなければならないし、自分の息子、娘を愛するように、隣村の息子、娘たちを愛さなければなりません! こうなるのです。そうして上下関係が始まり、左右が始まり、前後関係がそこで醸成されるのです。こうなるのです。分かりますか? それが始まってこそ、この縦的な心情の基準が場所を定めて天道が生まれるのです。そしてそれを実践しようというのです。皆さん、私たち統一教会はそれを実践するので、理想的家庭建設となるのです。

 教会という所は、その縦的な基盤を横的に四方化させられるようにしていく所です。その数が多いほどいいのです。なぜ多いというのですか? 家庭時代から氏族圏へと越え、氏族圏から民族圏へと越えるものだからです。ですから伝道をたくさんするほど天的な基盤が自分を通じて始まったので、神様の前に人格的価値の基準が前進するのです。

 それでは皆さんは何なのですか? 皆さんはこの縦的中心で何をすべきなのですか? これを、横的に再現しようというのです。そうしなければなりません。ですからおばあさんを愛さなければならないのです。今や先生も遠からずおじいさんになるでしょう? (はい)。 おじいさんになるのですよ。あなたちも今、年老いたらおばあさん、おじいさんになるのです。同じなのです。息子、娘として生まれ、その次に結婚して、お母さん、お父さんになり、おばあさん、おじいさんになっていくのです。それが一生なのです。

 ですからおばあさん、おじいさん、その次にお母さん、お父さん、その次には夫婦同士、その次には息子、娘なのです。これが人生が行く公式的路程なので、これを愛さなくては天道に外れます! こうなるのです。分かりますか? (はい)。

 これを根本的にまとめておかないと、この世界を収拾する道がないのです。西洋のような所へ行けば、実に西洋のおばあさん、おじいさんはかわいそうです。彼らは東洋の風習をどれぐらい慕わしく思うか分かりません。「ああ! 東洋思想はおばあさん、おじいさんをその家の神様のように長として侍り、七十、八十の老人に息子が行って全部相談して……。ほう! どれほどいいか」。そう思っています。

 ですからおばあさん、おじいさんを愛することを知らぬ人は……。一番年取ったおじいさんは誰ですか? 神様ではありませんか? また、一番若い方が誰ですか? その方も神様です。おじいさんよりも年取った方が神様だし、赤ん坊よりもっと若い方が神様なので、その神様を愛するには、人間全体を愛さなくては神様を愛せません。こうなるのです。何のことか分かりますか? ですから神様が年齢が多いとすると一番多い方であり、未来に対する青春なら誰よりも青春なのです。そうでしょう? その方を私が愛そうというのだから、その中にいるどんな人も私が愛さなければならず、歴史時代に霊界へ行っているその方々もその圏内で今希望を探して生きんとしているので、その方々までも愛してこそ、神様に従って愛せる道を求めていくというのが理論的ではないのか、というのです。(七〇―一五一)

 皆さんが知るべきことは、人を愛さなければならないということです。人を愛さなければなりません。なぜ人を愛さなければならないのですか? 神様よりも先生よりも、食口をもっと愛さなければなりません。先生が願うのがそれなのです。皆さんは先生を見れば喜びますが、食口をもっと好きになりなさいというのです。先生よりも。なぜですか? 父母の願いは……。兄さんの立場にいればその弟たちを父母よりももっと愛することを、父母はもっと喜ぶのです。それが何のことか分かりますか? (はい)。それを願うというのです。

 そういう立場で神様がこの地上の人類を愛してこられるので、そのように神様の代わりに多くの人を愛するために涙を流し、与えつつも不足を感じながら愛せる、こういう心を……。神様がそういう心を抱いてこられるので、歴史的な父なる神様を父母として侍って生きる私たちにおいて、皆さんは愛してからも恨みがあってはいけません。こうして最後まで与えんとしたにもかかわらず受けない時は、その次には神様の罰があるのです。そこで因縁が分かれるのです。(七〇―一六〇)

6 神様が立てた因縁の中で愛せ

 私たちの因縁というのは、歴史上のすべての人々が願ったものです。そういう因縁が私たち食口という言葉の中にあるのです。

 このように私たちが中心的な因縁をもって現れたので、愛することにおいて直接的な立場にあっても、その誰よりも近い立場で愛の因縁をもって愛さなければならないのです。また、間接的な立場にあっても世間のその誰よりも高い場所で愛さなければならない、というのです。

 では、今日の堕落した世界でしている直接的関係の愛と、神様を中心とした間接的な関係の愛のうち、どちらが高くなければならないのかというときに、世間を中心にした直接的な愛よりも、今日間接的な愛でなされた私たちの基準が低くてはいけないのです。もしも低いというときは、高めなければならないのです。ですからこういう因縁が始まるようになると、その誰もがこの場所を慕わざるを得ないし、この因縁と関係を尊重せずにはいられないのです。

 では、ここで私たちは何をすべきであり、何を学ぶべきなのでしょうか? 人類を愛せる方法を学ばなければならないのです。今日私たちは、世間的に見れば天と因縁もなく、関係も結ばないかのように見えるかもしれませんが、神様を中心にして因縁と関係が結ばれた私たちとしては、神様が人類を愛したいと思われるその愛を実現させなければなりません。

 そのためには皆さん自身が食口という名前のもとで、互いに愛することが、民族を愛する以上にならなければならず、しいては世界を愛する以上にならなければなりません。もう一度言うと、愛を中心として世界的な愛の土台と環境を成す立場で愛さなければならないのです。こういう点から見るとき、皆さんが一人の食口の生命をどれほど尊重するかが問題です。

 堕落した世界の食口の間にも、困難なことがある時には自分のすべてのものをささげて協助するが、私たちにそれ以上の因縁、それ以上の関係が発見されないなら、今後堕落した世間に吸収される私たちの集まりとなってしまうのです。神様がそれほど望む愛の因縁を、広げられる足場となれないことを知らなければなりません。

 こういう点から見るとき、私たち教会の責任を負った人々は、明確な観が立っていなければなりません。そうでないと、全体に及ぼす影響が大きいことを知らなければなりません。そして、企業体や教会に責任を負った人々も、いつも公的な心、すなわち愛の心をもって神様が立てたその因縁の中で愛せなければなりません。公的な法度に従って、自分のためにするごとく、食口のためにしなければなりません。また、責任者の立場で自分が自分を認定する以上に、自分の所に所属するすべての人を愛さなければなりません。その基準が今日、サタン世界のどんな因縁よりも高くなければなりません。そうならなくては、私たちが願う天国は成され得ないのです。(二五―二八六)