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1 祭物
祭物は、人より先に出てきたのでカインであり、人間はアベルです。このように見るとき、カイン・アベルの原則を中心として、祭物と人は、一つにならなければなりません。そうでなければ神様は受け取ることができません。それでは、祭物が神様と一つになるためには、人間はどのようにしなければならないのかといえば、サタン圏が主管する以上に主管してあげなければなりませんが、愛を中心として主管しなければならないのです。
サタンよりも少ない愛をもっては、天の前に持っていくことができないので、自分の一切の所有の、どんなものよりも愛する精誠を尽くさなければならない、ということを記憶してくださるようにと願います。サタン世界の物質は、息子、娘、夫、父母すべてが入るので、神様の前には、そのすべてのものを超越してこそささげることができるのです。そうでなければ祭物の意義がありません。
堕落とは、神様の反対であるサタン側の愛の圏内に陥ってしまったことなので、神様の前に出るためには、さらにもっとサタン側のものを愛して、一つとなることのできる道を模索していかなければならないのです。(一九七五・一・一)
祭物をささげる時も、次のように考えなければなりません。「私は、羊を精誠の限り祭物としてささげる代わりに、絶対に従順になります。私は、牛を精誠の限り祭物としてささげる代わりに、私自身を絶対、犠牲としてささげます。そして、鳩を精誠の限りささげる代わりに、私は絶対愛します」。このような所信をもたなければなりません。ですから皆さんは、神様に約束した、それ以上の実践で見せてあげなければなりません。「すべての人は神様に出ていくことができなければならないので、このような祭物を私の代身者としてささげますので受け取ってください」という意識が祭事です。このような動物を祭物としてささげますが、ダイヤモンド、金のような鉱物の宝石をささげる場合もあります。すべての人々が、変わることのない心情の世界を追求してきたので、このような祭物をささげるのです。このような内容を、人々は知りませんでした。
また、祭物をみ旨にかなうようにささげれば神様のものとなりますが、そうでなければ、サタンのものになるので、祭物は、神様とサタンの所有権を決定すると見ます。サタン世界に属するものをそのまま置けば、すべてサタンのものになってしまうので、神様もそのような条件を通してサタンを分立させて、完全所有権をもたれるのです。
人間がささげた祭物を通して、神様は天のものとサタンのものを分別して、万物と人間をサタンから救援されるのです。万物を通して人を探していくというのは、人の心情を探し求めていくということに通ずるのです。(一九七八・三・二六)
2 祭物とは、所有を決定させる条件物
救援摂理歴史は復帰歴史であり、復帰歴史は再創造歴史なのです。ですから、この摂理過程に現れた道を私たちが調べてみれば、旧約時代は万物祭物時代でした。これを知らなければなりません。旧約時代には、万物が祭物となったというのです。誰のためにですか? 息子、娘のためにです。人々が生き返ることのできる道のために、万物が犠牲となったのです。この世の人々は、これを知らないでしょう? 人を生かすために、万物が犠牲とならなければなりません。なぜでしょうか? 人を創造する時に、万物が投入されて、万物の犠牲的投入によってつくられたので、再創造するにあたっても、万物が人のために犠牲にならなければならないというのです。それでこそ、原理に符合するのです。
ですから、今まで歴史始まって以来、祭物としてきたものは全部万物だったというのです。貴重なもの、牛、羊、鳩、その次に鉱石物、宝物、その次には、すべての植物、動物がそこに犠牲となって、その代価を中心として、人々が行くことのできる道を磨いておいたというのです。
ですから、祭物を中心として何の闘いでしょうか? 体はサタンがもっていき、心は神様がもっていったので、ここで人が解放されるためには、この祭物を私の代わりに犠牲にさせ、私の代わりに犠牲になるのだという愛の心をもって、サタン世界で愛する心以上の、天を愛する心をもって祭物に接しなければならないのです。
ですから、祭物は、雄、雌、陰陽が合同したものは駄目です。対になっていてはいけないのです。純なるものでなければなりません。なぜでしょうか? アダム・エバが二人とも生息子、生娘の時に堕落したからです。祭物は必ず純なるものでなければならないのです。純なるものの中でも、すべての動物の系列において最高のものでなければなりません。
ですから、祭物としてささげるものは、人々が精誠を尽くさなければなりません。その一家が精誠を尽くさなければなりません。一つの家族が福を受けるために、一家が、赤ん坊までもみんなが精誠を尽くさなければならないのです。一家全員が、愛の心情を結合させて、その祭物に対して……。
祭物というものは、所有を決定させる条件物だというのです。統一教会の原理は本当に偉大だというのです。先生が、そのようなことをすべて分かっているので、このような定義を下したのでしょう。所有物決定のための条件物です。善なる所に所有されるのか、悪なる所に所有されるのかという問題は、何を中心としてなされたのでしょうか? サタンと神様が、すべて愛の心情をもって取り引きしているということを、誰も知らなかったのです。愛の道を開発して、愛の道を開拓するみ旨を立てて、愛の人を探し出してくる、このような立場、高い愛の基準を天の前に返す前においては、サタン世界の愛の基準の万物が、天の所有物として登場することはできないのです。天の所有物として登場せずしては、神様が、人間と共に一つとなった万物を、所有することのできる道がないというのです。ですから、祭物は犠牲となって、人を代わりに所有するのです。(一六六―六九)
3 人類の復帰に至大な貢献をした万物
最近、既成教会では、献金をよくするといって、何か長老をさせたり、執事をさせたりするそうですが、私たち統一教会は、それではいけないというのです。私が、いつか一度、ずっと教会を回りながら、どんな者たちが長老となっているのか、くまなく目を通してみたいと思います。献金をよくするといって長老をさせるのですか? 献金は、国を愛し、世界を愛して、国の代わりに、世界の代わりに私の生命を交換する立場でしなければなりません。それは祭司長の位置より高い位置であり、神様と対等になり得る愛の位置に立って、同参することのできる権威をもっているのです。それだけでなく、神様が所有する所有権を、私が相続することのできる価値的内容をもっているのに、そこに何で、この世の名誉が台頭しますか?
ですから、万物を犠牲として、愛の心情を中心として、その祭物を愛するものを犠牲にさせ、自分の息子、娘が愛するものまで犠牲にさせて、私自身がサタンから解放され、私の愛する息子、娘たちがサタンの巣窟から解放され得る条件物を、より次元の高い愛をもってささげなければならないのです。そうして、神様がそれを受け取ったと決定される時は、天の前に帰るのです。このような役事をして、旧約時代が出てきたのです。旧約時代には、祭物を個人的祭物、環境的祭物、民族的祭物、国家的祭物をささげる、このような儀式を備えていました。このような道理をなした宗教が、神様を中心として始まったユダヤ教だったというのです。ユダヤ教を中心として……。
それでは祭物とは何でしょうか? 人々が、真なる人々が行くことのできる道を開けてあげるためのものです。万物は、そのために犠牲となってきたというのです。このような観点から、「万物の日」を迎えた今日、万物がこの人類復帰運動に、そして再創造歴史時代に、どれほど偉大な貢献をしたか、どれほど偉大なことをなしたかということを知らなければならないというのです。時が来たならば、神様の代わりに愛の心をもって、これにしっかりとすがって、「お前、どれほど苦労したのか」と、泣いてあげることのできる心が流れてこなければいけません。
紙切れ一枚でも、これはすべて、歴史過程に私たちの祖先たちが、血と汗を流して祭物を引き継いできた一部分であるのです。ですから、それを抱いて愛してあげることができなければなりません。道端に落ちた紙切れも、何気なく通り過ぎることはできないという、主人になった資格をもって、心情的主人になった行動をするようになる時には、歴史的に犠牲になった祭物たちが、あなた一人を見て、「私たちの怨恨を解くことができる、神様の愛に接近することができるように橋になってくれるので有り難い」と言うでしょう。そうなることのできる万物圏を周辺において、侍って生きることのできる皆さんにならなければならないというのです。そうなってこそ、祭物を犠牲にさせた私たちの祖先、数多くの宗教の犠牲の代価を、有効に引き継ぐことのできる後代の相続者としての資格を備えることができるということを、はっきりと知らなければなりません。(一六六―七一)
4 聖物の重要性
これからは、どんなことをしなければならないのでしょうか? お父様の前にささげるものは聖物だということができます。皆さんは、これからそれを準備しなければなりません。自分が直接侍るのです。それを、今は実践する時が来たというのです。甲という人がいて、春分ならば春分において、礼物を準備したとしましょう。例えば、三千ウォンの価値のあるものを準備したとするならば、それを父母の前にささげるときには、自分一人でささげてはいけないというのです。
なぜそうしなければならないのでしょうか? 聖物をもって、今まで何が闘ってきたのでしょうか? カインとアベルが闘争してきました。聖物をおいて、サタンと天が闘ってきたのです。ですから、天の嘆きとは何でしょうか? 聖物をおいて闘争してはいけないのです。兄弟ならば兄弟が、お互いに団結しなければなりません。そうではないですか? 今まで一つの聖物を置くようになる時には、必ず闘争的な条件を立てて……、カインとアベルが、サタンと天の側に分かれて、対決して闘ってきたのです。
それが、今まで神様を悲しませる条件になったので、今日私たちが、その聖物をもって父母の前にささげるにあたっては、すべての万民が団結して、その聖物の前で心を合わせることのできる運勢を備えて進めなければなりません。全体をそのようにするためには、最少単位のカインとアベルが統合をみなければならないというのです。そうではないですか?
ですから、そのようなものをささげるようになる時には、三千ウォンならば三千ウォンの価値のものを父母様の前にささげるとしても、自分一人ではささげることができないのです。必ずカインならばカイン、アベルならばアベルとして、同伴者を探して、その同伴者と協力してささげなければならないのです。
ですから、韓国の風習に、目上の人に何かをささげるような時には、それを両手でささげるのですが、これは、天地の道理に符合するものです。それは、自然的な良心からにじみ出てくる、天が与えた法度であり、それが、私たち韓国の、美風良俗として残ってきたのだというのです。(一五〇―三〇二)
皆さんが、一つの季節を迎えるごとに、聖物を天の前にささげるためには、四数を身代わりする三日間を潔斎して、祈祷しなければならないのです。「お父様! 生命の代わりに、これをお父様の前にささげます。極めて小さなものですが、私の精誠を尽くして準備した聖なる物としてお父様の前にささげようと思いますので……」と言わなければならないのです。それで皆さんは、天地の恨として残された聖物を、侵犯を受けた歴史的なすべての条件を乗り越えるためには、私の個体の前に必ず相対的な条件を立てなければならないのです。そうして、アベルとカインが闘争してきたことを乗り越え得る立場で一つとなることができる姿を備えてこそ、サタンの未練を断ち得る聖物になるのです。もしそうでなく、自分一人しかいなければ、サタンが未練をもつというのです。
それでは、これからどのようになるのでしょうか? ささげる時には、もしここに甲という人が、ある金額を、アメリカにいる人に送るとしましょう。甲という人から、乙という人が、同伴することのできる一人の対象者として選択されたならば、彼にその金額を直接送るか、そうでなければ協助的なすべての内容を、書信で連絡して知らせてあげなければなりません。それで、心で、体で、行動で協助してあげ得る相対的な位置に立てば、それが甲の前において、無限なる栄光となるのです。
これからは天にこの聖物をささげる時に、カイン的な立場に立った人において、そこに私がアベル的な相対的な立場に出るとか、あるいは、アベル的な立場に立った人の前に復帰され得るカイン的な立場に立つとか、二つのうちの一つの場合に、ある食口が聖物をささげる時に、私が呼び出しを受けることは、無限なる栄光だということです。それは、天が知らせてくれるということです。これから、このような聖物をささげるところに参席する者は、それ自体が無限なる栄光だというのです。自分勝手に来てはいけないのです。(一五〇―三〇五)