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@牧会者が供えるべき資格
私たちは、何の代身とならなければならないのでしょうか? 皆さん自身は、例えば顔が良いわけでもないし、何の経歴があるわけでもないし、持っているものもないけれど、心は最高の基準を願うというのです。どんな代身者となるのでしょうか? 家族に責任をもつことができる代身者になるのはもちろんですが、さらに進んで国の代表者、世界の代表者にならなければなりません。そのためには自分自身が世界的な基準をもたなければなりません。
この世界的な基準をもとうと思えば、絶対的な基準に近づかなければならないのです。しかしまず、家庭の中心を通さなければ、民族の中心を経ていくことができません。また、民族の中心を通さなければ、国家の中心を経ていくことができないし、国家の中心を経なければ、世界の中心に出ていく道理がありません。皆さんは、このような事実を知らなければなりません。
今日、歴史の方向がこのようになっているので、数多くの人々は、自分を中心としてその国の主権者になりたがるし、責任者になりたがります。さらに進んでは、世界の指導者になりたがります。しかし、そのような人は、まず家庭の門を越えなければならないし、氏族の門を越えなければならないし、民族の峠を越えなければならないし、国家と世界の峠を越えなければならないのです。そうしてこそ、世界的だといえるのです。この世界的だというのは、一等だということです。一等にならなくては駄目だというのです。(二四・二五六)
一番問題になるのは何かといえば、皆さん方は神様の所有権を決定しなければならないというのです。一人の男性、女性として、神様が、「お前は永遠に私の娘、息子だ」と言うことができなければなりません。息子、娘という名前だけもっていては駄目です。息子、娘の、そのすべての中心的な素性、性稟の中心的すべてのものを総合させ得る愛の主体性をもつことによって、神様がそれを希望することができ、立てたいと思わせる息子とならなければなりません。
「お前は、私の愛する息子だ」と言えなければなりません。息子だというだけでは駄目なのです。「お前は本当に私の愛する息子だ」、そう言えなければなりません。その言葉が必要なのです。なぜでしょうか? 堕落により、歴史的な傷を残した我々の先祖の歴史を知っておられる神様であるからです。アダムは、本当の息子になれずに堕落したというのです。ですから、「お前は私が本当に愛する息子である」と言い得ることが必要なのです。
それを公認してもらうのに、どれほど努力しなければならないか分かりますか? 努力してみましたか? 神様がおられる祭壇があったとすれば、教会壇上があれば、そこで涙を流して、そのような公認を受けなければなりません。高い山に上がって、祈祷しなければなりません。「あなたの愛だけが、私のすべての必勝の盾となるのですから……」と言って。教会の責任を負って、数多くの生命の一つの真の芽となり、彼らを接ぎ木して復活させてあげなければならない責任を負った者が教役者ですが、自分自身が、神様の愛を受けることのできる息子としての公認を受けられない立場に立って、数多くの人たちの生命を指導するということは、言語道断です。(二一・二二三)
皆さんは、イエス様が神様の身代わりとして証をなし、神様の身代わりとしてサタンと闘い、神様の身代わりとして亡くなられたのと同じように、そのようなイエス様のために証していかなければならないし、イエス様のために闘わなければならないし、イエス様のために死ぬことができなければならないというのです。
さらに皆さんは、そのような立場に立ったのちに、自分を証してくれる、もう一人の食口をもつ人にならなければなりません。そのようになれば、イエス様を証した使徒たちがいたように、皆さんも自分を証する人が生じるのです。すなわち、皆さんが神様の息子、娘だといえる立場に立つためには、皆さんは変わらない神様の息子、娘だと証できる一人の食口をもたなければならないし、皆さんのために闘ってくれる食口をもたなければならないし、皆さん自身のために死んでいくことのできる食口をもたなければならないというのです。(三・一四三)
復帰は受けてするものではありません。復帰の道は開拓して進んでいく道です。サタン世界のものを受けていては、復帰の歴史をなすことができません。天のものを与えなければなりません。与える時に何を与えなければならないでしょうか? 真なる心情を与えなければならず、真の人格を与えなければならず、真のみ言を与えなければならないのです。
そのためには、真のみ言の基準を立てなければならず、真の人格の基準を立てなければならず、真の心情の基準を立てなければなりません。個人的に、家庭的に、国家的に、世界的に、全体的な基準の真なるみ言と、真なる人格と、真なる心情を立てなければなりません。この範囲を広げ、世界的な一時を用意して、世界全体の蕩減基準を立てるための責任者として来られる方がメシヤです。その方は深刻な歴史の背景を中心として来られるということを、皆さん方は忘れてはいけません。(一四・一二)
自分に新しいものがあれば、これを誰にあげようかと考える人は、滅びません。それでこそ、周囲の人たちにはもっと良いものをあげたい心が残るようになるのです。自然屈伏は命令をしてなされるものではありません。自分自身が隠された立場で実践することのできる人であってこそ、統一教会の責任者となることができるのです。また、その地区なら地区、地域であれば地域に責任をもつ位置で、勝利できる専門家として神様の前に行くことができなければなりません。そうして、自分が願っていた天国が建てられる立場に立って、その専門的な権威を永遠にその環境に残すことが、神様の願いであることを知らなければなりません。(二九・一一六)
教役者(伝道者)は、何よりも経験がなければならないし、伝道対象者に衝撃的な心の動揺をもたらすようにしなければなりません。(二三・二四九)
皆さんの中で、地区長であれば地区長生活を十年以上したという人があると思いますが、それが重要ではありません。十年でなく数十年間したといっても同じです。数日前には、地域長として十七次まで引き継いでいる人が何人かいると報告を聞きましたが、十七次でなく、百八次を受けていたならどうしますか? そんなことよりも、そこで人を中心として心酔してみなければなりません。そのようにしてみることができない人は駄目です。資格がないというのです。
神様の愛を中心として、人と人同士で会って夜を明かし、未来を語り合い、また、太陽を見つめながら、太陽に詩を詠み、あるいは流れている川の水を見つめて、何かを感じるとか、どんな文学作品にも感じることのできない感情を、人と人の因縁を通して感じてみない限り、神様の息子、娘になることはできないのです。それを感じながら生きてこそ、人としておもしろみがあるのです。
世間で何か大きなことを一度してみようとするならば、大きな心をもって、そこに対して準備をたくさんしなければなりません。人は準備がなくては、大きな目的を成し遂げることはできないのです。ですから、目的が大きければ、そこに対備する大きな準備が必要です。長い期間の試練と、あるいは鍛練を経た準備が必要だというのです。準備がうまくできなければ、成功できる時が来ても、その目的を達成することはできないのです。
昔からずっと英雄、烈士たちが、この地上に多く来ては去っていったけれども、その英雄烈士たちが国家的な仕事や、あるいは世界的な仕事を成就するには、必ずその成就され得る環境的な基盤を磨かなければならなかったというのです。環境的な基盤を磨かなければならなかったのです。また、どんなに環境の基盤ができたとしても、神様がいて、時を合わせてくださらなければ成功することはできないというのです。環境とこの天運、そして時というものが必要だというのです。時があるというのです。(一五六・九)
では、飛行士一つになるためにも何十年を……。宇宙飛行士になるためには、費用をどれほど多くかけて準備しなければならないでしょうか? また、それに対する知識がどれほど豊富でなければならないかというのです。「ただ単に、統一教会でも既成教会でも、私たちアメリカの生活でも、ただそのまましながら行けばいいのではないか」という人は、許すことができないということを知らなければなりません。私たちは、死の障壁を突き抜くために、死の障壁を撃破するために行くという事実を知らなければならないというのです。それなのに、寝ることができますか? 自分の思いのままにできますか? できないというのです。しっかりと原則的な基準を立てて行かなければならないというのです。(一二四・一七九)
A牧会者がもたなければならない誇り
私が来たのは、皆さん方を滅ぼすためではありません。皆さん方を苦労させるために来た人ではありません。皆さんの家庭を、世界を助けるために来たのです。皆さんの息子、娘が、世界の息子、娘として歓迎を受けられる日が、皆さんがこの峠をすべて越え、世界万民が涙をのんで私たちを呼んで歓迎することのできる時が来ることを私は知っているので……。
私は独り寂しい六十年の生涯を歩んでくる間、天を信じ、天を知り、間違いない事実であることを知るようになったのです。今は、私は独りではありません。世界に同志がいます。世界を指導する数多くの人々が私の行く道をあがめ慕い、しっかり闘ってくれと願い、先頭に立ったことを分かってくれているので寂しくないのです。
そのような師に、皆さんは侍り、その命令の前に勇士の旗印をもって進むという驚くべき事実、これは天地の前に誇ることができることです。歴史が消える恨みがあったとしても、この勝利の席は消すことができないという信念をもって涙で誓い、前進する時には、必ず神様が共におられるということを皆さんは感じるのです。生きておられる神様を発見するのです。(一六六・一七九)
皆さんは注目の主人公たちです。見るに足りない皆さんですが、皆さんは注目の主人公たちです。「たとえ私の手には何もないけど、この手を通して世界に向かうことのできる道が連結している。私のすべての視線を通して神様の視線が連結されている。私の感情を通して心情の根が連結されている。私が行く一生の行路を通して、天の摂理の方向が駆け回る。私の五官を通して感じられる感覚、感性は全部、天が注目する主人公として感じる感性である」という自負心をもたなければなりません。
膨大であり、大変な歴史的終末時代において、その誰よりも信任することのできない孤独な立場におられる神様の前に、私たちが信任の対象になることができるとするならば、それ以上願うことがありますか? それ以上願うことがあるかというのです。死んでもいいというのです。私の肉身が水になって流れていっても何の恨みがあり、粉となって飛んでいっても何の恨みがあるかというのです。この世には犬や豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。死んだ者は犬も食わないというのです。(六二・一四〇)
公職で仕事をするのは、父母の身代わりとして仕事をすることです。ですから、工場で仕事をすることが重要なのではないのです。勝共連合で仕事をすることが重要なのではないのです。どんなことが重要なのですか? 教会の地域長、地区長、父母の版図を広げていく伝統的な路線で仕事をしていることが何よりも重要なことなのです。(四四・一四五)