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第一節 牧会者の祈祷
一 牧会者の祈祷
1 祈祷しなければならない理由
人間が堕落しなかったなら、救い主も必要なく、宗教と祈祷も必要ありません。救い主が必要で、宗教と祈祷が必要になったのは、堕落の結果だということを知らなければなりません。(一九七四・三・九)
祈祷をなぜしなければならないのですか? 縦的な心情圏に対して、自分が横的に九十角度の位置に立たなければなりません。これを誤ってはいけません。そこに立って、縦的な刺激を受けることにより、そしてその衝撃が大きければ大きいほど、その基準によって自分の球形が展開するのです。こうなれば、こんな球形になるのです。一〇〇パーセント授け受けする円形が展開するのです。
ですから精誠をささげなければならないのです。これが行ったり来たりしてはいけません。そういう立場でびしっと祈祷するのです。「私がお父様にどのように侍りましたか? 私が父母に侍る場合、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか?」と言うのです。それは直ちに分かるのです。自分の涙が、どこまで流れ広がるのかということです。これが公式なのです。堕落した人間が天の父母に侍るのに涙がないなら悔い改めなければなりません。清算しないとその環境が再創造されません。失ってしまったから。何のことか分かりますか? (はい)。
国を思うとき涙があふれ、世界を思うとき痛哭が起こりますか? 問題はそこにあるのです。天がそうしているのに、主体がそうしているのに、横的基準がその同位圏に立たないといけないでしょう。同参圏に立たないといけないでしょう。相続圏に立たないといけないでしょう。一体にならないと不可能なのです。(一七一―一九)
自信をもって責任者になるのではありません。分かりますか? 自信はないのです。先生も自分に自信があると思ったことはないのです。自信よりもまず神様が好きで、神様が探ねていくその人を好きになるべきことを知ったので、ぱっと仰ぎ見て、その心情をどうやって抱いて出ていくか、それが問題だったのです。その心情さえ通じるようになればうまくいかないことはないのです。好きな人を良くしてあげられるし、悲しんでいる人を慰労できる心がなければならないことを知らなければなりません。
おなかがすいた時の御飯ほど、神様が好きでしたか? そのぐらい好きでなければならないのです。おなかがすく時も、御飯にすがって神様を求められるし、おなかがすく時、御飯を手に握り締めて愛する食口を呼ぶことができるし、その人がどうなったかと心配できる、こうでなければならないのです。そうなってみなさい。御飯を食べない、そうしてみなさいというのです。もしもそうなって御飯を食べないようになると、その村中は廃虚になるのです。崩れ落ちるのです。
ですから、神様が愛する人はどこへ行っても御飯が食べられないことはないのです。分かりますか? 先生はまだ御飯のことを考えたことがないのです。「自分もお金をもうけて生きないと」、そうしたことがないのです。そうかといって御飯がないのですか? どこへ行っても御飯は待っているのです。そうでしょう? イギリスへ行っても、どこへ行っても……。
皆さんがそういう責任者として、本質的なこの原理的軌道をどうやって行くべきか、ということを知らなければならないのです。ですから祈祷をしなければなりません。神様と私との関係、神様は私をどのぐらい好きなのでしょうか? また、食口のために精誠をささげなければなりません。私が食口と一緒にどのぐらい関係を結ぶのでしょうか? これが丸くなるように……。そのために祈祷しなければならないのです。
一日に御飯を食べる時間がどれぐらいになりますか? 一時間半はかかりますか? 一時間半、一時間半はかかるでしょう? (はい)。平均、一日に一時間半は御飯を食べて暮らしていますからね。霊的なそれは、御飯を食べる時間よりももっとたくさん投入しなければならないということです。もっとたくさん投入しなければならないというのです。それは先生が今まで経験してきた長年の信仰生活から分かったことです。(七〇―一七一)
今日、私たちが行くべき道はどちらにせよ切り開くべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能なことを感じるのです。ですから信仰者は祈祷しなければならないことを知るべきなのです。(一九七五・五・五)
皆さんが一日生活するのに、最も重要で必要なこととは何でしょうか? 祈祷生活です。祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を選り分けなければならないのです。(一九―一四六)
祈祷というのは目的の完成のためにも必要なのです。(九―一九七)
2 祈祷の内容と順序
祈祷をする時は、まずこの国とこの民族のためにし、次は統一教会のために、その次には代を継ぐ後孫たちのためにしなければなりません。(一九六八・一一・一四)
皆さんは、一番初めに国のために祈祷しなければなりません。その次には世界のために祈祷し、その次には神様の解放のために祈祷しなければなりません。神様が安楽な所にいらっしゃると思いますか? 自分がなすべきことが何かも知らず、世の中の運勢がどのように回るかも知らないで「おお、主よ、私を天国に送ってください」と言っています。(一四―六五)
今日、皆さんは自分たちの息子、娘のために祈祷する前に、まず天にいる、今まで苦労した先祖たちのために祈祷しなければなりません。自分がいい暮らしをすることを願う前に、この地上に人類がより良く生きることを願う心をもたなければなりません。自分が踊りを踊る前に、まず嘆息圏内にいる万民を見て、気遣うことができなければならないというのです。また、うれしくても喜びの表情をつくれず、楽しくても楽しいという行為を表せなかったイエス様の事情を身代わりできる心を、皆さんはもたなければなりません。(四―一二五)
自分の利益のために宗教を信じる人は、福を受ければ神様を捨てます。福を受けるのが目的だからです。少し暮らせば落ちていってしまうのです。皆さんは、神様が願うのは何かを見つけてさしあげよう、という観点から祈祷しなければならないのです。そして、世界に福を下ろしてくださいと祈祷しなければならないのです。(一九八三・五・一)
信仰者は、より大きなもののために、公的な祈祷をしなければなりません。(二八―二七一)
かわいそうな民族にすがって泣く者は民族の福を受け、かわいそうな教団にすがって泣く者は教団の福を受け、かわいそうな世界にすがって泣く者は世界の福を受けるのです。(一九五八・四・六)
皆さん、霊的な体験がある人は、祈祷する時に自分のための祈祷は最後にするようになります。神霊の世界に入って祈祷するようになれば、誰のために祈祷するかといえば、まず神様のために祈祷します。そうなるべきではありませんか? 主人に会う瞬間、主人の福を祈らなければなりません。そうしてからは、イエス様のために祈祷することを知ってこそ歴史的心情が分かります。その次には、天地創造ののち、今までキリスト教界の素晴らしいみ旨を身代わりして闘ってきた数多くの人たちに代わって、祈祷してあげなければなりません。堕落以後、アダム、エバから今まで数多くの預言者たちが歩んだ道を一歩一歩歩みつつ、「彼らに積もった恨みを解怨する祭物に私をしてください」と言って、これがすべて終わったのちに、愛する息子、娘のために祈祷し、その次に自分のために祈祷するのです。天法がそうなっています。
今日、皆さんが正常な信仰路程を行く場合、世界にすがって泣き、天地にすがって泣き、民族にすがって泣き、教会にすがって泣き、自分自身にすがって泣き、最後には私に責任を与えてくださいと、このように祈祷しなければなりません。(一九五九・一〇・一八)
3 祈祷に対する応答
祈祷は必ず成就します。祈祷することによって力を受けます。祈祷することによって、今後この問題がどのように展開するかという展望をすべて教えられるのです。「こういうことはこうして、ああいうことはこうするのだ」と教えられるのです。それを知ってこそ、皆さんが大きなことをなせるのです。祈祷によってのみ、その道を開拓できるのです。分かるでしょう? (はい)。祈祷が御飯を食べることより重要だということを知らなければなりません。
先生も、複雑でそういうことよりも……。ですから自然が好きで、一人でいる時間を一番の趣味にしています。静かな夜が先生は本当に好きです。でも先生はそういう話をしないでしょう。先生にそういうことがないでしょうか? 皆さんに見えないからでしょう。そういう生活の、豊富な底辺基盤を練り固められるのも祈祷以外に道がないことを、皆さんは知らなければなりません。
その世界、その場所で愛を感じ、その場所で愛を体恤できるのであって、普通の場所では難しいのです。そういう土台の上で、自分自身が力を補強できる場所に立ってこそ皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこうやって先生が導いてあげて行くようになると、先生がいなければどうするのですか? そういう裏面の生活を備えるためには祈祷が必要だということを、皆さんは知らなければなりません。
ですから誰が見ようと見まいと、自分がなすべきことは自分がしなければなりません。私たちが神様との約束をよく守らなければならないのです。夜も昼も、全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になるのです。そうしてこそ、何年かごとに自分が願う祈祷が変わり、題目が変わりつつ発展するのです。ですから、今の時がどんな時かを知らなければなりません。そういう裏面の生活を、皆さんが祈祷生活を通して備えるべきことを知らなければなりません。分かりますか、何のことか? (はい)。
皆さんの中で祈祷する人、手を挙げてみなさい。そう、どうやって祈祷しましたか? その国とその義のために祈祷しなければなりません。(一〇四―一一一)
私の体をささげてでも、神様の前に勝利の一点を加えようという立場で祈祷をささげる時には、神様はそれに責任をもって成してくださるのです。それを成してくださるのに、神様は易しい道を歩いてこられるのではありません。神様は、皆さんが祈祷しているその場所までいらっしゃるには、多くの段階を経なければなりません。皆さんが神様と同じ悲惨な立場に立つようになれば、初めて神様は直接活動できるのですが、それ以外には、神様は直接活動できないのです。すなわち、自分自身が犠牲になる立場や、傷つく立場に立っているとしても、自分の真実の心が神様が願われる立場に立つようになれば、神様が自分を認めてくださるようになり、また同情なさるようになるのです。こういう心情でいらっしゃる方が神様だという事実を知らなければなりません。(一八―二六九)
4 お父様の祈祷の境地
先生は説教する前に説教のために祈祷する時間よりも、食口のために祈祷する時間を多くもちます。「お父様! 彼らを導き、引き上げなければなりませんが、どうすればいいですか? これですか、あれですか?」と言って精誠を集めたのち、心の命令のままに説教するのです。(九―八一)
先生は精誠をささげることにおいて、誰にも負けません。心情的な面においても、与えれば全部与えたのであって、絶対に受けません。今後責任者たちは、自分が負っている責任に対し、心情的条件だけでも立てなければなりません。そうしなければ、統一教会は絶対発展できません。(一六―三〇九)
先生がしばし祈祷する時は、統一教会全体の人々は先生にすっかりほれ込んで、市場へ飛んでいったと思っても、すぐやって来ます。そのようなものです。市場へ行くという人が全部教会へ来て、男性も女性もみな精神が飛んでいってしまったのです。私がそうしたのではありません。愛がそうしたのです。見れば無性にいいのです。なければ足袋一足を売ってでもあげたいのです。あげてももっとあげ、もっとあげ、もっとあげたいのです。何がそうしたのですか? 愛がそうしたのです。あげてあげてあげてしまえば、あげるものがまた出てくるのです。分かりますか? 四方にあげてみると、のちには自分が座れる場所が生じるというのです。高い場所が生じるのです。(一二一―二三一)
皆さんは思慕する心情、欽慕の心情を備えた食口たちにどのぐらい会いましたか? 先生はおびただしい数のそういう人に会いました。地の果てから探ねてきて、先生に敬拝するではないですか。それはなぜですか? 先生が地の果てまで愛の心情的網を投げたので、既に電気を通してみたので方向を知っているのです。あなたたちは本当に気の小さい度量の狭い男性たちです。先生が褒めてくれると思って来たでしょう? 褒めてもらおうとして来たのですか? 怒られに来たのですか? (怒られようとやって来ました)。とがめるのではありません。説明だけ聞くために来ました。事実そうではないですか?
先生がこの道を築くために、座って綿のズボンとチョゴリが全部ぬれ、水が流れるほどに祈祷しました。涙を流したのです。一日に十七時間、二十時間まで祈祷しました。そうやって暮らしました。そうやって見つけた道です。それをあなたたちがそんなふうに、無価値なもののように相続できますか? 同和的心情圏が一つの基準に結ばれなければならないのです。天と地がそんなふうに、別の拍子で浮気しますか?
ですから統一教会の伝統を知らずに生きたというのです。統一教会を知らないでいるのです。統一教会の先生を知らないでいるのです。無価値なこの者たち……。
私は無価値な人ではありません。先生という人間は歴史に一度しかないのです。また会えますか? また会えると思いますか? また会えますか? (会えません)。歴史始まって以来初めて生まれ出たのです。皆さんがこの時代において先生に会ったという事実は、宇宙を与えても換えられない貴い事実です。貴い宝物をむやみに取り扱ったのではないか、というのです。その人の提唱することは何で、その人の行く道がどこか、というのです。今いる環境や世界に対して何かを感じ、飛んでいく鳥も私のために何かを暗示していることを感じなければなりません。心情圏がそうでなければなりません。すべてに同参的な価値を認め、あなたと私が和談できなければなりません。級は違いますが、上だから高いのではなく、下だから低いのではありません。同和できる価値の内容で天が公認できなければなりません。その内容は、心情の因縁を経なければ公認できないことです。(一七一―三二)
皆さんは祈祷する時、涙を流さなければなりません。先生が一番初めにこの道を出発した時が、一九四四年、一九四五年です。その時は上道洞教会で教会員たちを指導しました。その時、教会の祈祷する場所の床が乾きませんでした。何のことか分かりますか? 床が……。涙を流さなければなりません。こうなると、その教会は夜も昼もいつも天が共にあるのです。
皆さんは今、み旨のために行くにおいて、一日に何度も自分でも知らずに止めどもない物悲しい心情に浸り、天に反映する心情がいつも結ばれていなければなりません。先生は今までそういうものをもってきました。皆さんは知らないけれども。
天が共にあるかないか、考えてみればすぐに分かるのです。そういう何かがあります。誰かが話す時、志ある言葉を語れば心がすっと引かれていきます。それが分かって当然です。(五六―六一)
先生は神様の前に綿のズボン、チョゴリが全部ぬれるほど祈祷したことが何回あったか分からず、刀を持って腹を刺し、誓ったことが何回あるか分からず、死の峠を越えつつ心を固く固めたことが何千万回あったか分かりません。(一九―一九)
皆さんは今、地上天国の主人たちですか? 精神を引き締めて祈祷しなければなりません。先生は昔祈祷する時、床が乾いていたことがありません。三年の間床が乾かなくて、今もそうですが、擦れた皮膚が固まってしまいました。天は、世間のやることと共になく、深刻な場所で動くのです。(一九七四・二・九)
皆さん、先生は一九五七年、その時初めて私たちが百二十カ所を選定して伝道しに行ったのですが、その前までは、祈祷室に入り夜も眠らなかったのです。その時の人々は知っているでしょう。夜中の二時が普通で、三時、四時まで眠りませんでした。平均二時間眠りました。いつも精誠をささげたのです。そうでなくては基盤を整えられないのです。世界的基盤を整え、国家に一つの礎石を置こうとするならば、精誠をささげて、多くの人が私の手足となれなければなりません。(五六―五〇)
5 食口のための牧会者の祈祷
牧会者は、三日に一度ずつでも食口たちのために祈祷してあげなければなりません。先生は興南監獄で三年に近い歳月を過ごしましたが、その中でも何名かの食口たちのための祈祷は、御飯を食べる時から寝る時まで毎回してあげなかったことがありません。たとえ落ちてしまった食口でも、彼のために続けて祈祷してあげました。すると霊的に先生を訪ねてきて、落ちてしまったことを物悲しげに涙を流し報告するのです。肉身が弱くてどうしようもなく、先生と離れなければならないとあいさつして離れていくその悲惨な情景は、同情せざるを得ないものです。そうして離れていっても、その人のために続けて祈祷してあげなければなりません。
なぜですか? その人が責任を果たせずに行ったので、その継承者が出る時まで祈祷してあげなければならないのです。そういう精誠の土台さえ残っていれば、いくら食口が落ちていったとしても、神様が必ず志ある人を送ってくださるのです。
それゆえに、食口が落ちていったといって絶対に失望してはいけません。実に不思議なことは、食口が落ちていくとその人に性格もよく似た、話すこともよく似た、歩く様までもよく似た人が入ってくるのです。どういう面から見ても不思議なほど、落ちていったその人とあまりに似た人でありながらも、すべての面でずっと優れた人が入ってくるのです。そういうことを見る時、精誠をささげたことは失われないということが分かります。これは間違いない事実です。
私たちはどんな人に会っても、会っただけで終わってはいけません。まして天を中心にして会った人ならば、絶対その因縁を忘れてはいけません。その人が教会に来ていたが来なくなった、といって切ってしまったり呪ったりしてはいけないのです。その人が落ちてしまったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。
私たち統一教会が韓国のためにささげた精誠の基準が、天が公認でき、世界と関係を結べる立場になっているか、ということが問題です。そうなっていれば心配することはありません。そういう基準さえ立っていれば、人がいなくても世界的に収穫を収められるので、絶対損をしないのです。
ですから責任者の精誠とは恐ろしいものです。先生は過去に三千万の民族を前にして、額を地につけ、血と涙の祈祷をたくさんしました。今後、先生と皆さんの精誠が神様の前に認められる日には、三千万の民族は間違いなく私たちのところへ入ってくるでしょう。そうなれば韓国の運勢は、一つの主体者を中心に回るようになるのです。(四二―一六三)
精誠をささげる時には、何人かの人を立ててささげるよりも、一人一人を立ててささげるほうがいいのです。幾人かの人を立てて精誠をささげるのと、一人一人を立てて精誠をささげるのとでははっきり違います。東西南北が違うというのです。ですから主体がいれば一つの対象を決定し、その対象を中心にして線を引かなければなりません。そうしてこそ四方が描かれるのです。その四方が描かれる時までは、対象と絶対的関係をもたなければなりません。そうしてこそ円い円が描かれるのです。
では信徒たちの中で、果たしてそうできる人がいるのでしょうか? これが問題です。原理どおりに考えなければなりません。ですから、一度に多くの人を伝道しようとしないで、一人から考えなさいというのです。第一対象がいてこそ第二対象が生まれるのです。(四二―一六五)
祈祷団の基本的形態は、婦人たち四名ずつ、三つの班十二名を一つの組とし、ここに男性も相対的に同じ数の祈祷の組を組織し、二十四名が熱心に祈祷すれば大きな問題が起きるのです。(一九七〇・四・二三)
その一人の命のために、父母の心情をもって涙を流し、祈祷してみてください。そうすれば間違いなく伝道されます。そうして一カ月に一名ずつ伝道すれば、私たちが一万名なら一年が過ぎれば何名になりますか? 十二万になります。二年なら百二十万になり、三年なら千二百万になります。こうして毎年十倍ずつ食口が増えるようになるのです。そうなれば韓国復帰は問題ありません。これを思いつつ、一カ月に一名を目標にして総進軍しなければなりません。(二二―三四二)
三人を立てて精誠をささげれば一人は入ってくるようになっています。今の時がそうです。そう思って皆さんは一年十二カ月の計画を立ててみなさい。ある月は第一候補が誰、第二候補が誰、第三候補が誰、こうして組むのですが、ここにはお母さん、お父さんも入っているし、お姉さん、妹もみな入っています。妹だったら「じゃあお前、行こう」。そうできます。何か事情を聞いてあげることがありますか? そっと誘って駄目なら、ぶってでも連れてこいというのです。(二二―三四五)
重要な問題は祈祷せよというのです。祈祷をするのです。「私が神様を解放するというのだから、神様は私に頼まないといけないでしょう? 人類が私に頼まないといけないでしょう?」。そう考えなければなりません。そういう考えが必要です。それがどういうことか分かりますか? (はい)。ですから私たちが今までもっていた慣習を全部整理して……。(一二八―一七四)
6 中心に向かう祈祷
地域長は本部のために新たに精誠をささげて祈祷しなければなりません。六〇年代より七〇年代はもっと良くならないといけないでしょうか、悪くならないといけないでしょうか? もっと良くならなければなりません。(二九―七八)
今後先生の計画に、皆さんが祈祷してくださるよう願います。(一九七四・二・九)
皆さんは先生のためにどれほど祈祷し、またどれほど会いたく思いましたか? 心から会いたく思い、心から祈祷し、心から慕ったなら、それはこの体を見ることだけが問題ではありません。(二三―五二)
神様の前に精誠をささげる指導者にならなければなりません。そういう指導者がいれば、その国は滅びません。(二四―二八)