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天の行く道が悲惨な道であったので、モーセについていく人々も悲惨にならざるを得ませんでした。イスラエル民族の行く道も悲惨でした。モーセの行く道も悲惨でした。パロ宮中四十年以後に、イスラエル民族の側に立ったモーセは、宮中から追い出され、イスラエル民族の前に自分の姿を現すことができない運命となり、ミデヤン荒野で牧者の生活をするようになりました。彼は食べ、住む生活において、悲惨な生活環境に追われたのです。(六四―二一〇)
彼が宮中を去り、ミデヤン荒野で羊を飼う牧者生活をしながらも、秘めていたただ一つの思いとは何でしょうか? 彼は、「イスラエル民族の側に立ったために、このようなことになった」と、落胆はしませんでした。自分がこのようになったのは、イスラエル民族のためだとは考えませんでした。モーセが神様の信任を受け得る動機がここにあるのです。失敗はイスラエル民族にありましたが、私がこのようになったのは、神様のためにこうなったのであり、私が孤独を感ずるのは、神様の孤独を代わりに責任をもつために感ずるのであり、私が犠牲となるのは、神様の悲惨さを防御するための盾として犠牲になるのだと考えたのです。このような心情で四十年間羊を飼い、群れを率いて回る時、狼の襲撃がどうしてなかったでしょう、毒蛇の群れの脅威がどうしてなかったといえるでしょうか? しかし、どんなに危険が加重され、孤独と嘆きが吹きすさんだとしても、私がこのようになったのは、イスラエル民族のゆえではなく、神様のゆえだと考えました。このように偉大な内的覚醒をしたモーセは、「神様のみ旨が成されるその日まで、私は忠誠を尽くす」と思ったのです。
そのようにして、神様のみ旨を受け継がなければならないイスラエル民族が彼に対したのです。彼は「私がイスラエルのためにこうしていで立ったのは、結局神様のみ旨のためだった」と思いながら、自主的な権限をもって民族の先頭に立ったのです。多くの民族があるとしても、その民族の前に立つために、堂々とした、内外の心的態度が備えられたモーセでした。
十年の歳月が過ぎ、二十年を経て、三十年、四十年の歳月が流れた時、モーセはパロ宮中の四十年間の豪華な生活の中で目的もなく過ごした過去のことを回想しながら、「パロ宮中を欽慕する自分となっては駄目だ」と思ったのです。
自分の前に近づいてくる受難の道が加重されればされるほど、パロ宮中で生活していた以上に自分が願っている神様の願われる国、一つの天地に号令できる一つの宮中を、欽慕するようになったのは明らかなことです。イスラエルの王権を中心として、イスラエル民族が解放される日、万民が高らかにこの権威をたたえ得る世界的な主権国家を欽慕しただろうというのです。
誰でも、彼の思想に主管を受けることを堂々としたものと思い、十二支派の後孫として生まれたイスラエル民族と自分の先祖たちの伝統を引き継ぎ、深い精誠を昔から受け継ぎ、特権的な権限をもった人々もモーセの思想と伝統とその立場に従っていかなければならないので、モーセをイスラエルの代表として神様が命令されたのではないですか。皆さんは、それを知らなければなりません。(六四―二一三)
それでは牧者としての四十年間の生活は何であったのでしょうか? イスラエル選民を率いるための準備生活であったので、四十年以上の受難の道が前にぶつかってきても、それを克服できる力を育てる鍛練と試練の期間として神様は考えたのです。そのために、モーセをもう一度立て、イスラエル民族の前に送ったということを、皆さんは知らなければなりません。
では、モーセが孤独な立場で、神様の祝福の因縁を引き継いで進んでいけたのはなぜでしょうか? 希望のイスラエル国家を愛し、希望のイスラエル国民を保護することを、自分の生活環境を越えてあすの希望の帆のように、彼の心の中に追求の対象としていたので、困難な四十年ミデヤン荒野も無難に過ごすことができたということを、皆さんは知らなければなりません。
万一、そこで少しでも自分の過去のことを思っていたなら、すぐに宮中の豪華な生活を夢見、その環境を慕わしく思い、自分の環境と比較してその差が多ければ多いほど悲しくなったでしょうが、そのことを夢にも思わない立場に立ったモーセだったので、捨てられた立場からもう一度、イスラエル民族の主人の立場に呼ばれ得る因縁を結べたのだということを、皆さんは知らなければなりません。
外的に見れば、モーセは完全に時を失った人のようになったのです。パロ宮中で時を失い、ミデヤン荒野で四十年間も天の前に時をもつことができない男性のように、孤独に生きてきました。しかしモーセは、時を待ち焦がれ、天が約束したその日を待ち焦がれていくイスラエル民族を救ってあげようとする心と、失った時と環境を克服して越えていくことのできる忠烈の操が残っていたので、イスラエルをもう一度一つにすることができ、イスラエル国家を救ってあげることができたということを、皆さんは知らなければなりません。
そのことをなすにおいては、他人では分からない内的心情が、どれだけ神様と近い場所にいなければならないでしょうか? 神様がその心情に従い、同情せざるを得ない深い縁が背後で結ばれていたのです。しかし、そのような立場に立った人は、必ず天を代表する一つの時を迎えるようにしてあげるのが天の責任であり、また迎えなければならなくなっているのが天のみ旨だというのです。(五七―三〇一)