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アブラハムを見てみましょう。アブラハムは、偶像商の息子です。豊かな生活をしているアブラハムに神様は、「おい、アブラハム、お前の家から出てこい」と命令されました。するとアブラハムは文句を言うこともなく、どこに行けば豊かに暮らせるという保証も受けずに、自分が住んでいるカルデアのウルを、すべて捨てて去ったのです。それで、どうなったのかといえば、国境を越えるジプシーとなったのです。
神様が出てこいと言われれば、出ていくのです。出てきたあとには、どんな困難なことがあっても、出てきたことを後悔したり、神様に対して恨んだりしてはいけないのです。恨みをもてば、再び堕落したアダムと同じ立場に帰ってしまうのです。
アブラハムはアダムより、もっと絶対的に神様を信じなければなりません。そして、神様と一つにならなければならないのです。そうしてこそ神様の愛を受けるようになるのです。アブラハムは、神様がどんなに引っ張り回しても、恨むことなく感謝する心をもっていったので、神様も彼を愛され、彼に、「お前の子孫は、天の星のように、地の砂つぶのように繁栄するであろう」と、祝福してくださったのです。(五三―四三)
アブラハムを見てみましょう。神様は偶像商である彼の父親から、彼を分立させました。彼は、家族、祖国、物質的な富、そして、すべてのものを捨てなくてはなりませんでした。そのように、サタン世界から彼を断絶させることにより、彼は、カナンに入っていくようになったのです。神様は、彼を鍛練し、彼をして、彼自身の民族だけでなく他の民族、さらには怨讐のためにも泣くことができるようにさせながら、摂理を発展させました。
神様は、彼に祖国を離れ、他国に行くようにさせながら、このことをなされたのです。彼は、ジプシーのように流浪していったのです。彼は、いつも切実な心情で泣き、祈祷し、神様が自分の祈祷を通して人々を救ってくださることを願いながら生きました。それで神様が、彼の子孫たちが天の星のように、地の砂つぶのように繁栄するであろうと、祝福されたのです。
聖書を見ると、私たちは、神様がアブラハムを祝福され、彼を無条件に愛されたような印象を受けます。しかし、そうではありません。アブラハムは、愛する家族、祖国、物質的な富、そしてその他のすべてのものをあとに残して、神様が選ばれた未知の地に行き、いつも神様と人々のために涙を流すことにより、サタンから自分を分立しなければなりませんでした。彼は民族のために多くの祈祷をし、国のために多くの苦痛を受けたのです。
そのような条件を通して神様は、アブラハムを信仰の祖先として立てることができ、また数多くの後孫が繁栄するように祝福できたのです。このような内容は、聖書には記録されていませんが、神様が彼に祝福を与えたのは、そのような背景があったからなのです。(五二―五三)
アブラハムもノアと同じです。偶像商の息子アブラハムは、サタンが一番愛する人でした。しかし、神様は賢く愛らしいこの息子を奪ってきたのです。アブラハムが願ってきた世界は、彼の父親の思いとは違いました。怨讐の息子ではあったけれども、考えることがその父とは違っていたのです。アブラハムは、自分の家族のためだけでなく、未来のイスラエルを心配する心をもっていたのです。そのようなアブラハムを神様が奪ってきたのですが、どのようになったでしょうか? 成長していた時には、彼の家族や親戚が、自分の味方だと思っていたのに、そのすべてが怨讐となってしまったのです。その上、自分の国と氏族から離れ、自分の父母に反対してからは、アブラハムの行くことのできる家がどこにあり、親戚がどこにあり、国と世界がどこにあるのかというのです。それこそ、一人残されたのです。そのためにアブラハムは、行く先々で試練と苦痛を受けるようになったのです。エジプトに行った時には、パロ王が彼の夫人を奪おうとしたり、どこへ行っても追われる身となったのです。(一八―一六〇)
嘆かわしい悲惨な歴史を収拾するために、神様はアブラハムを選ばれ、流浪の生活をさせたのです。そのようにしてアブラハムは、情の染み込んだ地、故郷をあとにして、旅人の路程を歩まなければならない悲惨な運命の道を選ばざるを得なかったのです。
ですから、アブラハムの行く道は、悲惨な道でした。国境を行ったり来たりしなければなりませんでした。ジプシーの隊列に入らなければなりませんでした。異邦の地で、よそ者の身を免れることができませんでした。それだけでなく、パロの悪賢い計略によって、自分の妻を奪われ、自分の一族が孤立する状態にまで追い込まれました。(六四―二一〇)
しかし、そのように追われる行路でも、アブラハムは自分の父母と親戚から愛を受け豊かに生きることよりも、イスラエル民族が自分を呼んでおり、幸福の基盤が自分を求めているということを切実に感じていたので、ジプシーの行路でも夜空の星を見て、ただ神様に願ったことは、望みの天国に行かせてほしいということだけでした。
そのために神様は、アブラハムに祝福をしてくださったのです。彼の前に近づくつらい苦痛と困難な環境は、他の人であれば、自分を呼び出した神様を背信し、自分の立場を嘆くようなものでしたが、アブラハムはそのような立場でも、神様とさらに深い因縁を結び得る心情で侍っていったので、彼の前には幸福の門が開くようになったのです。(一八―一六〇)