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人類が堕落したその時から今までの歴史は堕落の歴史であることを知っています。その堕落の歴史は神様が主管されるのではなく、サタンが主管しているということを我々は知っています。
この世の主人は神様でなければならなかったのです。神様と愛の関係を結んだ直系の子女、その子女たちで構成された家庭を主として氏族が編成され、国家が成立し、世界ができていたとしたなら、それが、神様が主管できる世界であり、神様が主管できる国であり、神様が主管することができる家庭であり、神様が主管することができる個人になったことでしょう。ところが、人間が堕落することで個人から家庭、氏族、民族、国家、世界全体が神様と反対の立場に、神様を怨讐視する立場に立っているのです。これが堕落の歴史であり、堕落の世界だということを知っています。
この世界をこのままほっておけば、神様が立てようとされた創造理想である永遠の愛の世界を成すことができないので、絶対者であられる神様は、立てられた創造理想を実践させてこそ、神様の本来の権威をもつことができるのです。そこを標準として、悪なる世界を収拾し、本来理想とされた本然の世界に導いてこられたのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理なのです。(六三―一五二)
この地上には、堕落主権の国は多いのですが、神様が望まれた国はありません。神様は、神様のみ旨を成すことができる国を立てるために、人間が知らない間に歴史を通して時代を動かしてこられました。
神様は一つの個体を通して、家庭と社会と国家と世界を主管しようという望みをもってアダムを造られ、完成に向かって育ててこられたのです。ところが、アダムが堕落することで一から始まった歴史は四分五裂に乱れてしまいました。これを収拾し、連結させてきたのが救援摂理歴史です。
アダムはすべての人間の先祖なので、アダム個人を失ったことは全体を失ったのと同じことですから、これを探し立てなければなりません。再び立てる、その一人のお方は氏族と民族と国を放棄しても、それを忘れて神様のみ旨のためだけに進んでいくことのできる人でなければならないのです。
ノアは民族的な環境に置かれていても、そこに属することを願わなかったし、国に属していても、その国にかかわらないで、自らの望む国を探し求めました。望む国を探し立てるために、彼は与えられた試練と逆境を乗り越えなければなりませんでした。ノアには親戚も民族もありましたが、それよりも神様のみ旨を追求していった人です。
ノアに対する神様の望みは、その国とその義を求め、個人的な環境を屈服していくことでした。彼が春夏秋冬一日も休まず、百二十年の試練の過程を越えるその苦労はどのようなものだったでしょうか。家庭がノアを捨てても、ノアはどのような非難の矢もすべて受け止めて百二十年間やり通しました。その国とその義を求める前に飲み食いしたならば、それは後ですべて蕩減しなければならないという原則を、ノアは知っていたのです。
神様はアブラハムとサラを、カルデアのウルから旅立たせました。ハランが自分たちの暮らさなければならない所とも知らないまま、ただ順従な心で信じて、そこに向かっていったのです。(その途中)パロに連れていかれることになったサラは、それでもアブラハムを恨みませんでした。望みの国に向かっていく彼らの心は、どんなにむごい迫害が迫ってきても変わらなかったのです。
ヤコブは、自らに下りた祝福には望みの国と民族が約束されているという信念があったので、誰も彼の強い信念を曲げることはできませんでした。
このようにみ旨は個人、家庭、氏族へと広がり、我々の先知先烈たちは、次第に世界的な望みをかけて出ていったのです。
イエス様はイスラエルの不信と迫害で流浪する身となり、霊肉ともの願いを果たせませんでした。天地のすべての障壁を打ち壊し、一つに統一し、進まなければならない使命をもって来られた方がメシヤです。
この地を中心として構成された理念、国家は滅びても、天倫が要求する理念、国家は必ず立てられなければならないというのが神様のみ旨です。アダムに願われた神様の望みは、アダム個人にとどまるのではなく、アダムを中心とした家庭と氏族と民族と国を成すことでした。
メシヤが、それほどまでに成そうと目指した国がイスラエルの不信によって崩れてしまった時、イスラエルも滅びました。ですから、再び来られる再臨主にはアダムを完成し、メシヤ(イエス様)の使命を完成させる責任があります。彼にはアダムを完成させ、アダムを中心とする氏族、国家、世界を完成させる責任があるのです。(一一四―一四八)
神様が愛する息子、娘を地上に送り、絶対的な一つの国家を立てるための仕事を進行させてきましたが、現時点では、一つの国家を復帰できる基盤はつくられていません。そのたびに失敗したので、この地上に天の人を送り、その仕事を営ませ、推進させ、成就させるために苦労してきたのが、今までの神様の歴史なのです。(三〇―一〇)
国家基準を見てみると、今までの復帰歴史は縦的な歴史です。ですから、今の国家基準を見ると、国家は一つの形態をもって初めて世界に行くことができる基地になるのです。分かりますか。今まで、これが上がってこようとしたのですが、上がろうとして失敗すれば落ちて下りてくるのです。落下すれば、一番底まで再蕩減しなければならないのです。(七八―一五)
神様が私という個人を犠牲にしても感謝しなければならないし、私の家庭を犠牲にしても感謝しなければならないし、私の氏族を犠牲にしても感謝しなければならないのです。また、私の民族を犠牲にしても感謝しなければならないし、私の国を犠牲にしても感謝できなければなりません。そのような国が現れてこそ、世界はその国によって収拾されるのです。
ところが、個人がいくら犠牲になっても、その国が来なければ個人の犠牲は続きます。また、家庭がいくら犠牲になっても、その国が決定しなければ家庭の犠牲は続くのであり、氏族と民族がいくら犠牲になっても、その国を立てることができなければ、氏族と民族の犠牲は続くのです。
それと同様に、神様も過去の歴史路程において、その国を探すために、摂理を推進してこられたのです。ですから、国のことを考えて、国のためになることができる個人がいれば、その個人の伝統を受け継いだ家庭を通して、国のために犠牲になることができるようにし、また、氏族と民族が、その家庭の伝統を受け継いで国のために犠牲なれるようにしました。このように、その国を求めるために神様が今まで摂理を推進してこられたのです。今日、我々がこの地上に生まれた目的はどこにありますか。国を愛するためです。神様が今まで摂理されている目的も、その国を愛するためです。(三二―二二五)