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三.二次動員の役事

1 二次動員の意義

 今は第二次開拓路程です。ですから、家庭を中心にして進むのです。今が重要な時です。いつも二番目が問題となるのです。ここで皆さんは国をより多く愛するのか、家庭をより多く愛するのか、という試験台に上がるのです。自分の子供や夫をより多く愛するのか、み旨をもっと愛するのかという試験台に上がるのです。

 人間は、自分に近い立場を愛したので堕落したのです。自分を敬おうとしたので堕落したのです。国を敬い、み旨を敬う立場に立ったなら堕落しなかったはずのに、自分を第一とする立場に立ったので堕落したのです。よって、皆さんはここにおいて自分と自分の一切の家庭環境を否定して、立つことができなければなりません。そのようにしてこそ、アダムとエバを中心にして伝わった堕落の血統的な因縁を完全に清算することができ、神様を中心にした新しい次元の立場に生まれ変わることのできる基盤が築かれるのです。

 皆さんは、寝ても覚めても、ご飯を食べても夫と子供たちを思い出すことでしょう。目を閉じさえすれば、お乳を上げて残してきた子供の姿がちらつくのです。夫が朝から晩まで話していたことが、耳もとでぐるぐる回るのです。あるいは、夢にも現れることでしょう。「なぜ私を捨てて寂しい所に行っているのか、私は寂しい」という姿が、夢の中で見えるのです。

 皆さんはそのような環境がぶつかってきたとしても、あるいは、そのような環境に追われたとしても、断固として国とみ旨のために、そのすべてものに勝っていかなければなりません。エデンの園で女性がみ旨に従えなかったことによって天国を破綻させてしまったので、皆さんがみ旨を尊重することによって天国を創建しなければなりません。天国を創建する際に、先頭的責任を果たすべき女性の高貴さを決定できる時が、まさしく今回の動員期間であることを知らなければなりません。

 一九七〇年度において、祝福家庭の主婦が動員された原因がどこにあるのでしょうか。イエス様が三年路程を行く途中で、女性をしてみ旨を成し遂げることができずに民族を失ってしまい、国家を失ってしまいました。ですから女性たる皆さんは、イエス様の三年公生涯路程の恨を解くために、三年路程を満たしながら、彼が失ってしまった民族と国家を取り戻し、世界まで取り戻してさしあげられる基盤を準備しなければなりません。

 そのようにして初めて、イエス様が願い、待ち焦がれた新婦の基準を立てる立場に立つのです。そのようになって初めて、自由奔放な場所で解放を謳歌することができ、天国を中心にした平面的な基準の前に、新しい家庭の出発を見ることができるのです。これは原理的です。それゆえ、一九七二年度まで三年間、開拓の道を行かなければならないのです。

 今この時は、先生が北韓で三年間牢獄生活をしたのと同じ期間です。先生は牢獄生活をしましたが、皆さんは牢獄生活ではありません。皆さんは自由な南韓の地で、先生が北韓の地で二年十カ月間、牢獄生活をしたのと同じ道を行くのです。この期間は、天が祝福してあげることのできるキリスト教とキリスト教の女性が先生を敬い尊ぶことができなかったので、先生が受難の路程を行かなければならなかったことを、全部もう一度解いて越えることができる重要な時期なのです。このことを知って、み旨を中心として、国のためにあらゆる精誠を尽くす皆さんとならなければなりません。(三六―一五三)

 イエス様が三年期間において、その氏族的な家庭を一つにしてユダヤ教を抱けなかった恨みを解いてあげなければならないのです。

 では、その恨みを解けなかったのは誰のせいでしょうか。女性のせいです。新婦がいなかったというのです。そうでしょう? 個人的な新婦、家庭的な新婦、氏族的な新婦です。このような恨みを解いてさしあげることができなかったので、これを再度蕩減復帰するためには、統一教会で個人的な、家庭的な、氏族的な恨みを解いてさしあげる女性の使命を果たさなければなりません。これが三年間、千二百名を動員したことの意味です。何の話か分かりますか? (はい)。(五八―一四一)

 一九七一年を期して祝福家庭の婦人を動員したのは、とても大きな意義があるということを皆さんは知らなければなりません。この動員自体だけを見れば、家庭の破綻であり現実の否定です。現実的には損害です。すべてのことにマイナスをもたらすように見えるのです。

 しかしながら、これを否定することができる動機が何でしょうか。これは過去のための否定ではなく、未来のための否定です。現実に残されるものは、徹頭徹尾未来の内容が現実に錨を下ろすからです。この現実は未来の基盤の上に立つのです。それゆえ、大韓民国が現実とともに滅びる恨があったとしても、未来のための錨をもっており、未来の基盤上に立っている統一教団は滅びません。(四二―一九五)

 三千万の民衆が寝入っているこの地上に、主人がいないこの荒漠とした砂漠のような三千里半島の上に砂漠の台風が吹いてくれば、すべての沃土が一時に砂の山と変わってしまうことでしょう。この国がこのような危険千万な立場に置かれているという事実を知っている我々は、この国のために統一教会をそっくりそのまま犠牲にするのです。ですから、これが善ですか、悪ですか。(善です)。ひたすらあなたの生命を捧げなさいというのです。死ぬまで忠誠を尽くしなさいというのです。

 人間にとって最も貴重なものは何ですか。生命と愛です。ですから、自分の生命よりも国をもっと愛し、自分の子供よりも国をもっと愛しなさいというのです。そのような国を切り離すという天法はないというのです。それほど愛する人がたったの一人でも、そのような家庭がたった一家庭でもあれば、この大韓民国がどんなに共産党の脅威を受けていたとしても、神様は共産党が来る道をふさいでくれるというのです。

 このような危機一髪の国内およびアジアの情勢について見るとき、我々が一線で血と涙を流しても、今後この民族にぶつかってくる悲惨な歴史を防ぐ祭物になろうというのです。この民族のために犠牲になろうというのです。そこで今、統一教会の祝福家庭の婦人たちを動員したのです。先生が皆さんと何の怨讐ですか。いつかはよく暮らしなさいと祝福してあげて、今ではほそぼそと生活しているのを足でぽんとけ飛ばして行けというのですから、これは馬どろぼうの中でもこのような馬どろぼうはいないというのです。馬どろぼうの王だというのです。しかし、そのような先生に不平を言う統一教会の教会員は、おそらく一人もいないでしょう。(三八―二六七)

 先生が家庭を動員する時、「まさか先生がそのようにするわけがない。四十日伝道期間にも黙っていらしたのに今回にはこうだろう」と言う人がいるでしょう。四十日伝道期間はぐずぐずして過ぎ去りましたが、この三年期間は行かなければなりません。外れるところがないというのです。他の人はみな出たのに一人で残って事業をするという人は、死んだほうがましでしょう。生きられません。またあとで出た人は月収、日収をすべて埋めて戻らなければなりません。そうでなければいけないのです。その道はどうせ行かなければならない道です。行かない人は先生と何の関係もありません。

 それで、皆さんを出動させるのは何のためですか。み旨を成さなければならないのが我々の運命だからです。み旨のためにすれば善の先祖となり、善の家庭となり、万代に誇れる夫婦の因縁をもつことができるのです。天道に従って行く時は、その国とその義のために行くべきであり、自分個人の欲望と私的な幸福を夢見て行ってはいけません。共産党が滅びるように、「お前のものは私のもので、私のものは私のもの」ではありません。統一教会式では、「私のものはお前のものでお前のものは神様のものだ」と言うのです。完全に違います。私のものはお前のもので、お前のものは誰のものですか。結論は神様のものだというのです。共産党式はお前のものは私のもの、私のものは私のものというのに、統一教会式は私の代わりに神様が入っていくのです。共産党式は自己が入るのです。(三七―二六八)

 み旨から見た時、神様を中心として母子協助を成すためには、父娘協助と夫婦協助が成され、次に母子協助が成されるのです。これが原則です。分かりますか。ですが、神様は逆に摂理してこられるのです。父親と母親の関係がないのに、母子関係があります。夫婦協助がある前に母子協助があり得ると思いますか。聖書を見てみると、今まで母子協助だけしてこられました。異常でしょう? 逆にしてきたというのです。

 夫婦協助過程を経なければ発展することができないのです。母子関係は父親がなくても現れますか。母子協助がある前に夫婦協助の基盤がどこにあったのですか。夫婦協助がある前に神様を中心とした父娘協助がどこにあったのですか。神様を中心とした父娘協助、夫婦協助の過程を経て母子協助が現れてこなければならないのに、今は母子協助しか成されていません。

 父娘協助、夫婦協助は、統一教会の家庭婦人たちを立ててしようというのです。分かりますか。おばさんたちをなぜ死の境地に送り出さなければならないのか。今までの母子協助の基準を蕩減しようとすれば、その道を行かなければなりません。したがって、母子協助の基準を結び、夫婦協助の基準を結び、父母協助の基準を結ばなければなりません。(三七―二六五)

 女性もすべて軍隊以上にならなければなりません。それが天が願う原則的な基準であることを皆さんは知らなければなりません。こういう伝統を残すために祝福家庭が先頭に立ったのです。今回祝福家庭を立てることによって、私の気持ちがどれだけよいか分かりません。この祝福家庭は、以前には見ただけでも吐き気がして、連れて歩きながらご飯を食べさせることを考えただけでも気分が悪かったというのです。「あのかわいそうな者たち、私が何か上げたものがあったか、何かあればもっと上げなくては」としなければならないのに……。その結果がないのです。今まで統一教会の祝福家庭が責任を果たせなかったために、霊界を通して外部の霊通者が、これではすべて滅びてしまうと先生にどれだけ訴えてきたか……。しかし、その方案があるので、その時にすべて処理するつもりです。すべて腐って使えなくなれば切ってしまうのです。今は手術する時ではないのです。その拍子にぴったりと合う時が、一九七〇年から七二年までの三年間です。この期間にすべてが引っ掛かってくるのです。そのような起点に追い込むために、今回、婦人たちを動員したのです。皆さんの中で、婦人たちを動員するといって気分悪く思う人たちがいるなら、地をたたいて、痛哭しながら悔い改めなければなりません。(三八―一二六)

 千二百名が伝道に出る時、先生が命令したことが何でしたか。「皆さんが伝道しに行くのは、信じていない人のために行くのではない。既成教会のために伝道しに行くのだ。失ったイスラエルを探すために行くのだ。三年間精誠を込めなさい。牧師に精誠を込めて、彼らが我々を見習うようにしてみなさい」と言いました。彼らが統一教会の原理の中で、「再臨論一つははっきりしないが、その他のものは全部よい」と言えば、てっぺんからすべて統一させることができるのです。そのようなみ業を上下から作戦して進むのです。

 では、今がどのような時なのかというと、すなわち、このような時に処しているのです。分かりますか? (はい)。既成教会はイスラエル国家においてユダヤ教と同じ立場です。したがって大韓民国は神様のみ旨の中でその方向に向かわなければいけません。そうなれば、民主世界圏とキリスト教圏が自然に連結できる基準となるのです。これが一つになる日には共産世界は崩れるのです。(五八―一四二)

 千二百名の祝福家庭の婦人たちを動員したのは、民族よりもキリスト教のために動員したのです。門前で手荒く扱われたでしょう。しかし、乞食よりもよいというのです。彼らの先祖の中で乞食がいたならば、その乞食についた少しの善までも我々が全部世話をしなければならない責任があるので、門前で乞食以上の扱いを受けなさいというのです。そのように彼らが三回以上打つ日には、彼らが折れて出ていきます。(五六―一一〇)

2 活動に臨む姿勢

 私が現在において三千万の民族を生かすためには統一教会の群れを、ある意味では無慈悲に躊躇せず、死の落とし穴にほうり込まなければなりません。このような考えをしただけでなく、既に実践過程にあります。ここでは意義がないのです。私は難しくてできませんと、そうはいかないのです。このみ旨の前では……。既に出動命令が出たにもかかわらず、自分の事情を中心にしてできないという、そのような話はできないのです。これは負ける運命の前線に立った逃避者の心情です。後退者の心情です。このような人は即決処分するのです。世の中でもそうでしょう。神様のみ旨に責任をもつ路程でそうできないのは驚くべきことで、悲惨なことを私が感じる時が多いのです。私がしなければ私の後孫がするのです。これはもっと恐ろしいのです。これと同じような問題をおいて見るとき、勝敗は現在が問題なのです。(五一―三五一)

 皆さんは、か弱い細い女性の体で国を愛することにおいて李舜臣将軍よりももっとできる時期を迎えたのです。父母を愛することでは誰よりも孝行できる立場であり、世界を愛する因縁をつくることができる立場であり、歴史上に一度しかない全体的な使命と責任を果たすことができるこの時に処している自分であるということを忘れずに、皆さんは精誠に精誠を尽くして、苦労の代価を返すことをなまけないようにしてください。

 朝早く起きても恥ずかしく感じ、遅く寝ても一時間でももっとみ言を伝えたい、という思いをもたなければなりません。人を愛するとき、懐かしい人に会えば夜が更けるのを忘れるのと同じように、懐かしがり愛することができなければなりません。(四三―三三八)

 今皆さんは、女性が間違ったことを蕩減して、大々的に民族的な女性解放の伝統をつくらなければなりません。個人が伝統をつくることができますか。できないでしょう。家庭を中心にして民族が形成されたので、家庭の伝統を立てなければなりません。では、誰が家庭の伝統と家庭の主婦の伝統を立てるのですか。統一教団では神様の前に祝福を受けた家庭が先頭に立って立てなければなりません。祝福家庭が今後新しい国の国民の伝統を立てなければいけないので、祝福家庭の皆さんを一線に送り出すことを避けることはできません。これが神様の事情です。

 ですから、皆さんはすべての精誠を尽くさなければなりません。夜ならば夜を明かしながら、聖地でこの民族のために涙を流す祈祷をしなければなりません。自分の子供が見たければ、見たい心で出てくる涙を流しながら三千万の民族を私の息子、娘の代わりに愛し、私の夫の代わりに愛するようにしてくださいと神様に祈祷しなければなりません。そのような思想を残さなければならないのです。これが新しい国や家庭において、主婦たちの伝統となるのです。(三九―一〇九)

 先生も皆さんを立てて誇ることができ、神様も皆さんを立てて「統一の女性を見習え」と誇れるそのような皆さんとならなければなりません。それだけでなく、愛で行くその道をサタン世界の家庭や女性、サタン自体にまでも讒訴を受けるのでなく、かえって公認を受けることができる我々とならなければなりません。この時がそのような一時なのです。

 皆さんが行くその道はただ遊びに行く道ではありません。家庭の生死の判決において、重要な始点と基準を経て出る道であることを知らなければなりません。そのために、ここにおいては夫のために祈祷するのではありません。息子のために祈祷するのでもありません。ただ国のために祈祷しなければならないのです。それで聖書には「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。……まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・31〜33)という言葉があります。神の国だけを求めなければならないというのです。

 では、神の義とは何ですか。国の四位基台を立てて、天倫の原則を遂行することができる基盤を築くことです。これを完結させて帰る責任が皆さんにあるということを、心に留めておかなければなりません。

 したがって皆さんも、夫と子供たちを心配すれば心配するだけ彼らによくないことでしょう。サタンが侵入するのです。ですからただ神の国と神の義を求め、心と思いを尽くして主である神様を愛さなければなりません。すべての精誠を神様の前に結んで、神様と一つになったその基台の上で、神様と関係する愛の因縁を中心にして皆さんの息子、娘にその愛が伝わらなければなりません。また、皆さんの夫に対しても、神様が哀れに思われ、神様の愛が満たされなければなりません。そうしてこそ正常なのです。(三六―一五一)

 女性はどのようにすればよいのでしょうか。イエス様の新婦の立場でイエス様を殺したそのすべての立場を蕩減復帰しなければなりません。そうするためにはどのようにすればよいのでしょうか。世の中のどのような女性よりも天のために忠誠を尽くさなければなりません。新婦一人を探せずにイエス様が死んだので、女性である人たちは、死の境地に入ろうとも祈祷してはならないというのです。「私を助けてください。み旨のままにしてください」という言葉は出してはいけないというのです。女性は生きていますが、既に死んでいるのと同じです。ですから今後、女性はみ旨の前において不平不満を言ってはなりません。気分が悪いですか。それで死のうとするものは生き、生きようとするものは死ぬというのです。(三八―一二九)

 一九七〇年十二月一日に皆さんに命令をした時以上の心をもって、この命令を断行しなければなりません。もちろん副作用も起こるでしょうし、反発することもあるでしょう。自分の家庭が動機となった不和の余波が、教会にまで及ぶこともあり得ます。

 しかし、これが問題となるのではありません。み旨を心配して私が皆さんを出動させる時、皆さんがもつ思い以上の思いをいつももっていなければなりません。

 皆さんがいつもその命令に従順に出発した時の、初めの思いをもって動くならば、皆さんが行く道は無限に発展することでしょう。しかし、そうできなければ発展できないでしょう。これがすなわち天理です。原理とは何ですか。完全な主体は完全な対象を創造するのであり、主体と対象が完全に授け受けして初めて、そこに神様が運行されるのです。また、神様が運行されれば創造の結実が現れるので、死んでいた生命が復活圏に移ることができるのです。これが原理的見解ではないですか? (四三―二六二)

3 動員の価値

 今までキリスト教が連綿と現れてきたのは、名の知れたある教区長のゆえでもなく、ある教域者のゆえでもありませんでした。天のために名もなく死んでいった崇高な預言者の血を通して、連綿と現れてきたことを知っています。精誠を尽くすか弱い女性の体を通して、精誠を決意する数多くの女性を通して、今日までキリスト教が成長してきて、キリスト教が行く悲惨な道をその女性の涙で覆ってきました。

 男性よりも女性が、キリスト教を中心にして蕩減の解怨を間接的に願ってきたのを思った時に、今日我々が統一教会を中心にして歩んでいく路程で、女性を立てて歴史的な祝福の基盤を準備することができるひと時をもてたことが、どれだけ貴く価値があることなのかを心の底から理解しなければなりません。(三七―三二三)

 ここでは、一度よくする日には億千万年の世界が裏返しになります。天上世界はもちろんであり、地上世界の歴史の方向が転換するだけでなく歴史が逆行してしまうというのです。悪なるサタン圏は、結局ここで全部壊れてしまいます。女性に生まれたなら、一度はこのような闘いをして死ぬ価値があります。そうですか、そうではないですか。(そうです)。(五六―三三二)

 皆さんの家庭が、天の前に蕩減できるように動員されたという事実が栄光なのです。(四四―二九六)

 皆さんをこんなに動員することは、皆さんが歴史と共に生きていくことができるようにするためではありません。この歴史圏内では、よく生活しては今後、後代に残してあげることができるプレゼントがないのです。後代に残してあげられる伝統がないというのです。では、皆さんが生涯の中で残さなければならないこととは何でしょうか。今日この腐った社会の審判圏内で、いつかは除去されなければならないこの世の中に残る伝統ではなく、審判圏を越え、未来に残ることができる伝統を残さなければならないのです。(四三―二六三)

 今、女性も出世する時が来ました。誰のゆえですか? (先生のゆえです)。先生がいなかったらむちゃくちゃになっていたでしょう。今統一教会では女性が優勢です。(三九―一一七)

4 婦人動員後の夫の使命

 先生と皆さんの妻たちは、一つにならなければならないのです。そのような立場に立たなければならないにもかかわらず、夫たちが手紙を出して帰ってこいと言えば、大問題になるのです。夫たちは妻に「お前は私の妻だから帰ってこい」と言う資格がないというのです。もし、そのようにすれば法に引っ掛かり共に堕落するのです。このような人は今後、統一教団の家庭の中で完全に追放されます。原理がそうではないですか。自分たちが干渉する時ではないのです。「来い、するな、何がどうだ」となってはいないというのです。仮に息子たちが具合が悪くても手紙を出してはいけないというのです。自分が死ぬようになろうが連絡するなというのです。ただみ旨のために先生の指揮下にいて、その期間に完全に一つにならなければなりません。

 では、皆さんは、夫たちはどうすればいいのでしょうか。妻に絶対服従しなければならないのです。エバを堕落させた天使長の立場であるので、死ねといわれれば死ぬこともできなければなりません。その張本人なので、死ねといわれれば死ななければならない立場にあるのです。そうすれば復帰されるのです。そのような立場を経ていく時であり、女性に「会いたい、何がどうだ」と言って、行く道において精誠が削減され得るような内容の手紙を伝達しては絶体いけないのです。

 彼らに全体的に侍らなければならず、外的にも内的にも助けなければいけません。(四〇―二一一)

 夫とはどのようにしなければならないのかといえば、妻が世界的に公認を受ける一時があることを知り、動員されたことを栄光に思わなければなりません。女性によって祝福が成されているので、女性が公認を受けることができない時は、男性も公認を受けることができないのです。妻が公認を受けることができない時には、夫がいてもその夫に対することができず、子供がいてもその子供に対することができないのです。

 そのために妻が任地に出ていれば、夫は妻を思いながら昼夜なく祈祷しなさいというのです。「あなたのつらさがすなわち私のつらさであり、あなたの悲しさがすなわち私の悲しさだ」と言えなければならないのです。(三六―二四〇)

 祝福家庭たちは、神様に侍るところにおいて過去と同じ習慣的な生活方式で侍ってはいけません。祝福を受けた家庭として、その国のその民族のために、毎日のように祭物を供える祭司長の家庭を代身したという心情をもたなければならないのです。

 さらに、祝福家庭の婦人たちが一線に出ています。彼らが出ている一線は、韓国においての一線ではなく、霊的にサタン世界の侵入を防備するための一線なのです。皆さんはこれを知って、自分の妻が一線に出ている立場を思うごとに子供たちを率いて、祭司長の責任を果たすことができる心をもたなければなりません。そのような思いをもって寒い日に訪ねてくれば、民族を代身する贖罪の心でその寒さを先に心配しなければならず、自分に困難がぶつかってくればその困難を自分の困難としてではなく、民族の困難と考えなければならないのです。神様と因縁を結ぶためには祭司長として民族を代身して蕩減路程を行くという、そのような思いをもっていかなくてはならないのです。(四〇― 一八四)

 一線に出ている婦人の夫として、あるいは子供を率いている親として、今しなければならないことは何でしょうか。一つの心、一つのみ旨として民族を抱き神様の中心家庭と一つにならなければなりません。そうでなければ、祭司長の責任を担った家庭としての責任をすべて果たせるとは見られないのです。(四〇―一八六)

 婦人たちが出て仕事をするところで一番問題になるのは何でしょうか。夫を愛するのかみ旨を愛するのか、夫を思うのか中心者を思うのか、自分の息子、娘を思うのか中心者を思うのかというのが問題になるのです。

 彼らが一線に出たのは夫を中心として出たのではありません。どこまでも統一教会を指導している先生を中心として出たのです。自分の家庭においては、いくら考えても考えられないのです。家庭では自分の夫の命令に従い動かなくてはならず、子供たちの後始末をしなければならないので、考えがすべて部分部分に分かれてしまうというのです。そうだからといって、夫自体がそうかというと夫もそうできないというのです。(四〇―一九五)

 今動員されて出ている婦人の夫たちは、妻に会いに行きたいという思いがあるでしょう。そこで先生がお互いの出会いを許可するにはしますが、別の二箇所を訪問したあとに、三番目に行って会うことを許可します。分かりますか。

 妻がいる所を訪ねて行くには行ってもよいが、他の一箇所を訪問し、また別の一箇所を訪問したあと、三番目に訪ねて行って会うのです。そうしなければなりません。なぜそうなのでしょうか。蘇生、長成、完成の過程を経て会わなければならないからです。その中で一箇所は妻がいる所と近い所を訪問してもいいのです。

 夫たちは息子、娘たちに教育をしなければなりません。「君のお母さんは世界で一人しかいない、聖なることのため行かれた。このお父さんもお母さんが行く道に従い、君も親が行く道に従わなければならない」と涙の教育をしなければならない。

 「お母さんは国のため、世界のために苦労の道を行くのです。冷たい風が吹いてくるこの冬の夜にも、お母さんは寒い部屋でに横になっているかもしれない。私たちはこのように暖かい部屋で布団を敷いて寝ることを申し訳なく考えなければなりません。お母さんがあのようにするのは私たちを生かしてくださり、我々が行く道を開拓してくださるためであり、お父さんがよくなることもあなた方がよくなるためである。そのような君のお母さんは、世界一のお母さんだ」と、このように夫たちは子女たちを教育しなければなりません。「この次には、お父さんもその道を行かなければならないので、君も大きくなったらお母さんが行く道に続いて共に行こう」と言いながら、お母さんを中心として父子の関係、あるいは父と娘の関係に涙の因縁を結ばなければなりません。そうすることで、この家庭がお母さんの道を相続することのできる家庭になるのです。夫たち、分かりましたか。(三八―二九二)

5 一般食口たちの姿勢

 すべての食口たちは、一線に出ている婦人たちと一つにならなければなりません。一つの心情をもって呼吸を合わせ、歩調を合わせていかなければならない時を知って、一致団結しなければならないのです。そのようにして、今から私の国と民族は私が守らなければなりません。我々の力、我々の力量をすべて投入しなければなりません。すべてを投入して、自らの力が足りなければ神様をつかんで血判するときがあったということを皆さんが知らなければなりません。(四二―一四九)

 それでは祝福を頂いた家庭は三年間苦労しますが、祝福をもらわなかった人はどのようにするのでしょうか。それは一言も必要ありません。行く行かないと考える必要もないのです。平安に昼寝をしながら過ごしたいなら、そのようにしてみなさい。そのようにしたらすべて引っ張られてしまうのです。今まで統一教会に従ってきながら苦労した、すべてのことが全部流れてしまうのです。全部引っ張られてしまうのです。ですから皆さんがよく知ってやりなさいというのです。(三八―一二九)

 今、我々統一教会では千二百名のおばさんたちが一線に出ています。その方たちが一線で苦労しながら、後ろにいる統一教会の教会員を見れば騒いでいますが、発展しましたか。やり易い軽い気持ちで統一教会を信じていたとしても、各自に任された責任を果たさない時には滅びます。一線にいるその方たちは、私の代わりにまず刀を受け矢を受ける立場にいるので、私の服が破られる前にその服が裂かれ、私の顔が焼けるようにその方たちが焼けるのを感じられなければなりません。そのようにする時、前方と後方が一つになるのではないかというのです。皆さんがこのようなことを知りながらも後方にいる人として責任を果たさない時には、神様の世話になるところにいるようになり、神様は福をもらうかもしれませんが、皆さんの後孫は滅ぶことを知らなければなりません。(四一―一二〇)

6 二次動員の時の一話

 きのうは私が水沢里に行ったら、ある人が来て「子供たちを全部家に置いて動員しなさいというので、どのようにしたらよいのか」と言うのです。それを私が分かると思うのですか。どのようにしたらよいのか、君たちが分かるのではないかと答えました。どのようにしたら良いのか、皆さんが最もよく知っているのです。その道は私が行く道ではありません。私が行くべき道は既に全部過ぎてしまいました。私が行く道にも艱難時代があり、風波がありましたが、すべて過ぎたのです。

 春の季節を迎え、今は皆さんが種になって、植えられなければなりません。実になるためには、その環境を全部整理しなければならないでしょう? 寂しい木に付いている一つの実はくだらないものではありません。くだらないのは付けていないのです。そこに付きたくないなら実にならないのです。純粋なものを植えなければならないのです。

 家庭なら家庭で一番貴重なものを選んで植えなければなりません。家庭で一番貴重なものはお父さんではなく、息子、娘でもありません。家庭で一番貴重なものはお母さんなのです。それゆえにお母さんたちを動員しているのです。では、出てきて「ああ……うちの夫がああであるこうである、うちの息子、娘がああだこうだ」と言う人がいたなら、そのような人は必ず倒れるのです。(三六―三一)

 今回家庭の婦人たちを動員することは悲惨なことです。私が一昨日地方の何軒かの家を回って、お母さんがいない子供たちはどうしているのかを見てみました。かわいそうなその子供たちを見た時、気の毒でした。心では、「君たち、お母さんに会いたいんではないか」と思いました。そして心の中でお祈りしました。それで、「君たちのお母さんは、み旨のために三年期間を蕩減しなければならない。この期間は、イエス様の三年間公的生涯期間に相対を迎える基盤を整えられなかったので、それを女性として蕩減復帰すべき責任分担の期間です。それでこの道を行くのです。また全体を蕩減させることのできる内容の心情的基盤が残っているのでお母さんが動員されるのです。あなた方は今は分からないけれど、これはこれから君たちの誇りであり、君たちの家庭の誇りになるのです。今後君の口を通してお母さんを賛美することのできる日が来るのを考えれば、君は寂しい乞食ではありません。心深い、長い歴史において、貴重なお母さんに侍ることができる君たちはどれくらい幸福なことでしょう」と心を慰めてあげました。しかし、実際に見るとそれは悲惨なことでした。(三七―二〇四)

 韓国にいるとんでもない家庭たちが三年の間子供たちを捨て妻を捨て、妻は妻なりに夫は夫なりに、東の方に別れ、北の方に別れ、また子供たちは東南の方に別れ、東西南北の方に別れ、すべて……。大韓民国が福を受けることができる条件とは何か……。祝福家庭を今までたたいて、統一教会滅びろと悪口を限りなく言いましたが、み旨のため出で立つ統一教会の食口に対して……。祝福を受けた家庭は子供たちを全部捨てて出掛けましたが、どこに捨てて行ったのでしょうか。アメリカの地に捨てましたか、大韓民国の地に捨てましたか。大韓民国に捨てました。どこに連れて行って捨てましたか。親戚の家に捨てました。親戚の家が大韓民国ではありません。結局は要するに世界にすべて捨てたのではなく、大韓民国に捨てましたが、大韓民国がつかんで殺さないで保護して面倒を見てくれたのです。

 そのように見るのです。親戚が本当の親戚なのでしょうか。反対するサタンの側であるし、全部カインの側です。反対する父母たちも親戚も、全部連れていって捨てて行くので仕方がなくて……。何かの因縁があったにせよ、全部大韓民国を代表して子供たちをつかんで殺さずに、食べさせて養って生かしたというのです。このようなことによって、大韓民国が罰を受ける道を避けることになったのです。

 大韓民国の経済復興がいつから起こったかといえば、約八年ないし五、六年前だと見るのです。我々の家庭では一九七二年以後から全部受け入れた立場なので、その時から本格的に経済復興の祝福を受けることのできる時と見るのです。そうですか、そうではありませんか。間違いなくそうです。分かりましたか。(はい)。

 我々統一教会の教会員たちが子供たちを全部捨てて行くことによって、どのくらい食べましたか。「ああ、文なにがしは木像よりももっと悪い人だ。虎も自分の子供はかわいいというのに、その文なにがしは、祝福してあげるときは良く暮らしなさいと言ったのに……。鍋と匙をぶらさげて、お金を生活の糧にして暮らそうとしたのに、それを足でけ飛ばして、ひっくり返してしまった」と言ったのです。(笑い)分かりましたか。全部ひっくり返したのです。そして、「行け! 妻も夫も何も、全部、旅立て! 旅立つとしても、一緒に行くのではなく、南に北に行け!」と言ったのです。(一〇〇―二八一)