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五.脱イデオロギー時代を迎えた今日の世界

 我々は今現在、非常に混乱した世界を直視しています。のみならず、反目し、嫉視し、不信が満ちたこの世の中であり、この世界であることを我々は知っています。このような現在において、さまざまな人たちが脱イデオロギー時代、あるいは、価値観が没落した時代であると言っているのを、我々は聞いています。

 さらに宗教人たちにおいては、「今は本当に終わりの日である。世の終わりになった」と言うのを聞くようになるのです。

 これは個人から家庭を経て一つの国なら国、国だけでなく世界にわたってそうなのです。ですから現在、落胆するしかない世界を迎えているということを、我々は直視しているのです。

 このような時において新しい将来を追求するということは、新しい指導理念が個人から連結して、家庭と社会と国家と世界がすべて歓迎できる中心思想を発見することです。それ以外には、新しい将来あるいは新しい希望の世界を追求できないということを、我々は知るようになるのです。

 我々が過去の歴史をしばし調べてみるならば、不確実な神本主義思潮が中世時代を指導してきましたが、その神本主義思想の没落によって、人本主義世界がやって来たことが分かるのです。

 この人本主義時代も責任を果たすことができず、今に来ては唯物史観が世界を襲い、非常に危険な時代に置かれていることを我々は知っているのです。この唯物思想は物本主義思想のようなものとして、終末の思想に処しているという事実を、我々はここから酌み取るようになるのです。(七八―九八)

 現在の時代を指して、「脱イデオロギー時代」または「不確実性の時代」であると言います。今の時代が、「脱イデオロギー時代」または「不確実性の時代」であるという原因を、誰もはっきりと知らないでいます。ただ、現れた現象から見て、その原因に価値観の没落を挙げています。

 現在、アメリカを中心とした自由世界の文化圏に住んでいる若者たちは行くべき道が分からず、彷徨しているのを見ます。そのような現象は、信仰の消失による価値観の没落から始まっています。熱病みたいに広まっていく若者たちの彷徨は、未来において人間世界の破滅を意味してもいます。

 脱イデオロギーによる不確実性の時代が継続していくことによって、人類は現在、絶望の中から抜け出すことができずにいます。知性人はもちろんであり、宗教団体や指導者までも、没落という絶望の沼から抜け出すことができずにいるのを見ます。学問機関とか大学もその没落の熱風を避けられず、だんだんとはまり込んでいます。(一九八二・三・七)

 今日、我々が直面した現実は、不信と不確実性の時代であると言います。諸般の問題が相克することによって不信が蔓延し、不確実な未来に追いやられる焦燥感の中に生きていっているのです。(一九八二・三・七)

 共産党は世界共産党理念を中心として世界万民の統一を夢見て現れましたが、今は世界的共産主義から民族的共産主義へと落ちたのです。これが氏族的共産主義へと落ちる日には終わりであるというのです。民主世界もアメリカを中心としたすべての世界民主主義圏から民族的民主主義、アメリカ自体だけのためにする時へと落ちたのです。アメリカが世界を捨てたので、今、アメリカが分かれて争うのです。そのように、民族的民主主義へと落ちるようになるならば、終わりであるというのです。ですから、最近を「脱イデオロギー時代」であると言うのです。

 価値観がどこにあるのでしょうか。人間の価値とはいったい何ですか。動物的な価値しか目に見えず、それによってすべてのものを線引きしてしまったので、何もないという結論が出たのです。ですから文芸復興が現れて、中世に神に対したすべてのことに反発してヒューマニズムが発達するようになり、今日このような結果の世界をつくったのです。しかし、それは間違っています。動物的な人間だけ分かって、霊的な人間が分からなかったのです。

 神様を否定した運動を再び否定して、つまり否定の否定をして、神様を肯定できる新しい次元の世界へと移っていかなければなりません。その否定されていた神様が再び発見される時には、過去のような神様ではありません。キリスト教が主張したそのような神様ではないのです。次元の高い、キリスト教以上の神様として発見しなければならないのです。信仰の対象であった、そのような神様の時代は過ぎていくのです。(八三―三一〇)

 皆さんが知っているように、今この混乱した世界相を皆さんは眺めているのです。ある人が言うには、今は価値観の没落時代とか脱イデオロギー時代とか言います。このような現時代を我々が直視し、まさに絶望という表題を掲げてあえいでいるのを見る時、この世界を克服するか、あるいは超越するか、飛躍するかして、世界史的な一つの転換時代を必要としているのです。これは韓国民族のみならず、民主世界を指導するアメリカ国民も同様です。共産主義を指導するソ連であれば、ソ連自体もやはり内的な面でそのようなすべての苦痛を受けているのです。何か分からずに、それ自体において飛躍的な明日を願っているのは、どのような個人ももちろんそうであり、民族、国家も同様です。すべてがそのような運命に置かれているために、全世界の転換時期が到来することを願っているのです。(八六―六〇)

 今、世界は絶壁にぶつかったのです。まさに今は世界的な突破口が必要な時であり、世界的な指導者が必要な時です。指導体制がないのです。主人がいないのです。皆さんの心が皆さんの主人になれず、皆さんの家庭で父母が主人になれず、皆さんの国の責任者がそのような主人になれずにいるのです。この世界を指導しているその人たちが世界の主人になれないでいるというのです。みんな主人ではなく、賃金労働者たちです。みんな大衆を搾取しており、自己の利益のためにはありとあらゆることをするのです。このような天意に逆らう行動も躊躇しないでしている、そのような群れがたくさんいるというのです。(八四―二〇七)

 今、どこに行くのでしょうか。行こうとしても行くところがないのです。それでも若い人たちがこうして座っています。我々のような人たちは時間がなくてチクタクする瞬間も忙しく考えるのです。朝出ていく時にこうして座っていたのですが、午後三時になり帰ってきても、そのまま飽きずに座っているのです。行くところがなければならないでしょう。行って見ればもっと悪くもっと複雑なので、いっそのこと単純なのがよいということです。

 皆さんも願わない将来にそのような運命にぶつかるようになるかもしれません。世の中で生まれが良いと威張る人たち、知識層にいると言う人たちを見なさいというのです。日本のような国だけでも、大学教授が自殺する事件があるではないですか。今、共産党が狼藉を働いて、到底その国と民族を収拾する道がないので、いっそのこと死ぬほうがましだとその道を選んだのです。収拾する道理がないのです。

 このような世紀末的な現象をどのように打開して越えていくのでしょうか。乗って越えていくことのできる足場がありません。そのような道がないのです。今、我々には民主主義も必要ではありません。共産主義も必要ではありません。心が願う理想主義、それだけが必要なのです。それを探していくために経なければならない関門、あるいは杖の役割をするのが主義とか思想とかいうものです。主義、思想それ自体は真理ではありません。主義とか思想のようなものは真理を紹介するための杖であり、橋です。その橋を渡って行かなければならないのです。(二七―二三二)

 今日、我々人間は価値観の没落だとか脱イデオロギー時代だとか言いながら騒いでいるのです。それで今は、何かの主体的な思想をもって現れて、世界を導くことのできる指導者を要求する時代になっています。経済問題が問題ではなく、政治問題が問題ではなく、科学的問題が問題ではないのです。真なる一つの宝物的な人間が現れて、新しい革命を提示して人生の理想境を描くことのできる真なる価値の個人から、価値的家庭を経て、価値的な世界まで導くことのできる、そのような主人がいるならばどんなによいでしょうか。それが、現時代において考える人たちの悩みです。(八五―一〇〇)