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1 この民族の試練を克服しようとすれば
それでは、皆さんが難関を克服するためにはどうしなければならないのでしょうか。必ず、み旨を愛し民族を愛さなければなりません。そのようなことを感じるときに、安逸に落ち着いて正常的な生活をし、正常的な環境に置かれている、そのような民族を考えてはなりません。そのような考えをするなら悲惨な民族になります。今は悲惨ではありませんが、今後に悲惨な民族になるでしょう。かわいそうな民族になります。皆さんはこのことを忘れてしまってはならないのです。皆さんの視野に現れたこの三千万民族の群像を見渡すならば、今この民族の行く道は輝く道ではなく、必ず前に陥穽がある道であり、抜け出すことのできない悲惨な運命を抱いていく歩みであることを考えながら、皆さんの内心に抑制できない愛の心と愛国心が燃えなければなりません。そのような危険な時になる前に、我々は盾となって、これに対備して克服できる基盤を先頭に立って準備し、あの者たちを刺激できる起源をつくらなければなりません。そのような心が、皆さんの生活感情に、あるいは、一日一日の生活圏内にわき上がらなければならないのです。
またその次に、神様の摂理を中心として見るとき、神様はかわいそうな方です。今まで数千年の歴史路程を中心として背後で摂理し、キリスト教圏の版図を中心として民主世界の文化圏を形成してこられましたが、そこにある国々の中で神様が自分の事由を通して自分の主権を回復するために代わりに前に立てることのできる国家があるのかと言えば、ないのです。
数多くの国と団体がありますが、そのような内容を中心として蜂起するとか、団結した立場で神様の命令を願う団体や国家があるのかという問題について見るとき、そのような団体や国家はありません。そのような国家はありませんし、一つの国家の理念を中心として、あるいは、一つの国の基盤を中心として天を代身していく群れもこの世界にありません。しかし、我々の団体だけは、全体に責任をもった立場で神様の前に一つの希望の基盤となり得るのです。そのようになり得る群れは我々しかいないという事実を考えるとき、神様がどれくらいかわいそうなお方かというのです。神様はかわいそうなお方です。
それゆえ、皆さんの心の中には神様を愛する心がとめどなく燃えなければなりません。自分の生死が問題ではありません。自分が難しい環境の中で受ける、試練、苦痛が問題ではありません。恨みに満ちたかわいそうな神様の事由を解いてあげ、かわいそうなこの民族に解放の道を提示してあげるためには、残されたこの克服の途上を堂々と歩んでいかなければなりません。そのような闘志力を支えることのできる愛国、愛族の思想と愛天思想、天を愛する思想が、皆さんの心の中からとめどなくわき上がってこなければなりません。そのわき上がる力が強ければ強いほど、今後どんなに難しい試練が近づいてきたとしても、その試練を克服し抜くことができるのです。(四二―一四九)
越えていくべき最後の境界線について見るとき、大韓民国だけでは民主世界の救援摂理も成し遂げられません。この世界には、お互いに行こうとしても行くことができず、来ようとしても来ることのできない境界線がたくさんあります。そのさまざまな境界線を崩して世界を一つの共同的な生活舞台にし、万民が福祉国家で生きることのできるその時まで、引き続き戦っていかなければなりません。どのような障害があったとしても撃破しなければなりません。そのようなものを考えてみるとき、我々の力が不足なことが恨なのではありません。神様を愛することができなかったことが恨なのです。
本当の意味で神様を愛することができなければ国を愛することはできず、世界を愛することはできません。ですから、内的な基準を中心として、何よりも神様を愛さなければなりません。皆さんは統一教会の一員として行くべき氏族的な過程と民族的な過程を経て、国家、世界に向かっていかなければなりません。世界と国家の距離は遠いですが、その差異はいくらにもなりません。(二四―七三)
2 韓民族の生きる道は神様をつかまえる道しかない
この民族に世界的な試練が負荷されているこの時、我々はどのような場に出なければならないのでしょうか。神様は町中にある惨状を眺め失望されるはずです。それゆえ、我々もこのような事実を通して神様の心情を所有しなければなりません。この難しい運命の中で、この民族が生きる道は神様をつかまえる道以外にはありません。イスラエル民族は切迫した状況で、希望のない環境で、神様をつかんで訴えました。その訴えが民族の罪悪史を蕩減し、未来に向かっていく神様と歩調を合わせたので、カナンの地に向かった荒野路程を出発することができたのです。(一三―二六六)
韓国はかわいそうな国でした。今もかわいそうな国です。四方が怨讐に包囲されています。右にも行くことができず、左にも行くことができず、前にも行くことができず、後ろにも行くことのできない立場に立っているのです。ただ一つ行くことのできる道があるなら、そこから天に飛び上がるか、飛んで移るその道しかありません。
このような死の峠の数々が我々の周りに、囲いを巡らしています。それゆえ、ここで神様をつかまえて神様と共に死に、滅び得る覚悟をしていかなければなりません。イエス様が神様と共に滅び、神様と共に死ぬ立場に立ったときに復活の役事があったように、この民族の運命もそのような運命を帯びていることを知らなければなりません。
なぜ、そうなのでしょうか。第二イスラエル圏の歴史を相続した立場にいるからです。韓国はイエス様が民族的な十字架の峠を個人として越えたことを代身して、国家的な十字架を背負って越えていくべき運命に置かれているのです。(二八―二八八)
韓国の実情を眺めてみるとき、韓民族は見込みのない民族です。何ももっていない、何か見いだそうとしても見いだすもののない民族です。では、この民族を救おうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。六千年の罪状を嘆息し、時代的な恨を嘆息しながら、もろ手を挙げてお父様を呼ぶことのできる一つの動きが現れなければなりません。そうしてこそ、この民族を救うことができるのです。
では、ここにどのような人たちが動員されなければならないのでしょうか。今日の現実にあるクリスチャンたちは、我々の教会を迎え入れなければなりません。(一九―二五九)
3 神様の摂理の前に忠誠を尽くす奉献者となろう
皆さん、過ぎ去った以前の自分自身を回顧してみましょう。先生と皆さんすべてが今まで悲惨な道を歩んできました。この三千里の至る所に、この山河の歴史的背景を眺めてみれば、我が民族は悲惨な民族でした。歴史始まって以来、他の民族から圧制を被り、侮辱を受け、彼らから追われてきた民族です。このような歴史的な背景をおもんぱかるとき、この地は歴史的な事由と歴史的な怨恨が結ばれている地であり、この民族は歴史的な悲しみを胸中にしまっている民族です。
皆さんは故郷の山河を恋しがるでしょう? しかし、悲惨で歴史的な悲しみが宿っている故郷の山河だということを考えてみましたか。そこには忠臣烈士たちが悲惨に流した血と涙の時局が残っているのですが、彼らの悲しみを解怨成就しようという心をもってみましたか。そのような心をもって涙を流しながら彼らを慰めてみましたか。
この民族は国運が悲運に置かれていたので、涙を流すしかない事由がありました。この民族を通して全人類を復帰しようとなさる神様のみ旨があるからには、三千万の倍達民族(韓民族)は神様の摂理の前に忠誠を尽くす奉仕者になり、奉献者にならなければなりません。しかし、今まではそのような人がいなかったのです。長い歴史について見るとき、これが我々先祖の恨となり、直接的に復帰摂理を主管してこられた神様の前ではもの悲しさを残したこの山河、この民族になったということを知らなければなりません。
神様が数多くの民族を差しおいて、この国、この民族を訪ねてこられたという事実に三千万のこの民族は感謝し、讃揚しなければならないにもかかわらず、そのようにできませんでした。ですから、倍達民族(韓民族)の後孫として生まれた皆さんは、民族を代身してこの民族のすべての失敗に責任をもとうと立ち上がらなければならないのですが、そのような考えを少しでもしてみたのかというのです。(一七―二六七)
皆さん、着ている服が惜しいですか。脱いで片づけましょう。宝物を持っていますか。虚空に投げ捨てましょう。
それは天の前に出ていく際に、サタンの餌食になるということを知らなければなりません。善のために、血と汗を意に介さずに立ち上がるこれらの前に一寸の土地でも、一着の服でも提供するために眠ることのできない民族になりさえすれば、この民族は世界を支配するのです。
今日、皆さんは時代を創造するために立ち上がったのです。天倫の革命の路程に新しい開拓者として立ち上がったのです。ですから、我々の体には開拓の血が躍動し、開拓の肉が躍動しなければなりません。眠るこの民族をつかまえて天上に向かって祈祷しなければならず、飢えたこの民族の慰安者になるためにあえがなければなりません。そのような皆さんになったなら、今日この時代に踏みつけられて追われたとしても、この民族の前に、この人類の前に必要なその日が間違いなく来るのです。
我々はこのような群れが慕わしいのです。我々はこのような食口が慕わしいのです。我々はこのような人たちを糾合するために、すべてのものを犠牲にしていかなければなりません。そうして、父母が分からない者たちに父母を解明してあげ、兄弟の因縁を知らない者たちに、通説を打ち壊して霊界と肉界の限界を越えて、真なる兄弟の因縁を教えてあげなければなりません。そうして、「あなたが飢えれば私は食べることができないし、私が食べる時にはあなたも食べなければならない」という心情が、民族感情以上に、世界のどのような思想や主義の感情以上に強くなるならば、神様の解怨の役事は自動的に繰り広げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。(一〇―一〇九)