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三.終末を迎えた今日の世界

1 個人主義の現象が深化されていく今日の世界

 エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になり、お互いが怨讐になりました。全部怨讐だというのです。それゆえ、皆さんの子女もすべて怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になるのです。兄弟間が怨讐になるのです。国同士怨讐になり、すべての因縁が全部ばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにありますか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向をわきまえることができず、どのようなものが善であり、どのようなものが偽りなのか、より分けられない時が来ようものなら、その時が終末だということを知らなければなりません。その時がまさに今です。

 子供が親を殺す事件が起こり、親が子供を殺す事件が起こります。世の中で天を中心として教える師弟間は、牧師と教会員であるにもかかわらず、教会員が牧師に刃物で刺され、牧師と教会員の間で決闘が繰り広げられるのです。そのような時が来るなら、終末であることを知りなさいというのです。それはなぜでしょうか。エバとアダムが怨讐であり、アダムと天使長が怨讐であり、神様も全部怨讐になったからです。そのような根をもった歴史は、全部戦場として結果を結ぶ世界が繰り広げられるのです。(五〇―二一三)

 今日、堕落した世界では自分の父母を殺した者もおり、あるいは、兄弟を殺した者、親戚や隣人を殺害した者もいます。兄弟同士お互いに殺し合い、あるいは、氏族同士お互いに殺し合った縦的な数千年の歴史的現象が今日になって、いっぺんに横的にこの地上に現れたのです。そのような現象によってすべての人が個人主義に陥っていっています。彼らには神様もありません。親兄弟や隣の人々に何らの関心もない個人主義者、独善主義者となりつつあります。それが今の世界的現象です。

 皆さんもすべて個人主義に陥っていた人たちです。先進国家になればなるほど、個人主義の現象が深化されていきます。個人主義者たちは、サタン世界の最も先頭に立った機関車です。彼らの眼中には、国もないうえに家庭も兄弟もあずかり知らず、ただ個人だけがあるのみです。個人主義者たちは、アダムとエバを堕落させた天使長のような思考方式をもった人たちです。

 堕落した天使世界では相対関係が許されません。人間が堕落した天使長に似て個人主義者になれば、国を失い、家庭までも失うようになります。自分しか考えられないので、結局はもっているものすべてを失ってしまいます。個人主義現象が深化されればされるほど、分裂の現象が現れます。(五五―一五二)

 天地開闢とは何でしょうか。逆さまになるということです。そのような終末になって、神様の新しい時代を迎えようとするので、お母さんが分からず、子供が分からず、人倫道徳を完全に破綻させる時代になるのです。分かりますか。(はい)。子供もおしまいです。子供で何をしますか。お金もおしまいです。お金も集めてみると、国ですべて奪っていきますね? お金で何をしますか。権力で何をしますか。三日間も保たずにすべて秋風に散る木の葉となるのに……。

 今まで貴いと言ったものはすべて破綻します。親は子供が分からず、夫は妻が分からず、妻は夫が分からず、それから、子供は親が分からず、兄弟が兄弟を分からず、国の民は国王が分からず、また、それと同時に神様が分かりません。宗教人もすべて神様を忘れてしまう時です。主義主張がすべて飽和状態になるのです。民主主義もすべて飽和します。民主主義をもってしても滅びます。共産主義をもってしても滅びます。すべて滅びます。このようなめちゃくちゃな世界になっていくのです。(一六二―二八二)

2 中心のない今日の世界

 今日の世界を、混乱した世界だといいますか、平和な世界だといいますか。(混乱した世界だといいます)。今日の世界を、中心が決定された世界だといいますか、中心のない世界だといいますか。(中心のない世界だといいます)。今日の世界を、希望に満ちた世界だといいますか、でなければ、絶望に満ちた世界だといいますか。(絶望に満ちた世界だといいます)。全部が反対になっています。今、そのような時が来たというのです(四四―九二)

 今日の世界を見れば中心がありません。世界人類が行くべき中心たる所がどこなのか、ということを知らずにいます。どのようなものが善なのか、どのようなものが悪なのかを分からずにいるというのです。個人が行くべき善の場所がどのような所であり、家庭が行くべき善の場所がどのような場であり、民族と国家が行くべき善の場所、世界が行くべき善の場所がどのような所なのかを知らずにいるのです。(五七―八三)

 世界を眺めれば中心がありません。そうですね? 個人の中心がどこにあるのかというと、ないというのです。アメリカも全世界の先導的国家の立場に上がっていっても中心がないので下りてくるのは、すべて個人主義のゆえです。「おい! この文化世界は嫌だ。原始時代に戻ろう! 着飾って、食べ物に不自由しないのも嫌だ。ごみ箱から拾って食べなさい。それから服を着るのも嫌だ。原始人たちのように、破って脱いでもよい。車も高級車で走り回るのではなく、捨てたもの、始動しない車がよい」と、今そのようにしているというのです。全地が西欧のようになって、このようにしなければならないという標準がありません。ですから、既にアメリカは倒れ始めるというのです。がらんがらんといっぺんにすべて倒れるのです。(六四―一八五)

 世界がなぜ絶望に陥っていますか。主人がいません。中心となる主人がいないのです。中心に立つ主人がいないので、絶望であるというのです。皆さん、自分を見れば、皆さん自身の中心がどこなのか分かりますか。分かりません。アメリカがどこを中心として成さなければならないのか分からないのです。世界がどこを中心としなければならないのか知らずにいるのです。センターがこのようにあれば、垂直に九〇度を描くことができなければならないはずなのに、すべて四五度、八五度、全部がまちまちです。また反対に二七〇度、このようになっているのです。世の中は反対に回っているというのです。(九一―五六)

 皆さんがご存じのとおり、現世になって、いかなる面でも今後、世界の人は中心的な理想的形態を備えることはできない、という結論を下すことができます。このような時代に我々が願う道があるなら、跳躍するとか、飛躍しなければならないという話をしています。跳躍し、飛躍する際には、盲目的跳躍、盲目的飛躍はあり得ません。確実で正確な目的を中心としてそのような方向に従う飛躍と跳躍という言葉は成立しますが、目的観が設定されず、方向が決定されなくては、飛躍したところで、跳躍したところでどこに行くのかが問題となるのです。それゆえ、今後の世界は暗澹とした世界です。民主主義の世界もそうであり、共産主義の世界もやはり同じです。(七四―二二一)

 今日のこの世界はどのような世界なのかといえば、中心がない世界です。そのことを知らなければなりません。世の中にも中心がなく、すべての我々の社会にも中心がないというのです。主人がいないのです。皆さん自身を見るとき、皆さん自身においての中心は何でしょうか。心が主人の役割をしていますか。心が主人ですか。ある時には体が主人の役割をするのですが、それをすり替えなさいというのです。

 これが混乱した世の中です。世界が行き止まりの壁にぶつかってあえいでいる実状を我々は眺めているのです。これをどのように解決するのでしょうか。この問題は考える人、あるいは、世界を指導する人たちが至急に解決しなければならない問題です。その解決法案は哲学者の中で現れ、科学者の中で現れるでしょうか。哲学者の中では現れません。科学者の中にも現れません。また、経済学者の中にも現れません。これはほかに方法がないのです。人類の父母の心情を代表できる基盤を通してこそ、現れ得るのです。(八五―三一六)

 終末に門を開放できるのはいかなる主義でもなく、思想でもなく、また人間でもありません。ただ神様だけです。そして、この門を開放するために主が来られることをはっきりと知らなければなりません。堕落した人間がどんなに忠誠を尽くしても、解放する道理(方法)がないので、天地の法度のすべてのみ旨を奉じてこの門を開放できる主人が来なければならないというのがメシヤ待望思想です。(一六―二三四)

 歴史上に数多くの先祖がやって来ては逝きましたが、神様のみ旨を整えて成し遂げようとしたものは、常に完成できませんでした。それゆえ、神様は個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を代表して勝ったという基準をいっぺんに整えて、サタンの前に堂々とした権威によって現れ得る一つの世界的代表者を送ろうという約束をしてこられたのですが、そのようなお方がメシヤです。

 歴史始まって以来、悪なる世界を完全に清算し、善なる世界へと越えることのできる時に主が来られるようになるのです。(六九―一二一)

3 終末に現れる運動

 終末になれば、どのようになるのでしょうか。終わりに行けば一つです。一番最後に一つになるのです。その終わりに近い時代になれば、四つのやからが争い、四つのやからの争いが終われば、三つのやからが争い、三つのやからの争いが終われば、二つのやからが争う時代が来るのです。今日のこの時代は人間歴史の終末時代に該当するのです。一つに近づいてくる終末だというのです。(一六四―一六)

 共産主義ならば共産主義、民主主義ならば民主主義を中心としただけでは、一方通行することはできないでしょう。

 それゆえ、どれか一つを第一として、他を否定するのが、その目的に向かううえで、より次元の高い立場に立てるのです。すなわち、より高い次元をもって自分を否定しなくては、我々人間が願う真なる一つの目的の世界に到達できないのです。それゆえ、宗教ならば宗教にも、今まで生命を投入してきて、全生涯を捧げてきた信仰生活を否定して超越することのできる、一つの道が終末には現れなければなりません。

 国家ならば国家、民族ならば民族を否定し、超越できる、より次元の高い愛国心をもった人にならなければなりません。思想にしても共産主義以上、民主主義以上の何かが現れて、それを否定して現れることのできる運動が繰り広げられなければなりません。そうしなくては、人間が願う必然的な目的を追求することができないのであり、その場に到達することもできないのではないですか。これは間違いのない事実です。それゆえ、終末には、自分が一番よいという者が自分を救うことができないという結論が展開されるのです。このことを皆さんは知らなければなりません。(六一―二九一)

 民主世界がどうであり、共産世界がどうだということがすべて分かりました。何かの内容をもってどんなに共産党が宣伝したとしても、世界は共産党をすべて知り、民主世界がどんなに宣伝したとしても、すべて分かったというのです。

 それでは、今から知らない世界運動が始まるのです。色の違う世界運動が始まるのです。それが共産主義でもなく、民主主義でもなければ何でしょうか。ここにおいて神様の主義が介在しようものなら、人間が知らない主義となります。それゆえ、普通の人が知らない主義が宗教です。(六〇―六三)

 終末になれば、一つの新しい文化世界と新しい世界史的な運動が繰り広げられるのです。(六七―一八六)

 神様のみ旨は世界を救うことであって、一つの国を救うことではありません。一つの国を犠牲にし、一つの国民を犠牲にしたとしても、世界を救わなければならないのが神様のみ旨です。神様の行く善なる方向を中心として国民全体が一つになって、この世界のために全体を捧げてその国家の主権を越えることのできる一つのみ旨のための道が現れたなら、そこには一つの世界を模索できる方法があると思うのです。しかし、そのような主義と思想が今までありませんでした。それが現在の民主世界の方向を通して現れ得るのかといえば、既に、現れ得ないということをその実験結果は証しています。共産世界を中心としても現れ得ないということは、既に実験の終わった証拠です。

 では、このような運動がどこから現れるのでしょうか。これが神様を中心として新しい方向を模索する所に現れるということは、言うまでもないのです。(五三―二四四)

 人間世界でどんなに絶望が広がり、どんなに混乱が広がり、どんなに失望が広がったとしても、神様がいて、メシヤを送ってあげようという約束がある限り、人類は失望せずに希望をもたなければなりません。

 共産主義もだめです。民主主義もだめです。神様のそのような思想をもった人類の中心存在が現れて、神様と人類が一つにならざるを得ない、このような核心的な運動が地上で繰り広げられれば、すべての良心とすべての思想の混乱もここから是正されて、一つの理想世界が顕現するということを我々は理論的に知らなければなりません。(九一―一五〇)

4 今の時は収穫の季節

 全体の完成というものは、全体の蕩減を通して成されるのです。それゆえ、先生は怨讐を愛する立場から出発せざるを得なかったのです。

 天国はサタンの主管圏の中心点から出発しなければなりません。サタンが最も愛するものから反対される立場で殴られながらも、愛の心情をもって一番端からずっと自然に屈服させてこなければならないのです。過ちのないものを打つときには損害賠償をしなければなりません。それは宇宙の原則です。神様は賠償基盤を通して蕩減復帰していきます。サタンが打ったのとそっくりに打てば、賠償されるものがなくなってしまいます。殴られるときに素直に殴られ、殴られてから復帰しなければなりません。このようなことをしながらずっと復帰していけば、サタン内部の最も重要なものまで復帰します。

 そのようになれば、植えたものを刈り取るようになります。種を植えれば必ず同じ実を収穫するようになります。悪いものは悪い倉庫に、よいものはよい倉庫に分けて入れるのが主人の使命です。この地上には二つの種が植えられています。悪い種とよい種が植えられています。それゆえ、よい種は天の倉庫に入れ、悪い種は火の玉を入れて燃やしてしまわなければなりません。

 今の時は収穫の季節です。サタンが蒔いた種を見れば、すべてばらばらに散らばっています。限界に到達しています。ですから、すべて一つにしなければなりません。そのような運動をしているのが統一教会です。

 この世界は個人主義の世界です。家庭も父母も子女も兄弟も氏族も民族もすべてがばらばらに散らばっています。しかし、統一教会は国家を超越して、氏族を超越して、家庭を超越して、すべて一つの世界を主張しています。サタンと反対の働きをしているのです。

 結婚だけを見ても、昔は同じ民族の中でしてきました。しかし、我々は六大州から五色人種が集まってきました。日本人が夢にも考えなかった韓国人と結婚します。そして、黒人と白人が結婚します。夢にも考えなかったことを、神様の愛を中心として当たり前のこととしてするようになりました。そのようにしてすべて一つにさせるのです。サタン世界は分裂し、破壊されて、滅亡の世界に引っ張られていきますが、そのような渦中で統一運動を展開して、神様の世界へと引っ張り入れるのです。(一九八三・四・三)

 アダムとエバが涙で蒔いてしまったので、涙で刈り入れなければなりません。それゆえ、終末においての堕落人間は、心で神様を思慕しながら、「神様、私を救ってください」と言わなければならないのです。歴史の悲しみによって神様の悲しみを代身し、時代的な曲折を代身して、神様の曲折を解こうと思いながら、責任を負う立場で涙を流すことができなければなりません。この世の中の人たちは自分を中心として慟哭しますが、我々はこの世界を中心として涙を流さなければなりません。神様は個人の希望のために涙を流す者よりも、一つの公的なみ旨のために涙を流す者が現れることを待ちわびていらっしゃいます。

 アダムとエバが堕落してエデンの園から追い出されるとき、アダムとエバはもの悲しい涙を流しました。神様は哀れみの心を施されて、後孫である我々を堕落しなかった立場に復活させるための一日を待ちわびてこられました。しかし、追放された人間は、歴史的に誇ることのできない大悪党になりました。

 けれども、神様はこのような人間を復帰しなければならない心情的な因縁があるので、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス様を経て、今まで耐えながら救援摂理をしてこられました。このような恩賜を考えながら、我々は現在の心情の因縁ではない、歴史的な心情の因縁をもって神様の前に訴えなければなりません。(一六―二三五)