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第四節 終末を迎えた今日の世界

一.終末とは

1 終末が生じるようになった原因

 キリスト教においては、過去の歴史を通して調べてみるとき、終末がいつになるのかということが問題になってきましたが、今この時においても、それが問題になると見ることができます。終末になれば、主が来られて審判すると思っています。また天地異変が起こって、日と月が落ち、天がすべて壊れると思っているのです。

 本来終末という言葉は宗教から現れた言葉です。仏教では終末を末法時代といっています。キリスト教では終末といいますが、いったい、この終末がどのようになって生じるのかという根本的な問題を、我々は考えてみなければなりません。

 絶対的な神様が計画されるその世界は永遠なものでなければなりません。一度始まったなら、永遠に続かなければなりません。絶対的な神様が経綸するこの世界に終末が生まれるのは、神様が設定されてなされるものではなく、人間の堕落によってなされるものであると考えざるを得ません。結局は善が永続できず、悪が出発したのが終末が生じた原因です。

 善であられる神様から造られたアダムとエバは、善なるエデンの園で暮らしていました。もし、アダムとエバが堕落しなかったなら、善は永遠に続いたはずです。アダムとエバの堕落によって、善が出発できずに終わりを見たのです。

 神様のみ言を正常な立場で信じることができるにもかかわらず、人間の先祖がそのみ言を不信して、死がこの地上に生じたという事実を知らなければなりません。アダムとエバに、神様のみ言を不信し戒めを犯すよう誘惑する一人の主人公が現れたのです。アダムとエバが神様のみ言を不信し、この主人公の誘惑に引かれていくことによって、サタンがこの世の中の主人になり、堕落したアダムとエバはサタンの対象になりました。不信の結果によって、滅亡の世界、神様と関係のない死の世界が出発しました。

 そのような立場で、神様は善として出発できなかったこの世界をそのままただほっておくことはできないのです。人間をまた再び回復させ、ある一時に善の出発をしなければならないのです。

 イザヤ書第四十六章十一節を見ると、神様は、「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」と語られました。そのためには、神様を中心として絶対的な信仰を立てなければなりません。不信によって悪が先に出発し、サタンを中心として悪なる人間と滅亡が生じたので、それとは反対にして初めて、生命の世界が成されていくのです。(六九―一一九)

2 終末とは新しい希望の時

 終末はいつですか。悪なる世界が始まったことによって天の側の人間が現れて、これを清算して、個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に善なる世界に向かって帰っていこうとする時ごとに、終末の現象は現れるものなのです。いわば、悪なる世界のすべてのものを清算し、サタンのすべての讒訴条件と汚されたものを脱いで、善なる世界へと越えることのできる中心的な人が、個人的に越えるときは個人的な終末であり、家庭的に越えていくときは家庭的な終末であり、氏族的に越えていくときは氏族的な終末であり、民族的に越えていくときは民族的な終末であり、世界的に移っていくのは世界的な終末になるというのです。

 それゆえ、終末というものは一つの時代が行き、新しい一つの時代が来ることをいうのです。終末になったからといって神様が、創造された日と月を壊してしまい、地を滅ぼしてしまわれたなら、それはサタンのゆえに壊してしまうことになるので、失敗した神様になってしまいます。サタンによって地が汚され、日と月が今まで悪なる人を照らしていただけでも口惜しいのに、そのみ旨を一度も成し遂げられずに壊してしまえば、神様はどのようになられるでしょうか。エデンの園で神様のみ言を信じずに不信して死が入ってきたので、それを復帰するためには、神様を絶対的に信じる一人の人によって、すべての人が信じることのできるみ言を立てて生命圏へと移っていかなければなりません。(六九―一二一)

 終末というものは何かといえば、新しい歴史の結実、現実の新しい中心、未来に誇ることのできる新しい起源を決定できる時なのです。(二五―四六)

 終末というのは何でしょうか。終末は神様の召命圏が今日の我々の国家圏内に、あるいは、自分の家庭圏内に制限されている時代ではありません。これが個人に置かれていれば、その個人が世界と完結する時代であり、これが家庭に置かれていれば、その家庭が世界と完結され得る時代です。そして、世界と連結された、その時代が現世のものとしてだけ残っているだけではなく、み旨と連結され得る時代に通じることのできるそのような時が終末に違いありません。その終わりとは何かといえば、歴史的な全体の路程を新しく清算し、勝利という決定的なある限界点を立てておいて、飛躍できる時です。(九九―二九二)

 歴史上に終末があるという話は、天を中心として見るとき、幸せな話だというのです。審判という言葉は悪い言葉ではなく福音です。悲しみの立場から数千年間呻吟してきた歴史的な恨を解くことのできる、怨恨の心をもった息子、娘の恨を解いてあげることのできる一日にならなければならないので、そのような審判の一日が来なければならないのです。それゆえ、公儀の法度をもった天地の裁判長であられる神様として、それは必ず宣布しなければならない言葉なので、キリスト教の審判されるという言葉は幸せな言葉です。

 統一教会が今まで願ってきたのは……。歴史は蕩減歴史を経ていくので、世界は必ず滅びなければならないのであり、滅びるようになるときには善と悪が交差する過程を経なければならないのであり、その交差点から上がっていかなければならないのであって、落ちてはならないのです。それゆえ、神様を中心とした一本道だけが栄光の道、真なる栄光の道にならざるを得ないのです。(六五―一四六)

3 終末はすべてのものを見分けるのが難しいとき

 終末はどのような時なのかといえば、夜なのか、昼なのか、これが正しいものなのか、あれが正しいものなのか、混乱してこれもあれも見分けられない時です。

 エデンの園でアダムとエバが堕落するときも、正しいものなのか、間違ったものなのかはっきりと分別できる目的観があったのでもなく、主管性があったのでもなく、判断できる能力ももっていなかったことを知らなければなりません。右側に方向を取らなければならないはずなのに、左側に取ったのが堕落です。アダムとエバは、すべての事実をはっきりと知らない混沌の中で堕落したのです。

 では、いつを終末と見なければならないのかというと、今だということができます。なぜなら、聖書には、終末になれば羊とやぎを分けておく、とあるからです。羊は主人がいる者のことをいい、やぎは主人がいない者のことをいうのです。

 皆さん! 共産主義は左翼であり、やぎです。左側の羊はやぎだと聖書でいっています。やぎは主人がいてもそれが分かりません。共産主義者たちが神様が分かりますか。民主世界は羊です。羊は主人を見分けます。民主世界の人たちは神様が分かります。今日のすべての現象は、聖書に現れた終末をほうふつとさせています。(六九―一二二)

 終末はどのような時代かといえば、歴史的なすべてが蕩減される時代です。ですから、混乱した時代が来るのです。宗教、経済、文化など、すべてのものが混乱に見舞われるようになります。それゆえ、終末になった、主が来られる、我が集団を通さなければならない、我々でなければ救いを受けることはできない、という言葉が現れるのです。

 そばで見ると、すべてのものが平面的な一つの時代に起こるようですが、その面を見れば歴史的であり、全体的なものが絡まっているのが現実です。現実がこのような世界的な渦中の中にあるので、混迷した状態になるのです。このようなときは、宗教の目的がぼんやりとする時であり、哲学の目的もぼんやりとする時です。さらに、家庭の目的がぼんやりとする時であり、民族の目的もぼんやりとする時であり、国家の目的もぼんやりとする時です。目的を志向するすべてのものがぼんやりとするのです。

 終末時代にはこのような複雑な環境が繰り広げられます。宗教界でもそうであり、思想界でもそうであり、家庭でもそのような環境が繰り広げられます。儒教思想の三綱五倫を主張しながら、父母の前に孝誠の道理を果たしなさいと言いますが、その道理が壊れつつあります。皆さんの母親がどこにいて、夫婦がどこにいて、兄弟がどこにいますか。「ああ、私は分からない」と、このようになるというのです。師に対しても同様です。

 それゆえ、終末にはこのような混乱を正す目印を立てることができないのです。暗澹としたものから出発したので、暗澹とした結果として現れるのです。(一六―二三五)

 サタンの前に完全に譲歩したので、終末になれば、サタンの思いどおりに激しく殴るのです。ですから、世界の大混乱時代が来るのです、大混乱時代。そのようにして再臨の主がこの地に来られた後には世界がひっくり返るのです。一周走らなければならないのです。個人的に一周走らなければならず、家庭的に一周走らなければならず、民族的に一周走らなければならず、国家的に一周走らなければならず、世界的に一周走らなければなりません。(一六五―六三)

 終末が近づいてくればくるほど、すべてのこの世的秩序に破綻が起きるのです。サタンは必ずそうします。父母が子供を見分けられず、子供が父母を見分けられず、夫が妻を見分けられず、妻が夫を見分けられず、国の主権者がその国民を見分けられず、国民がその主権者を見分けられず、すべて二つに分かれるのです。そのような時が来るのです。これは我々が理論的に推理して、そのような世界像を考えることができるのです。

 その時がいつでしょうか。その時がまさに今だというのです。その時は一つの国が疲弊するだけでなく、全世界的に混乱するのです。民主世界を見てもそうです。一九六〇年代だけでも、そのように荒れて大騒ぎしたアメリカが、今は腹痛を起こしているのです。腹でぎゅるぎゅるといっているのですが、それがいつ、いっぺんにあふれ出るか分からないのです。(笑い)それがあふれ出ようものなら、疲労困憊してごろごろと転がるのです。さあ、その処方薬を何で作ろうかと神様は考えることでしょう。(七四―二三九)

 お互いに重なっていっています。どのようなものが真なのか、偽りなのか、善なのか悪なのか見分けることができなくなっています。そうでしょう? ここに統一教会が統一思想を中心として世界的に新しい頭角を現して、渦巻くこの世界の中にさっと挟まるようになったのです。回っていくのです。これをどこで抜き出すのでしょうか。あの地獄の底に降りていくと、たぎり立って天へと上っていくことのできる時が来るのです。(五一―一二〇)